【雑記】客席ガラガラの演奏会に思うこと
2012.11.22 Thursday
私がよく見に行く内田樹氏のブログで、シンポジウムのお知らせとして、以下のような文章が掲載されていました。
労働力を市場で売って、貨幣を得て、それで商品やサービスを買うという従来のスタイルをこの若者たちは「不合理」だとみなします。
なんで、いちいち市場に繰り出して、貨幣を媒介させなければいけないのか。
そんなのめんどうくさい。それより、自分のしたい仕事をして、それに価値を認める人から、貨幣を媒介にしないで、ダイレクトに商品・サービスを受け取る方が「話が早い」。
自分の持っているものを、自分の欲しいものと交換するためには、「自分が余分に持っているものを欲望し、かつ自分が欲望しているものを余分に持っているひと」と出会うことが必要です。
これは「欲望の二重の一致」と言って、経済学的には「ありえないこと」とされてきました。
でも、いまはこれが「ありうる」のです。
インターネットがあるから。
欲望の二重の一致が成立するなら、市場も貨幣も媒介しない交換が可能になります。
この若者たちが市場と貨幣にこだわりを持たないのは、別に「清貧」とか「ユートピアニズム」ゆえではなく、「市場とか貨幣とか、迂回するのが面倒」だからです。その方がスピードが遅いから。
案の定、日頃から内田氏を日教組の手先だとか、「世の中はこれでいいのだ教」の教祖だと非難している方からは、「だったら原稿料とか講演のギャラを物々交換してもらえば?」とか「パプアニューギニアへでも行けば?」とまたまた非難轟々。まあある意味当然の反応。
私はというと、初めはこの文章を「え?この人、何言ってんの?」とポカーンと口を開けて読んでいました。この論の正否について何か思ったというより、何だか全然現実味のない話をしているように思えたからです。でも、全能感丸出しで内田氏のことをこき下ろす経済学者さん達のツイートを見ていると、最近目にしたある光景を思い出して、感じ方が変わりました。「そんな風に表面だけ捉えて非難していいのかな?」と。
何を思い出したかというと、先日のマウリツィオ・ポリーニの2回のリサイタルのガラガラの客席でした。何だかんだと批判を浴びながらも、まだクラシック音楽界の最先端を走る人気ピアニストが、ベートーヴェンの後期のピアノ・ソナタを弾くというのに、サントリー・ホールの2階席にほとんど人がいない。1階席も信じられないくらいに空席が目立っていて、ポリーニが気の毒になったのでした。
理由はいろいろあるでしょうが、やっぱり入場料が高いことが大きな要因だろうと思います。私は、28〜32番のソナタを全部聴きたいと思い、2回ともに一番安いP席のチケットを買いましたが、それでも1回が12,000円、計24,000円というのはやっぱりきつい。結果的に、その値段に見合う、いや、それ以上に価値のある演奏を聴くことができたので、その値段自体に文句を言うつもりはないのですが、やっぱりこの値段はきつい。しかも、最高席に至っては30,000円。ベートーヴェンの21番以降のソナタ全曲を聴けて、しかも、現代曲も聴けるということで、スペシャルな演奏会なのは分かりますが、昨今の気が狂ったようなコンサート・ラッシュの中、ポリーニだけに資金を注ぎ込むのはなかなか難しい。日頃、コンサートに行きまくっているコンサート・ゴーアーであればあるほどきつい。ポリーニを我慢して、最近好調な在京オケの演奏会を聴く方がいいという考え方は十分に成り立つ。
こういう状況、とってもまずいと思うのです。
何が一番まずいかというと、若い人たちが、若いうちに、超一流の演奏に触れる機会がどんどんなくなっていくことです。なぜなら、若い人たちはとにかくお金がないからです。勿論、若い人がお金を持っていないなんてのは世の常には違いありませんが、でも、今の時代、働こうにも口がなくて収入が不安定な上に、将来に対する希望も持てず、人生設計がまったく立てられない状況にある若者が増えている状況で、誰が一晩30,000円もするリサイタルになんて行けるでしょうか?最低ランクの席だって馬鹿にならない。若い人たちが、超一流のアーティストのコンサートに行きたくても行けない。
