【思い出の演奏(4)】リムスキー=コルサコフ/交響組曲「シェラザード」 〜 クルト・マズア指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管(1979.11.06 神戸文化ホール)

2013.02.15 Friday

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    ・クルト・マズア












     先日、評論家ノーマン・レブレヒト氏のブログを見ていたら、指揮者クルト・マズアが怪我をしたというニュースが紹介されていました。イスラエル・フィル客演のために訪れていたテルアヴィヴで、どうやら滞在先のホテルで転んでしまったらしく、"a broken hip"を"replace"したとあります。正確なところは分からないのですが、腰から大腿部のどこかの骨を折って人工骨置換手術を受けたと読めます。

     マズアというと、昨年、パーキンソン病で闘病中であることを発表し、その直後に、パリでの演奏会中に指揮台を踏み外して怪我をしたという、冷や汗もののニュースがあったばかりだったので、85歳の巨匠の健康状態が心配になってしまいます。

     そう、クルト・マズア、もう今年で86歳なのです。このブログに以前も書いたことがありますが、私がクラシック音楽を聴き始めた頃に、初めて親に買ってもらったベートーヴェンの交響曲全集のLPが、マズア指揮ゲヴァントハウス管の1回目の録音(Victor盤)でした。ですから、当時からマズアという指揮者には特別な思い入れがあり、今まで彼の指揮する演奏を聴き続けてきました。ディスク、実演ともに、私が最も多く接してきた指揮者のひとりです。

     ということで、マズアの健康を祈る意味も込めて、これまで私が接してきたマズア指揮の演奏で、最も印象的だった、ある演奏会について書いておきたいと思います。

     それは、1979年11月、彼が当時の手兵ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団を率いて来日した折の、神戸公演。音響効果が比較的良いとされる神戸文化ホールでの演奏会で、曲目は、モーツァルトの「皇帝ティトゥスの慈悲」序曲、ゲヴァントハウスのコンマス就任したてのカール・ズスケ独奏によるベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲、そして休憩後はリムスキー=コルサコフの「シェラザード」というあまり脈略のないプログラム。

     当時小学生だった私は、親しみ深い存在であるマズアとゲヴァントハウスの実演を聴けるとあって、演奏会をとても楽しみにしていました。しかも、その前日の大阪公演はFM大阪で生中継され、ダイナミックなブラームスの交響曲第1番の演奏に魅了されたところでしたから、期待はいやが上にも高まっていました。

     ところが、前半のモーツァルトとベートーヴェンは、まあ30年以上も前のことですから仕方のないことですが、ほとんど印象が残っていません。いつ頃からかマズアが髭もじゃの人になっていて、指揮棒をもたなくなっていたのに驚き、聴き慣れたオケの古雅な音色に胸が踊り、ズスケの繊細な美しいヴァイオリンに魅了されたようなぼんやりとした記憶がありますが、さすがに小学生にはちょっと渋すぎるオトナな演奏だったのかもしれません。

     そのかわり、休憩後に演奏された「シェラザード」のことは今でも鮮烈に記憶しています。いや、演奏の細部はさすがにほとんど忘れているのですが、指揮者とオケがノリにノッているのが音からも、彼らの演奏姿からもよく分かったこと、そして、音楽が盛り上がっていくと、会場全体がどんどん膨張して指揮者も団員も、そして客席の私たちまでもが大きくなっていくようなとても不思議な感覚にとらわれたことは忘れられません。特に、第4楽章のクライマックス、シンドバッドの船が難破するあたりでは、まさにオケがホールを揺るがすほどの凄まじい響きに震えました。子供向けおとぎ話に音楽をつけました的なエンターテイメント系の曲に対して、このドイツ人たちはどうして、こなに血相を変え、本気になって没入するんだろう?と子供心ながらに思ったほどです。この時、人をここまで駆り立ててしまう音楽という表現の不可思議さを知ったような気がします。また、第3楽章「若い王子と王女」でのロシア系演奏家によるこってりしたカンタービレとはひと味もふた味も違うデリケートな抒情に胸を打たれました。記憶違いでなければ、コンマスは先年亡くなったゲルハルト・ボッセ(もしかしたらズスケだったかも)で、あのコンマスのソロも美しかったのは覚えています。

