珠玉の小品 その13 〜 プーランク/即興曲「エディット・ピアフへのオマージュ」

2007.11.26 Monday

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    プーランク/即興曲第15番「エディット・ピアフへのオマージュ」
    田部京子(P)

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     エディット・ピアフの映画が公開されています。ヒットしてるんでしょうか。マリア・カラスとか、ジャニス・ジョップリンだとかのように、その一生を映画にしてみたいと思わせるディーヴァはいるものですね。

     さて、今日はフランスの作曲家プーランクが、交友のあったエディット・ピアフへの賛美として書いたピアノの小品で、いくつかある即興曲の第15番にあたります。

     出だしからしてまさに「パリの秋」の音楽。(旋律がコスマの「枯葉」に似てます。)
     そこはかとない甘い哀愁が立ち昇る旋律が物憂げに、でもどこかに憧れをもって歌われますが、香水やタバコの香り、パリのカフェを思い起こさせるようなアンニュイな雰囲気があって、まさに「粋」を感じさせる、とても素敵な曲だと思います。この曲のエンディング、音楽はなぜか重く沈むように消えていきます。エディット・ピアフの人生の悲劇を暗示しているのでしょうか。

     私はこの曲をもっぱら田部京子のピアノで楽しんでいます。タッチが少し重めなので、例えばロジェのように音楽の流れが軽くなり過ぎず(ロジェの演奏、これはこれでとても良い演奏だとは思っていますが)、少し肉感的なエロスを音楽から感じるからです。

     今の季節、グールドのブラームスの間奏曲などと併せて、必ず聴きたくなる演奏です。この曲が収録された「ロマンス」というアルバム全体も私の愛聴盤のひとつです。

     死ぬまでに一度は弾いてみたい曲でもありますが、さてどうなりますことやら。

    クレーメル&ツィマーマン デュオ・コンサート(横浜)

    2007.11.19 Monday

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      ブラームス/ヴァイオリン・ソナタ第2,3番
      フランク/ヴァイオリン・ソナタイ長調
      ギドン・クレーメル(Vn)/クリスティアン・ツィマーマン(p)
      (2007.11.18 横浜みなとみらいホール)



       「世紀のデュオ」(招聘元談)の演奏会を聴いてきました。

       フランクのソナタの演奏は、きっといつまでも忘れられない素晴らしい体験となりました。こんなフランクを聴くのはまったく初めてでした。

       彼らは、互いを主張して丁々発止のやりとりをするのでも、二人が一体となった交響的な融合空間を作り上げるのでもなく、微妙な距離を保ちつつ、「寄り添いあう孤独」とでもいうべき「対話」を紡ぎ出していました。

       まず、クレーメルの怜悧な音色のヴァイオリンから聴こえて来たのは、ロマンティックな歌い回しや激情的な身振りとはかけ離れ、「循環形式」などという言葉を感じさせない、いわば「断ち切られた歌」でした。

       例えば、第3楽章のクライマックスで2度繰り返されるあの情熱的なパッセージは、ずぶずぶと身を浸したくなるような官能の謳歌などではなく、分断されてしまった歌の欠片たちの行き場のない「叫び」の塊となり、まるでナイフのような鋭さをもって私の胸に刺さってきて、ひどく心を打たれました。

       そして、ツィマーマンのピアノは、クレーメルの「断ち切られた歌」の欠片をかき集めて貼り合わせ、従来の他の演奏にあるような「有機的な」音楽の構成を作ろうなどという空しい作業はせず、繊細でクリスタルのように輝く美しい音色と、優しい空気を感じさせるフレージングでもって、歌の欠片をまるでガラス細工を扱うかのような細心の注意を払いながら手にとり、それらを愛撫するような優しくデリケートな伴奏を聴かせてくれました。

       しかし、彼のまなざしは、その優しさの奥にどこかひりつくような哀しみを秘めていて、決して軟弱なものなどではなく、それも私の心にはとても響いてきました。

       結局のところ、彼らの音楽から聴こえてくるものに共通するのは、ベクトルは違いこそすれ、いわば「孤独の痛み」であったように思うのですが、それらが互いに寄り添って音楽を奏でているということが私の心を共鳴させたのだと思います。本当に哀しいくらい美しい時間を過ごしました。

