【雑記】文楽いじめとヒンデミット事件

2012.11.27 Tuesday

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     今朝、ツイッターのTLを見ていて、RTされた大阪の橋下市長のツイートを見てびっくりしました。
     文楽の観客数が増えているようだ。(ニュース記事はコチラ)大変結構なこと。技芸員の頑張りが伝わっているのだと思う。政治は何事も結果。文楽が大切だ大切だと偉そうに文楽を語っている人ほど観客増のために何も貢献しない。補助金で観客が増えるわけではない。これが維新の会の哲学。

     顎がはずれそうになりました。

     技芸員の頑張りが伝わっているという点と、補助金で観客が増えるわけではないという点は大賛成です。しかし、このツイートの真意は、どこからどう見ても、「俺様のおかげで観客が増えたのだ」というところにしかない。他に解釈の仕方があるのなら教えて欲しい。田中真紀子文相が、大学新設を承認するしないで散々迷走した挙句、「良い宣伝になった」と言い放ったのと同じ構造に見えます。

     百歩譲って、橋下市長の力で注目が集まった成果だと認めたとしても、しかし、その観客増の「意味」に目を瞑るのは卑怯だと思います。あくまでこれは、橋下市長の執拗な「文楽いじめ」に対する市民の抗議の結果です。

     これを見て、ある歴史上の事件を思い出しました。1934年11月、ナチ統治下のドイツで起こった有名な「ヒンデミット事件」のこと。

     ヒンデミットの新作歌劇「画家マチス」がナチスからの通達で上演禁止になっていたところ、フルトヴェングラーは、ヒンデミットがオペラの素材を使用して編んだ交響曲「画家マチス」を初演し、大反響を呼んだ。これを重く見たナチスは執拗なヒンデミット批判を展開し迫害し始めた。

     そんな時にフルトヴェングラーは、敢然と立ち上がり、新聞に有名な論文を発表します。フルトヴェングラーの秘書を務めたベルタ・ガイスマー(ナチに迫害されイギリスに亡命、ビーチャムの秘書になる)の書いた「フルトヴェングラーと共に」という本から引用してみます。

     フルトヴェングラーは、あのすっかり有名になった論文『デア・ファール・ヒンデミット(ヒンデミット事件、1934年11月25日)』を書くに至った。

     文中、彼は、パウル・ヒンデミットの周辺に展開された戦いについて述べている。彼は、ヒンデミットがユダヤ人と関係があり、二人の亡命ユダヤ人と共演し、それをレコードにも録音しているという理由で彼が新政権の下では"容認できぬ"者であると決めつけた政治的攻撃がいかに不当なものであるかを、まず主張している。

     (略)

     11月25日、日曜日、それは日曜版の第一ページに掲載された。この新聞は"旧"ドイツの頃には最高の発行部数を誇ったもので、その朝はベルリン・フィルの公開総練習の当日で、フィルハーモニー・ザールの通りには人が大勢出ていた。新聞は、売り子の手からひったくられるようにして買われていた。その日、あまりにも売れすぎて、ドイッチェ・アルゲマイネ・ツァイトゥンク日曜版は、さらに増刷されねばならなかった。

     会場ではフルトヴェングラーが舞台へ現れた瞬間、聴衆は全員立ち上がって足を踏みならし、歓声をあげて激しい意思表示を二十分あまりも続けたためにフルトヴェングラーはその間演奏を始めることもできなかった。

     その日曜日、いつもは極力避けていたのだが、フルトヴェングラーは再度指揮棒をとることになっていた。夕刻、国立歌劇場でのワーグナー「トリスタンとイゾルデ」を指揮したのだった。切符は完全に売り切れてしまっており、ゲーリングもゲッペルスも共に各自の専用桟敷席に収まっていたが、フルトヴェングラーがオーケストラ・ピットに姿を見せたとたん、朝のフィルハーモニーで起こったのと同じことが起こった。何者でも止めることのできぬ、あたかも永遠に続くかと思われるほどの拍手が劇場いっぱいに広がった。