     そして、演奏が終わった時の客席の湧き方が凄かった。当時の神戸は、有名な指揮者とオケもそこそこの頻度で来演するくらいの都市でしたので、さほど客層は悪くなかったはずだと思うのですが、やはり会場にいる多くの人たちがマズアとゲヴァントハウスの絶好調ぶりに度肝を抜かれ、熱狂してしまったのだと思います。ブラボーも飛び交ったと思うのですが、とにかくほぼ満員の客席からものすごい音量の拍手が湧き起ったことも忘れらない。

     拍手に応えて、彼らはアンコールとしてウェーバーの「オベロン」序曲を演奏しました。これも、もうまったく手がつけられないくらいに燃えに燃えた演奏でした。コーダに至っての力感の放出は、そこまできっちりと手堅くやっていただけに尋常ではなく、弦のメンバーが皆のけぞりながら旋律を歌っていたのが忘れられない。

     演奏が終わると、これまた凄い拍手。何度もマズアが舞台と袖を行ったり来たりした後、また指揮台に登って腕を振り下ろしました。そして、オケが輝かしいハ長調の和音を鳴り響かせた瞬間、会場から「待ってました!」とばかりに盛大な拍手が起きました(もちろん、すぐにやみましたが)。2曲目のアンコールとしてワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の第1幕への前奏曲が演奏されたのです。こちらも早めのテンポながらダイナミックで堂々たる演奏を聴かせてもらいました。

     輝かしい最後のアコードが鳴り響いた瞬間、会場はもう「やんややんや」の大騒ぎ。拍手が止まらないどころか、あるところから拍手が手拍子に変わり、マズアが何度も呼び出される。指揮者もオケも嬉しそうに拍手に応える。当時はまだ一般参賀は珍しかったのでそれはなかったですが、一体何分くらい拍手していたでしょうか。そして、指揮者とオケが退場して、私が客席を出ようとすると、神戸文化ホールのロビーは、サイン待ちの人たちの長蛇の列ができあがっていました。

     私はこの時の演奏会を聴いた人というのにはまだ出会ったことがないのですが(私を連れて行ってくれた私の師匠は別として)、もしおられるのならば、あの時の私たちの熱狂は、決して「初心者だらけの地方公演での牧歌的な風景」ではなく、「それなりにクラシックを聴き込んでいる人たちからの正当な賞賛」だったいうことに賛同してもらえると思います。

     今になって思えば、当時の彼らは、確かにとても士気の上がっていた頃なのかもしれません。というのは、当時はマズアがシェフになって10年近くになって両者の関係がかなり深まっていた時期で、さらに、彼らの宿願だった本拠地たるホール、ゲヴァントハウスの再建(旧ホールは火災で消失)が2年後に迫っていましたから。きっと意気揚々と日本を訪れ、自分たちの成果を日本の聴衆に問うたのでしょう。

     その後、私は彼らの演奏を、87年、89年、95年と3回聴きました。特に、89年のサントリーホールで聴いたベートーヴェン・チクルスの最終回、交響曲第8,9番の演奏は、ベルリンの壁崩壊直後のことで、しかも、マズアが東ドイツ民主化運動の立役者となったということもあって忘れられないものです。また彼が4年前に単身来日してN響を指揮した「第9」も私にとってはかけがえのない思い出。でも、やはり私にとっては、この79年の「シェラザード」と2曲のアンコールの記憶が最も強烈です。ただ演奏が良かったというだけでなく、稀有と言って良いほどに、演奏者と客席に熱狂的な交流があり、互いに影響し合いながら一体となって音楽を作り上げたという実感を与えてくれたこと、そこから音楽が、いかに人間の心の最も根源的なものに訴えかけるものなのかを知らしめてくれたから。だからこそ、私にとっては大きな意味のある体験でした。

     ものすごく正直なことを言いましょう。マズアが「私の好きな指揮者」である理由というのは、それも、たとえ有名な評論家たちがマズアを酷評しようと、一部のファンが冷笑しながら蔑もうとも「好き」であると言い張っているのは、ただ最初に聴いたベートーヴェン全集の指揮者が彼だったからという単純かつ消極的な理由から生まれた感情に過ぎないのかもしれません。もしあの時買ってもらった(しかも親の勘違いでマズアの全集を入手することになった)のがマズアでなかったら、例えばカラヤンだったら、マズアを好きになったかどうか自信はありません。何せ子供の感情ですから。

