【雑記】文化庁長官の発言に思う

2013.02.11 Monday

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    ・近藤誠一 文化庁長官









     昨日のことですが、文化庁長官が東京芸大でおこなったという講演のスライドを写した写真がネットで出回り、そこそこ私のTLでは話題になっていました。どんなことが書かれていたか、引用します。

    一般の人が芸術を体験・鑑賞することで何が得られるか?

    (1)音、色彩、形、香り、味などが与える心地良さ

    (2)メッセージに感動
    ・苦難を乗り越え、目標を達成する喜び
    ・愛が成就した喜び
    ・家族愛(親への孝)の素晴らしさ
    ・友情の素晴らしさ
    ・正義が最後には実現することの素晴らしさ
    ・家系、組織、国に尽くすこと(忠)の素晴らしさ
    ・恩、義理に報いることの素晴らしさ
    ・それらが叶わなくても、一途に努力し続けることの素晴らしさ
    ・教訓

    引用先
    https://twitter.com/OkmtEli/status/299779691806593024/photo/1

     これを見て、「なんじゃこりゃ」と思わない人は、きっと日頃は芸術文化とは縁の遠いところで生活している人に違いないと私は思いました。脊髄反射的にこの写真をリツイートしましたし、他の人とツイートを交わしもしました。

     しかし、今日になって、そもそもこのスライド写真をリツイートしたアーティストが、謝罪のツイートを出しました。そこで述べられていたことは、長官の講演では、文化庁が予算をとるためには、芸術家にとっては笑止千万なことだろうけれど、このスライドに書いているようなことを方便として申請せざるを得ない、どうか笑って許して欲しい、という文脈でこのスライドを見せ、話をしていたらしいのです。

     あ〜、いたたた、やっちまった。文化庁長官、ごめんなさい。申し訳ありません。私はこのスライドの文言が長官ご自身の考えだと勘違いして、揶揄するようなことをツイートしてしまった。文脈が不明なのに、あるところだけ切り取ったものだけを見て何かを判断するのは非常に危険だし、下手をするとこういう間違いをしてしまうということを痛感しました。ネットでの情報リテラシーということについて、今いちど、自分なりに考え直さないとなあと反省しているところです。

     ところで、この文化庁長官の講演の一件から、よく分かったことがあります。それはどういうことか。

     なぜ文化庁長官がこのような「方便」を使わなくてはいけないかというと、文化庁が予算をとるためです。では、その予算はどうして必要かというと、文化芸術を振興するため。では、なぜ文化芸術を振興する必要があるのか?それは、社会にとって芸術が必要だから。それ以外には理由はない。

     しかし、です。本当に社会にとって芸術が必要なのでしょうか?

     私は思いました。あんな方便を使わなければ予算が下りない(あるいは、使っても下りない)のであれば、恐らく、世間一般の「民意」としては、芸術なんて必要ないということなのだろうと。

     財務省の役人から「この予算は本当に必要なのですか?一体それにどんな費用対効果があるのですか?」とツッコミを入れられた時、「これこれこういうことに役に立つから。これくらいのコストに対して、これくらいの税収が見込めるから。」などと相当に具体的な裏付けを示さなければならないはずですが、そのための「ロジック」が、「人々が、国に尽くす素晴らしさを体感できるから」などということだったりする訳です。つまり、芸術は、それによって国民の意識が国家への忠誠心に向かう、だから役に立つのだというようなこと。文化庁長官の説明は、役人や政治家は、そんな稚拙なロジックでしか動かないということを示していると言えます。

     では、それは芸術に無理解な「お上」だけのことなのでしょうか?

     たぶん、そうではない。私たち「一般人」全体でも事態はあまり変わらないはず。だって、特に音楽が好きでもなく、日常的にコンサートに足を運んだりディスクを買ったりしないような人たち、「音楽は嗜好品」「金持ちの娯楽」と考えているような人たちに対して、そんなぜいたくな嗜好品が社会にとってどうして必要なのか?東日本大震災からの復興が急務である日本で、金持ちの娯楽になぜ税金が投入されなければならないのかということへの答えを、わかりやすく、明確に、誰もが納得のいく言葉で説明するのって、ちょっと考えればとても難しいということは分かる。それができるという人は、一体どれくらいいるでしょうか?