     あの素晴らしい前奏曲が始まり、憂愁につつまれた雰囲気が作品を一層もりあげて、それはすべての聴衆の心に深く浸透していった。終演後にもまた開演の時のような拍手の嵐が再現した。

     ゲーリングにはこれらの出来事が何を意味するか、すぐにわかったはずである。その夜彼はヒトラーに電話をかけ、フルトヴェングラーが国の権威を危機に陥れようとしていると伝えたと言われる。この大衆の見せた示威行動は、真実フルトヴェングラーに味方したものであって、それはすなわち政府への反抗に他ならぬものだったから。
    (ガイスマー著「フルトヴェングラーと共に」東京創元社刊p.190-191)
     もちろん、当時のベルリンと、今の大阪とでは余りに事情が違っていて、文楽の世界で当時のヒンデミットほどの迫害を受け、フルトヴェングラーほどに恫喝まがいの妨害をされた人はいないでしょうから、橋下市長をヒトラーやゲーリングと一緒にする訳にはいきません。

     でも、文楽を観に行った人のうちかなりの多くの人たちが、ヒンデミット事件の際に、フルトヴェングラーとヒンデミットに拍手を送ったドイツ市民と同じように、良識をもち、自分たちの文化を愛している人たちであると私は信じたい。ただ興味本位で行った人も勿論いるでしょうけれど、それだけでは前年比1.6倍までは増えないと思います。このままじゃいかん、文楽がなくなってしまう、という危機感がそうさせているはず。(かく言う私も是非観に行きたいと思っていますが、まだ実現できていなくて悔しい)

     自分の都合の良いようにばかり解釈していないで、ちゃんと「民意」を見据えてほしい。

     そして、市長はこんなことも言っています。 
     次はリピーターを増やすこと。現代語訳の文楽のニーズが非常に高い。時間もコンパクトなものも。観客の視点で。これだけ増えたのに次回から減ったとなればそれは端的に文楽の責任だ。役に立たない文化人の意見は聞かない方が良い

     本当にそんなニーズがあるんでしょうか?まあいいでしょう、たまにはそういう企画があっても。でも、それはあくまで「呼び水」でしかない。文楽に限らず、どんな芸術も、鑑賞者が自らの意志で能動的に、その楽しさ、面白さを探るための手がかりを与え、敷居を低くする工夫は有益です。間違いない。でも、商業的な成功のためだけに、芸術作品を作者の意図から離れたものへと捻じ曲げてハードルを低くさせることは、かえってこれまでの固定客の足を遠のかせてしまう結果になり、その本当の面白さを伝えていく人たちが消えてしまう。それはものすごく大きな損失です。

     この「観客の視点」という言葉が非常に曲者だと私は思います。先に引用したガイスマーの本から再び引用してみます。

     「政治もまた芸術である。しかもそれは最高の広範囲を包括する芸術」であるとゲッペルスは答えている。だから「現代ドイツの政治にたずさわる我々もまた自身を芸術家と思っている」という早急なひとりよがりは別としても、彼は「人民の中に根ざした芸術のみがよい芸術である」という理論を示している。
    (ガイスマー著「フルトヴェングラーと共に」東京創元社刊p.105)


     このゲッペルスの言う「人民の中に根ざした芸術」というのは、実は「純アーリア人の芸術」を指し、要するにユダヤ人排斥を意味しますので、明らかに橋下市長の主張とは意味は異なりますが、しかし、為政者の勝手な解釈によって「人民の中に根ざした」「観客の視点」とかいう綺麗な言葉を使用する点では、とても似通っています。あの市長さんが言いそうな言葉に思えて仕方ありません。

     そして、「今回は俺様の温情で助けてやった、でも、次に失敗したら全部お前らの責任だ、自分らで責任取れ、それが民意だ」と恫喝まがいの脅迫をしている。これはプロの喧嘩師のやり方。これをいじめと言わずして何と呼ぶのでしょうか。