しかも、です。最初に掲載した内田氏の文章で書かれていたように、「市場も貨幣も媒介しない交換」へと関心が移っているのです。これ、私の職場の若い人たちを見ていても、何となくそういう空気があります。彼ら彼女らは、全然モノを欲しがらないのです。(メーカーなのに!)車も欲しがらない。いいモノを買おうという気も余りないように見える。だから、出世してお金を稼ぎたいとかいう欲望をギラギラさせる人もほとんどいない。個人レベルを見れば、みんな能力もあるし、人柄も良いのだけれど、やっぱり草食系という言葉がしっくりくるくらいにゆったりして、自己完結している。お金を稼いで、金のかかることをしたい、贅沢したい、いいものに触れたいという欲望を増大させることなんて、頭にないみたい。それに、みんな将来を不安に思って貯金し、お金を使わない傾向にあるともいいます。だから、超一流のアーティストのコンサートを、いつか聴きに行けるような身分になりたいとさえも思わないのかもしれない。ましてや、海外まで行ってホンモノを聴きたいとも思わないのかも。
そういう状況が続いていくと、若い人たちは、ポリーニみたいなチケットの高価なアーティストの演奏会には、そもそも目が向かなくなるのではないでしょうか。既にクラシックが好きになっている若者でも、激安BOXで過去の歴史的名盤が聴ければいいし、ポリーニだったら70年代の名盤がウソみたいな値段でが買えるのだから、もうそれでいいじゃないかと思うのかもしれません。ホロヴィッツの初来日公演の時のように、どんな素人が聴いても「何かヘンだ」と思わずにいられないような演奏を聴かされたのならともかく、本当に素晴らしい演奏が聞けたのに本当にもったいないことです。
チケットの値段だけが問題ではないのかもしれません。演奏会の数がとても多くなり、魅力的な演奏会がバッティングするケースが頻出しているし、ネットの時代、口コミでいい演奏家の情報がどんどん流れるので、客足が分散してしまうからということもあるでしょう。超一流の演奏家のコンサートで格安のチケットが出ても、若い聴衆の数が増えていないケースを見ます(最近ではクレーメルや、マゼール/N響)。梶本音楽事務所とかNBSという招聘元の「商売」のやり方に問題はないとは思いませんが、それ以上に何か社会の構造的な問題の方が大きな要因になっている気がします。
若者たちのアンテナに、クラシックのコンサートがどんどん引っかからなくなっていく。そうなると、一体どうなるでしょうか。
今、コンサート会場に集まっている聴衆の多くは、はっきり言うと、年寄り。ある程度の経済基盤を持った余裕のある方々。この方々がせっせとチケットを買ってくれるので、音楽業界が成り立っているので、私は感謝こそすれ、「コンサートに年寄りは来るな」などという暴言を吐く気にはなりません。やっぱり大切な人たちだと思います。でも、この人たちもやがてコンサート会場から姿を消していく。あの有名なサスペンダーおじさんだって、まだまだお元気そうですが、ずっと未来永劫見られる訳ではない。
すると、今、コンサートを経済的に支えてくれている世代が退場してしまった時、次の時代を担う若いファン層が育っていないままだと、世代交代ができなくなってしまう。そうでなくともこれから日本の人口は減っていくのですから、クラシック音楽の市場が今のまま続くことはほとんど不可能です。しかも、ハコモノ行政の一環で各地に次々と建てられた地方のコンサート・ホールなんて、せめてカラオケ大会で使ってくれるお年寄りがいなくなったら、もはやホールをインフラとして維持するこそすら難しい。
どう考えても、このままの状況ではクラシック音楽の世界に「明日はない」ということになってしまいます。