     少なくとも私はできません。「私にとって必要」なんて話ならいくらでもできます。一日中でも熱く(暑苦しく)語ることができます。あるいは一般論として「必要」ということもできる。先日私が感銘を受けたバレンボイムの言葉を借りたり、どこかで読んだ名言だとかを引用して、まるで他人事のように話すこともできる。素人の私にだって、それはあんまり難しいことではない。でも、「私たちにとって芸術が必要」という話になると途端に難しくなる。例えば、誰でもいい、住んでいるところの自治会か何かで、「私たちの社会に芸術に必要か?」という話題について議論する機会があったとして、誰もが納得する「必要である」ということの根拠を私たちは示すことができるでしょうか?絶対に難しいはずです。

     そんな状況なので、結局は、この近藤長官がスライドに書いたような(書いたのは官僚かも)、こんな貧弱な言葉でしか「社会における芸術の必要性、効果」を語れないのじゃないかと考えると、思わずしょんぼり肩を落としてしまいます。ああ、所詮、こんな人たちの間で、私たちクラシック音楽ファンはひっそりと生きているのだということを痛感します。

     絶望的な状況だと思います。高度経済成長期、バブル時代ならまだしも、こんな状況で、国や地方自治体からの補助、援助を「前提」として、つまりアテにして、文化事業を実行していくのはもう限界ではないか。私たちは、「家系、組織、国に尽くすこと(忠)の素晴らしさ」なんて言葉を持ち出してようやく、「芸術が社会に必要かどうか」がやっと説明できるかできないかという社会に生きている。伝統芸能やオーケストラへの補助金をカットするという市長が一定の支持を集めているのも、そう考えれば特段不思議なことではありません。

     でも、絶望している場合でもない。何かできることがあればやらなければならない。

     私たちは、自分たちの大切なものは、自分たちで守らなければならない時代を生きている。国が何とかしてくれる、誰かがちゃんとやってくれるという考え方では、守りたいものが守れない。年金のことを考えても、あるいは最近話題の生活保護のことを考えてもわかる。あるいは、高度成長期に作られたおびただしいインフラが老朽化し始め、修理や維持管理だけでもものすごいコストがかかってしまう状況の中で、住民がお金を出し合って自分たちでインフラを整備するようなケースも増えていることも、そういう流れの一環として捉えられるでしょう。そんなのは嫌だ、やりたくない、国や自治体がちゃんとやれと頑なになってみたところで、それはただのわがまま、結局、自分のことは極力自分で守らなければならない時代になってしまった。

     芸術文化も同じことです。私たち自身ができることをやっていかなければ、芸術家の活動の場を守り、その成果によって私たちの欲求を満たしていくことはできない。音楽や美術なんて所詮は個人の趣味なんだから、自分は今まで通り好きなものをただ享受していくという考え方の人がいてもそれは間違いじゃないし大いに結構ですが、誰かが、これからどうやって私たちの社会の中で芸術文化を維持発展させていけるのかを考えていかなければ、立ち行かなくなってしまう。無理解で権力欲の旺盛な政治家の気まぐれによって、私たちが何世紀にもわたって育ててきた文化が一瞬にして簡単に壊されてしまう。

     私が、このブログの「客席ガラガラの演奏会に思うこと」というエントリーで述べたかったのはそこなのです。私たち民間人、素人の間で、芸術文化を守っていこうという動きを活発化し、これまで国や自治体から出ていた補助に頼らずとも、芸術文化がビジネスとして十分に成立するようにしていきたいということなのです。

     そのために私たちができること、すべきことは、これまで音楽界を支えてきた人たちを糾弾し、チケットの不買運動をして追い込んでいくことでは決してありません。カジモトやNBS、あるいはポリーニを叩いてみたところで何ら変わらない。アコギな商売をやるエージェントを弾劾しても、それに代わって新しい形態の事業を推進できる人たちがいなければ、意味がない。