     こういう人たちが芸術分野にどんどん介入してくるとどうなるか。しつこくガイスマーの本からこんな引用をしておきます。

     ずっと以前から、ドイツ人芸術家の外国での活躍であるとか、国外での展覧会の開催とか、また隣国との国境に近い都市などでの芸術活動といった、何らかの意味で政府の公約援助を必要とする芸術分野に関する問題はすべて外務省第七課の管轄とされていた。そしてヒトラー以前には、特に高い教育をうけた人々が選ばれてこの課に配属されたものだったが、新しいドイツ政府がこの課を閉鎖してしまうとは誰もが想像しないことである。

     ベルリン・フィルハーモニーにしても、日頃は全くどのような外交面の公約援助も受けていなかったものの、外国旅行などでひとたびそれを必要とする時が来れば、すぐさま外務省第七課から適切かつ綿密をきわめた援助が得られたものだが、この関係もある日突如としてヴィルヘルム通りから第七課の事務所が姿を消して断ち切られてしまった。(略)

     だが、以前からこの課に在籍した人々を少しずつ追放してその仕事をとりあげたゲッペルス輩下の職員たちは、まさに仕事の内容とは完全に異質の連中であった。なにより彼らは粗野であったし、無能で、この種の文化活動についてほとんど無知なくせに、ナチに典型的な威嚇的独断を無理じいする彼らは、この仕事の機微を知り尽くしてくれていた昔の紳士的な職員とは雲泥の差であった。そして、これほどにもこまやかな神経で構成されていた組織がしだいに崩壊して、やがてその仕事そのものが衰退していくのを、私たちは手をこまねいて見ていなければならぬのが、なによりも残念なのであった。
    (ガイスマー著「フルトヴェングラーと共に」東京創元社刊p.149-150)

     維新の会の人たちが、統治機構の変革を成し遂げ、芸術文化活動にどんどん口出しするようになると、きっとガイスマーが目の当たりにしたベルリン・フィルの悲劇と同じようなことが繰り返される気がします。何?1940年代だってフルトヴェングラーとベルリン・フィルはあんなに素晴らしい演奏をしていたではないかって?バカを言ってはいけません。あの凄まじい演奏は、戦争と、ホロコーストの犠牲と隣り合わせでおこなわれた命懸けの記録です。あのような状況で「良かった」ことなど何一つないのです。

     今、文楽にせよ、クラシック音楽にせよ、残念ながら経営状態が赤字垂れ流しになってしまっている現状はあるでしょう。しかし、苦境に立った芸術系団体の経営を改善するために、今、地方自治体がやるべきことは、芸術活動に携わっている人たちを悪者に仕立て上げて叩きまくった挙句にその人たちを退場させ、そして新たな権益層を作り上げて芸術の質を低下させることではないと思います。補助金がなくてもやっていけるような方法を共に考え、経済的な自立を支援する仕組みを提供すること、そのためにも、アートマネージメントの超一流の人材を育成する(海外から招聘する)ことではないでしょうか。

     そして私たちも、自分たちの愛してやまない芸術文化の火を絶やさないために何か行動をしなければならないのではないか。ただ好きな公演を選んで足を運び、SNSで音楽家と薄いつながりをもって喜び、ただの「賢い消費者」になっているだけではもうダメなんじゃないかと自省を込めて、そう思います。何より私たちの自身の問題なのですから。

    ※追記(2013/3/22)
     続きというか、上記エントリーの補足のようなものを書いています。
     よろしければコチラもご覧下さい(【自己批判】私が言いたかったこと

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    2019.12.04 Wednesday

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      コメント
      >ただ好きな公演を選んで足を運び、SNSで音楽家と薄いつながりをもって喜び、ただの「賢い消費者」になっているだけではもうダメなんじゃないか

      禿同、ってやつですかね
      • by とおりすがり
      • 2012/11/27 10:47 PM
      > 私たちも、自分たちの愛してやまない芸術文化の火を絶やさないために何か行動をしなければならないのではないか。

      当然、文楽には足を運んでいるんですよね?
      • by 遅レスですが
      • 2013/03/21 6:31 PM
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