客席にお年を召した方がたくさん来られることが悪いのではなく、それ以上に、若い人たちがクラシック音楽から遠ざかっていくという状況がまずいと私は思うのです。そして、それは決して若者のせいではない。むしろ、私たち大人が、若い人たちや子供たちに対して、私たちはこんなに素晴らしい文化を持っているのだ、この善き文化を守り、ますます発展させ、伝えていくことは私たちの義務であるということを、もっと積極的に伝えていく努力を怠っているからではないかと思っています。
確かに、音楽なんて個人的な趣味であって、それを人に押し付けるのは違うと思いますが、自分たちが良いと思ったもの、自分の次の世代の人たちに「残してあげたい」と思うものをアクティヴなものとして存続させながら、若い人たちがいつでもアクセスできる場を提供することは大切だと思うのです。そこまでやってもなお、未来の聴衆が興味を失ってしまうことがあるかもしれない。私たちが残すべきと思ったものは実は大したものではなく、私たちが忘れ去ったもの、気がつかなかったものこそが後世の人たちにとって価値のあるものだった、ということもあるかもしれません。でも、それでも、私たちは私たちの持っている最良の文化を後世に伝えていく義務がある。
例えば、J.S.バッハの音楽は、バッハの死後、急速に忘れられていました。しかし、一部の見識ある音楽家たちは、決してバッハの功績を忘れることはなかった。細々とでも彼の音楽を継承し続けていた。それがやがてメンデルスゾーンの出現によって、一気にリバイバルすることになる。大事なのは、後世の人たちがアクセスする場を残しておくことだと思います。クラシック音楽に興味を持つ若い人が増えているのか減っているのか、私はデータを持っていないので正確なところは分かりませんが、ある一定の人数はいるはずなので、クラシック・ファンを増やすことよりも、コンサートに行きやすい環境を作るということが大事ではないでしょうか。そこでクラシック音楽の本当においしいところを見つけてもらって、クラシック音楽の「奥の院」へと誘導し、クラシック音楽の担い手となる聴衆を育てていくということ。
つまり、私たちが取り組まなくてはならないのは、若い人たちがクラシック音楽にアクセスするのを支援することだと思います。そのためにも、まずは、コンサートのチケットの価格をどうやって下げていくかが最重要課題。下手すると中国や韓国に聴きに行ったほうが安いなんてことにもなってしまうかもしれないのです。しかも、アーティストへの正当な報酬も確保して、決して演奏会の質を落してはならない。市場や貨幣の介入しない世界、パプアニューギニアのような物々交換の社会にも似た世界に住む人たちが、どうやったらクラシックのコンサートに足を運んでくれるようになるか。きっと音楽業界の方々も一生懸命考えておられるのでしょうが、やっぱりこのチケットの高さだと難しい。大阪市長に「企業努力が足りない」と言われかねない。
今、私は、まったくの素人の妄想レベルに過ぎませんが、その方法をちょこっと考えています。勿論、片手間に考えている訳ですし、何のビジネスセンスも持ち合わせない者の戯言にしか過ぎないのですが、もう少し考えがまとまったら、このエントリーの続きとして考えを書きなぐるかもしれません。ま、誰にも期待されてないことなので、気楽に、気長に考えたい。
と、今日は久しぶりに会社の飲み会に出てちょっと酔っているので、いつもにも増して酩酊したような文章になってしまいました。明日、正気に戻って読み返したらきっと消したくなるだろうなあ。
おわり。
私もクラシック音楽のブログを書いていますが最近思うことは、作曲した当時の生活と現代の生活に大きな差異があるということです。
美しいメロディ、ハーモニーをただ愉しむのも愉しみですが、自分の感じ方と他者の感じ方の違いをブログ等をとおして新たに知ることも私の今の愉しみの一つですね。