       アンコールはカンチェリの曲と、モーツァルトのソナタから。前者はちょっとしたユーモアを感じさせる「静か」な曲で、単音のキャッチボールをしているような佇まいが面白かったです。そして、モーツァルトは、今度は旋律のキャッチボール。カンチェリとの見事なコントラスト。超一流の野球投手二人が互いに変化球などを駆使してやっているキャッチボールみたいで、まあものすごく高度な技巧が必要なことを、いとも軽々と涼しげな顔をして楽しんでいるような趣。何ともチャーミングで楽しいアンコールを満喫しました。

       なお、前半のブラームスに関しては、たぶんすばらしい演奏に違いなく、第2番全体のフレッシュな音色の美しさ、第3番第4楽章の迫力のある協奏が印象的でしたが、私自身、余り曲そのものに魅力を感じないこともあって持て余してしまいました。

       それにしても、この「世紀のデュオ」、また聴かせてもらいたいものです。今度はシマノフスキとかショスタコとかを聴きたいです。

      テンシュテットのベートーヴェン「第9」('92)を聴いて

      2007.11.15 Thursday

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        ベートーヴェン/交響曲第9番二短調Op.125「合唱」
        クラウス・テンシュテット指揮ロンドン・フィル管&合唱団
        ポップ、マレイ、ロルフ=ジョンソン、パペ
        (1992.10.8 ロンドン・ロイヤル・フェスティヴァルホールでのライヴ)


         ロンドン・フィルの自主制作盤シリーズの最新4枚組セットを買いました。
         テンシュテットの生涯最後の「第9」となった演奏を聴きたいがために買ったのですが、(新鋭ユロフスキの指揮するショスタコの14番も魅力ですが)その「第9」のディスクを今聴き終えたところです。

         演奏当時、既に古楽奏法によるベートーヴェン演奏も多くなりつつあったにも関わらず、基本的には遅めのテンポをとり(第2楽章の繰り返し大幅カットでも全体で約72分弱)、大編成の分厚い響きを聴かせる「従来型」のベートーヴェンの演奏スタイルですが、ティンパニの激しい強打、音を割ったホルンの咆哮が随所に聴かれ圧倒されます。特に、第1楽章の再現部からコーダにかけての高揚など、単純に「凄絶」と言うより、血を吐きながら演奏しているような「凄惨」といっても良いほどの気魄を感じます。

         また、第3楽章での長いフレーズをロマンティックに歌う弦を始め、全体にまさに嵐のように荒れ狂った激しい感情移入が見られ、同時期のあのマーラーの6,7番のあまりに恐ろしいライヴ録音を思い起こさせるような、そして、フルトヴェングラーが現代に蘇ったかのような思いさえ抱かせる(第4楽章の"Vor Gott!!"での大芝居は息をのみます!!)、後期ロマン派のスタイルでの恐竜並みのスケールの大きな演奏です。当時、既に全身を侵していた病魔と闘いながら、演奏家生命のすべてをかけて、一回の演奏会で自身のすべてを燃焼させようとする気概がこのような演奏を生み出したのでしょうか。こんな演奏を続けていては体が持つ筈もなかろうという気もしてしまいます。

         さて、こんな余りにもロマンティックなテンシュテットの「第9」ですが、1箇所だけ、耳を疑うような驚きを感じた箇所がありました。第1楽章の第2主題(第81小節)の木管の音が、ベーレンライター版と同じく"レ"になっているのです。当時はベーレンライター版は未刊行でしたが、その下敷きとなったデル・マー氏の研究結果に基づき、前記の該当箇所の「差異」は、既にグッドマンやマッケラスが録音して音にしていたので、テンシュテットは、おそらく彼の生涯最後になるであろう「第9」の演奏を前にして、スコアを徹底的に読み最新の研究成果も取り入れたのかもしれません。まったく頭の下がる思いです。因みに、第4楽章のアラ・マルチア後のホルンのシンコペーションなど、ベーレンライター版の顔とも言うべき旧版との「差異」はなく、あくまで前記箇所のみが実験的に演奏に取り入れられたということだと思います。