     ならば、誰か一人でも二人でもいいから、芸術文化に対してお金が流れていく仕組みを作れる人が出てきて、少なくとも芸術文化を必要とする人たち(作り手・受け手の両方)に、そして未来の人たちに対して、ちゃんと芸術と触れる機会を確保することができる方法を考え、具体化していくことしか残された道はありません。ああ、そんな素晴らしいことを実現できるような高い志と能力をもった人、いませんかねというのが私の本意です。○○運動をやるから、あんたも参加しろ、などというような主張をしている訳ではないのです。

     例えば、ポリーニの演奏会で考えてみましょう。現状は、チケット代がある程度以上の値段でありさえすれば、客席がガラガラの状態であってもなんとかビジネスとして成立してしまうのですが、今後もこんな演奏会を続けていたら、高価なチケットを買う若い人たちはホールから足がどんどん遠のき、招聘元の利益はほとんど見込めないだろう。演奏家の側でも、空席だらけのホールでは演奏しないと来日を拒否する人たちも出てくるかもしれない。そして、そのうち演奏会自体が開けない状況になってしまう。

     そんな問題点を解決するにはどうすれば良いか。まずは海外のスター演奏家のリサイタルでは、チケット代が高いためにガラガラになってしまっていたとしたら、どうすればチケット代を安くできるかを考えてみる。例えば、クラウド・ファンディングの手法を用いて、一般のファンから広く薄く資金を集めてプールし、そこからチケット代の一部を負担させるとか。そういう「仕組み」を考えたいと思っているのです。

     それができなかったらどうなるか。私たちの代はまだ何とかなるかもしれない。でも、私たちの子供の世代より後、どうなるでしょうか。私たちが散々消費している芸術文化を、ただ赤字を垂れ流す不経済なものにしてしまったら、それらが消えてしまうというだけでなく、莫大なツケを後の人たちが背負っていかなければならなくなる。立派だけれど時代遅れで経済効率の悪い遺産を残してしまったら、後の人たちが維持・管理するのも、処分するのもなかなかに大変なことになってしまう。それと同じことが起きる可能性がある。

     見方を変えると、私たちのような「下々の人間」でさえも、そんなことを考えないといけないくらいに、今の日本のクラシック音楽、いや芸術文化が危険な状況にあるのだと思っています。「聴衆の側で運動をやろうなんて笑える」と揶揄する人はして下さって構わないのですが、私の書いたブログにある程度の反響があったのは、私の言う「危機的な状況」を感じ取っている人たちがそれだけの数いて、何とかしなければという風に思っていることの証左だと思っています。

     なので、私自身、文化庁長官の話を誤解してしまったこと、私が本当に言いたいことをちゃんとブログで説明できなかったこと、この2つについて深く深く反省しつつ、これからもどうすべきかを考えていきたいと思います。

     最後に、近藤文化庁長官の言葉を引用してこのエントリーを閉じます。長官は、資料での発言などを見る限り、とても良識のある立派な方だと思いました。

     政府にサポートしてもらう、企業メセナにお金を出してもらうなどと人に頼らず、自分で何ができるか、何をしようかという姿勢が大切。人生において文化芸術、とりわけクラシック音楽が大事だということをあらゆる場面で言う、言うと同時にコンサートに連れて行く、演奏するなど小さいことを重ねていくと人々の意識が次第に高まり、ものすごい力になると思うんですよね。社会全体の意識の問題ですが、小さいことから火がついていけばいいなと。(略)誰かが一刀両断に解決してくれるということを期待せずに、じわじわ広がるきっかけを作って欲しいと思いますね。
    国や都道府県は本来、文化・芸術の中身に一切タッチすべきではありません。あくまでも民間の創意工夫と自由なやりとりに任せるべきです。(略)国といっても、もとは国民の税金です。国民に、文化や芸術は生活に欠かせないものだ、大切なんだ、というしっかりした認識がほしい。(略)博物館や音楽ホールは、単なる箱物ではありません。町の中の不可欠な存在、文化的なインフラと考えるべきです。精神的な支えの拠点でもあります。
    「「生活に不可欠」の認識を」(2011年8月4日 朝日新聞)