     ですから、これまた正直なことを言うと、「マズアの何が好き?」「マズアをどうして好き?」と聞かれてもどう答えて良いか分からないという面もあります。それは余りにもマズアという指揮者が身近すぎて、好きである理由などをちゃんと考えてこなかったからです。最初に被った野球帽がそうだったからという理由で阪神ファンになってしまった、というのと同じようなことなのでしょうか。あるいは、年上に「筆おろし」してもらった相手に抱く感覚というのはこういうものなんでしょうか。まあ、それの何が悪い?と開き直るしかないのですが。

     でも、一つだけ確かに言えることがある。それは、神戸の演奏会での濃厚な体験があるがゆえに、マズアという指揮者が好きであるということ。あの時の素晴らしい体験をまた味わわせてもらえるのではないかと期待を込めて、ディスクを買い、演奏会にも足を運ぶ。期待はずれになることもあるけれど、やはり彼が私の音楽との触れ合いの中で大切な存在であることには疑いがありません。

     ちょっと余談になりますが、日本ではあまり評価の高いとは言えないマズアが、欧米のオーケストラからたくさんの称号をもらっていて客演指揮者として名を連ねているのは、やはり彼が音楽家として尊敬されていることの証なのではないかと私は考えています。ゲヴァントハウス、ニューヨークだけでなく、フランス国立管、ロンドン・フィル、イスラエル・フィル、読売日響から生涯にわたる重要なポストを与えられ、その他、ボストン響やコンセルトヘボウからも愛され続けているのは、やはりそれなりに理由があるのでしょう。あちらの人たち(オケ、聴衆)は、あの時の神戸の演奏会のような体験を何度もしているのかもしれません。マズア大嫌いな人たちからは「そんなことないよ」と一笑に付されてしまうかもしれませんが、私は大真面目です。

     ということで、今から34年前の遠い記憶について書いてみました。まさに冥土の土産と言える大切な思い出。実際のところ、マズアやオケにとって、ハードな強行スケジュール中の一地方の公演に過ぎなかったかもしれませんが、きっとあの場にいた多くの人たちが私と同じように鮮烈な思い出として記憶にとどめていることだと思います。もしかしたら、演奏者も神戸での熱狂のことを覚えていてくれれば嬉しいのですが。

     惜しいことに神戸での演奏会は記録として残っていませんが、その1ヶ月ほど後、東京文化会館で開いた同じプログラムの演奏会はFM東京系の「TDKオリジナル・コンサート」で放送されました。(他に第9も放送された)当時FMを聴いた時、その東京公演もいい演奏だったものの、神戸公演の時ほどには絶好調とは思えず(もしかしたら思いたくなかった?)残念に思った記憶がありいますが、それでも、是非とも東京公演をディスク化してほしいと思います。指揮者とオケが最も良い関係にあった頃の貴重な記録ですし、また今はもうなくなってしまった東ドイツという国の姿を記録する意味でも重要なものだと思います。ただ、今思うと、当時、東ドイツを代表する演奏家たちが日本で外貨を稼いでいるその横で、本国の東ドイツでは先日映画「東ベルリンから来た女」で見たような過酷な生活を強いられている人たちも多かった訳で、ちょっと複雑な思いもしますけれども。

     クルト・マズアの怪我が良くなり、いつまでも元気に指揮台に登ってくれること、そして、また来日して素晴らしい演奏を聴かせてくれることを願いながら、このエントリーを閉じたいと思います。

    ■R=コルサコフ/「シェラザード」第3楽章 〜 マズア/LGO(1993 Live)

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    2024.02.28 Wednesday

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      コメント
      1979年の神戸文化ホールでクルトマズア指揮のライプチッヒゲヴァントハウス演奏のシェラザードを聞きました。
      今でも強烈な印象で忘れられません。
      たまたまこの記事を見つけてたまらなくなつかしくなりました。
      • by masako
      • 2018/06/12 9:22 PM
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