         なお、この演奏、死の前年のルチア・ポップの歌(彼らの「4つの最後の歌」は私の愛聴盤の一つです)と、先日「トリスタン」のマルケ王で名唱を聴かせたパペの若き日の歌が聴けることも貴重です。大変充実した声楽を聴くことができます。

         テンシュテットの「第9」のディスクを聴くのは、85年、91年のライヴに続き3種目ですが、私はこの最後の「第9」が一番好きですし、数ある「第9」の中でも特に好きな演奏の一つです。最近、マッケラスの新盤で今ひとつ乗り切れず、プレトニョフで「ゆあーんゆよーん」した私は、久々に「第9」を堪能して心から感動しました。聴けてほんとに良かったです。マーラーは好きだけどベートーヴェンはねぇ、というような友人に聴かせてあげたいです。

        ソニー&タワレコ スペシャルセレクションに寄せて

        2007.11.12 Monday

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          バーンスタイン/IPO
          「スコープス山のハティクヴァ」ライブ
           マーラー/交響曲第2番「復活」〜最終楽章他



          ブタペストSQ
          ベートーヴェン/弦楽四重奏曲全集



           最近買った2組のCD。
           ソニークラシカルのタワーレコードのスペシャルセレクションシリーズから、世界初CD化となるバーンスタイン/IPOの「スコープス山のハティクヴァ」ライブと、長らく廃盤になっていたブタペストSQのベートーヴェンの弦楽四重奏曲全集(2回目の方)です。

           前者はバーンスタインファンの間で熱望されていたレアものディスクの復刻で、このセレクションシリーズの「目玉商品」として大歓迎され話題にもなっています。バーンスタインの大ファンを自認する私としては、必須アイテムゆえ即購入です。

           後者は、所謂「不滅の名盤」扱いされていたものが長らく廃盤になっていたもので、これでようやく入手可能になりました。しかも、前に発売されていた時からは約1万円の大幅値下げ。余りの高値に買うのを躊躇っているうちに入手しそびれていたので、こちらも買わない訳にはいきません。

           本シリーズでは、その他に長らく廃盤になっていたものが合計10点発売されましたが、我々ユーザーの立場からすると、あっぱれタワレコ、よくやった!!と言いたい一方で、原盤を持っているソニークラシカルに対しては「不甲斐なさ」を感じます。特にブタペストSQのベートーヴェン全集に対して、です。

           というのは、こういうコラボレーション企画が持ち上がらないと、ブタペストのベートーヴェンのような基本アイテムさえも再発できんのか、と思うからです。タワレコ側から復刻の要望が出されて発売が実現したように見えるのです。

           少なくとも日本では、多くの評論家から「定番」として崇められていたこのブタペスト盤、雑誌や書籍の評を見て最近になって実際に聴いてみたいと思った方や、私のように、以前はあまりに高くて手を出せずにいた方はきっと多いだろうに、廉価での再発売もないばかりか、廃盤で店頭から消えてしまっているような状況は、いわば「夏目漱石の小説が入手できない状態」みたいなものじゃないかと思うのです。

           勿論、ブタペストの演奏が最高かどうか、とか、そういう次元の話は横に置いておいて、我々ユーザーが供給者から与えられる「選択肢」の問題のお話です。

           まあ、それだけメジャーなレコード会社の経済状況が悪くて、ブタペストのベートーヴェンよりはヨーヨーマのクロスオーヴァーアルバムが優先、という「市場原理」が働くのは、利潤追求のためには当然ということなのかもしれませんけれども。

           タワレコはユニバーサルやビクターともコラボして復刻に積極的に取り組んでいるので、これは他のレーベルでもおそらく状況は似たり寄ったりなのでしょう。

           しかし、グダグダとは言いつつも、こういう企画のおかげで、欲しいCDが入手できるようになったことは素直に歓迎しなければなりません。いずれもまだ全然聴けていないので楽しみに聴きたいと思います。そして、これからもこういう企画をずっと続けて「お宝」を発掘してほしいし、復刻したディスクもあんまり簡単に廃盤にしないで欲しいものです。そうでなければ、ネットで非圧縮音源をいつでも入手できるようにして欲しいです。

           がんばれ、クラシック・レーベル!!