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    2019.12.04 Wednesday

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      コメント
      確かにクラシック音楽が「なぜ必要なのか」を説得力ある論法で説明するのは本当に難しいですね。
      私のような人間に取ってみれば「生活するためだから」の一言に尽きるのですが。

      一つだけ思うこと。
      「ガラガラの演奏会」=「チケットが高いんじゃねぇ?」
      きっと、これは少しだけ違うのではないでしょうか。
      人々はポリーニの演奏会が面白くないから行かないんですよ。

      本当に欲しいものだったら、高くても行きます。インバル&都響だってそうですよね。
      (ポリーニほど高くないけど、サラリーマンのお小遣いでは高いです)

      ラ・フォル・ジュルネだって、
      一つ一つの演奏会の価格設定は安くしてありますが、行きたいものを全て行けばどのくらいの金額を払わなくてはいけないでしょう?
      それでも皆行くんですよね。

      人々だって、決して愚かではありません。
      ポリーニの演奏会は単なる「つまらないもの」として判断されているのではないでしょうか。

      CDの価格についてですが、
      安ければ売れるわけではありません。
      EMIのSACDシングルレイヤーなんて、高ければ高いほど売れるんです。
      安くても売れないものは売れません。

      昔、健康食品関係の会社の社長さんに聞いた話で、
      「化粧品と健康食品は、どのくらい商品に価値をもたせるかで勝負が決まる」とのことでした。

      現在、エージェントは(私たちも含む)各々の演奏家たちの売り込み方が下手なのではないでしょうか。
      例えば、一昨年のリュビーモフのシークレットライヴを企画した人を知ってますが、今でも「伝説の一夜」として話題に上ります。
      来た人は満足し、行けなかった私はひたすら嫉妬するんです。

      行きたくなるような演奏会。
      これを企画する必要があるかと思います。

      • by yoshida
      • 2013/02/11 7:38 AM
      yoshidaさん、コメントありがとうございます。
      さすがに音楽業界の真っ只中におられる方のご意見、傾聴すべきものだと思います。
      確かに、チケットの値段が安ければ客入りが良くなるというような、
      そんな単純なことではないのはよくわかっています。
      もちろん、多くの人が聴きに行きたいと思えるような演奏会を企画する、
      これは大事なこと、というよりそれが最も大切なことだというのは自明です。

      ただ、すべてを市場原理に任せてしまうというのは、
      とても危険なことだとも思います。
      需要の少ない現代音楽やマイナーな作品を敢えて取り上げ、
      世に問うていくような挑戦的でリスキーな取り組みをする人たちの活動が、
      市場原理の陰で消えていくようなことはしたくない。
      リュビモフのシークレットライヴは幸運にして私も聴けました。
      ほんとに、その企画をしてくださった方に涙を流しながら感謝したくなほど、
      素晴らしい演奏会でしたけれど、
      あれをもしも料金をとってやったとしたらどうでしょうか?
      やっぱり客席ガラガラだったんじゃないでしょうか。
      企画側はますますリスクをとらなくなってしまうと思います。

      だから、ただ作り手が「商売の成り立つ」ものを提供するということ以外に、
      芸術文化の活動に対して、より多様で豊かな活動を支援できる仕組みを、
      知恵を集めて築いていくことが必要なのでは?と思います。

      繰り返しになりますが、作り手の方々の意識を変えてもらうことは、
      もちろん最重要であることは言うまでもありません。

       私は現在大学で音楽を学んでいる学生です。遅ればせながらこの記事を読ませていただき、これは私たちこそが真剣に考えていかなければならない問題だと痛感しました。
       「自分で何ができるか、何をしようかという姿勢が大切」耳が痛いです。自分を含め、私の周りの人は確かに他力本願でした。現状を憂いながらも、どこかで「誰かが何とかしてくれる」と思っていたのです。そういう考え方が積み重なって今のような状況を作り出したというのに。
       以前、こういう話がありました。「芸術は必ずしも人生に不可欠なものではない。それを仕事にするとはどういうことか考えなければいけない」こういう言葉が出てくること自体が、現代の芸術が衰退の一途をたどっていることの証明だったのですね。
      • by Hiro
      • 2013/09/20 1:05 AM
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