          プレトニョフのベートーヴェン全集に想う

          2007.11.01 Thursday

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            ベートーヴェン/交響曲全集
            ミハイル・プレトニョフ指揮ロシア・ナショナル管


            ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

             今月の音楽雑誌でほぼ総スカンを喰らったプレトニョフのベートーヴェン全集を聴いて、私の頭の中では、前記の中原中也の詩の言葉が渦巻いていました。

             音楽の内容と同期しているとは思えない意味不明のテンポや強弱の変化、突然出現する長大な「間(ま)」、そして、楽譜にあるはずもないフェルマータなど、「珍演・奇演」と呼ばれる演奏にしか聴けないような強烈な場面に出会うたび、それを面白がったり腹を立てたりするでもなく、ただただ、「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」な気分を味わっておりました。

             中でも一番びっくりしたのは「田園」ですが、1,8番を除けば、どの曲も聴いていて「驚きの連続」の演奏でした。ライナーを読むと、その「驚き」こそがプレトニョフの狙いだったようです。

             彼の主張は、ベートーヴェン自身のピアノ・ソナタの演奏はいつもとても即興的で、極端な緩急や強弱の変化やルバートを多用した人を驚かせるようなものだったらしい(べートーヴェンの弟子ツェルニーの発言を引用しています)、だから、交響曲もそのように演奏すべきだ、ということのようです。ベートーヴェンの音楽の、一般的に受け入れられきた「普遍的な解釈」や、時には、一般的な音楽理論から見た音楽の「論理」や「生理」に逆らってまでも、聴く者にベートーヴェンの音楽の「驚き」を与えたいということなのでしょう。

             その意味では、なるほどどの曲も、表題を「驚愕」としたくなるような、非常にユニークな演奏を「やりたい放題」やっている点、まことに天晴れです。オケも、プレトニョフのあまりにユニークな指示に嬉々として従い、細かい傷はあるものの、指揮者の解釈の具現化に最大限の協力をしているように思えます。

             でも、一リスナーの立場からすると、やっぱりこの演奏はヘンです。
             
             前記のような外見のヘンテコさもありますが、新版の楽譜に忠実な部分と手を加えた部分が混在していたり、なぜか対向配置をとっていたり、何かにつけどうも一貫したポリシーを見出しにくい不可解さがあります。

             ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん・・・

             中原中也の詩に倣えば、観客である私は鰯になって喉を鳴らしながら、サーカスの奇妙な空中ブランコを唖然と見ているしかありません。

             なんで彼らからこういう演奏が出てきたのかは、私のような凡人には分かりません。ただ、一ついえることは、この演奏(解釈)は高度に戦略的であるということ。

             今年の1月に聴いたポゴレリッチのベートーヴェンのソナタの24,32番のライヴは、プレトニョフに負けるとも劣らない、非常な珍演・奇演でした。しかし、その演奏には、彼自身の切羽詰った、こうでなければならないという、抜き差しならないような内的欲求がありました。あまりに異様な演奏に、それがまた痛々しくもあったのですが、プレトニョフの演奏には、そんな切羽詰ったような切実感は感じません。

             「最近の市場マーケティングの調査結果によれば、リスナーにこういう"ショック"を与えることで、これこれの利益が見積もれる」というような市場原理を考慮して設計した演奏のようにも感じます。それはそれでかまわないのですが、そうした目的を掲げて描かれたベートーヴェンが、現代の社会の何かを如実に反映しているとしたら、その社会自体が、彼らの演奏のように、何か歪な不思議な様相を呈したものなのだ、というのが、プレトニョフが表現したかった「警鐘」なのでしょうか・・・・。

             でも、その一方で、単純にピアノを弾く時の感覚を持ち込んで、ピアニスティックにオケを扱ってみたというだけなのかもしれませんし・・・。

             いろいろと考えさせてくれる演奏ではありました。
             どれも好きな演奏では決してありませんが、ところどころふるいつきたくなるくらいに魅力的な場面があったりもして面白かったので、中古屋には売らないと思います。

             このCDを聴く目的には、ベートーヴェンの演奏の今後を占いたいということもありましたが、それは演奏の余りのユニークさゆえ果たせませんでしたが、まだまだベートーヴェンの音楽って、現代の我々にとってアクティブであり続けているのだなあと思います。
             
             やっぱりベートーヴェンは凄い、です。
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