ベートーヴェン/交響曲全集
ミハイル・プレトニョフ指揮ロシア・ナショナル管
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん
今月の音楽雑誌でほぼ総スカンを喰らったプレトニョフのベートーヴェン全集を聴いて、私の頭の中では、前記の中原中也の詩の言葉が渦巻いていました。
音楽の内容と同期しているとは思えない意味不明のテンポや強弱の変化、突然出現する長大な「間(ま)」、そして、楽譜にあるはずもないフェルマータなど、「珍演・奇演」と呼ばれる演奏にしか聴けないような強烈な場面に出会うたび、それを面白がったり腹を立てたりするでもなく、ただただ、「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」な気分を味わっておりました。
中でも一番びっくりしたのは「田園」ですが、1,8番を除けば、どの曲も聴いていて「驚きの連続」の演奏でした。ライナーを読むと、その「驚き」こそがプレトニョフの狙いだったようです。
彼の主張は、ベートーヴェン自身のピアノ・ソナタの演奏はいつもとても即興的で、極端な緩急や強弱の変化やルバートを多用した人を驚かせるようなものだったらしい(べートーヴェンの弟子ツェルニーの発言を引用しています)、だから、交響曲もそのように演奏すべきだ、ということのようです。ベートーヴェンの音楽の、一般的に受け入れられきた「普遍的な解釈」や、時には、一般的な音楽理論から見た音楽の「論理」や「生理」に逆らってまでも、聴く者にベートーヴェンの音楽の「驚き」を与えたいということなのでしょう。
その意味では、なるほどどの曲も、表題を「驚愕」としたくなるような、非常にユニークな演奏を「やりたい放題」やっている点、まことに天晴れです。オケも、プレトニョフのあまりにユニークな指示に嬉々として従い、細かい傷はあるものの、指揮者の解釈の具現化に最大限の協力をしているように思えます。
でも、一リスナーの立場からすると、やっぱりこの演奏はヘンです。
前記のような外見のヘンテコさもありますが、新版の楽譜に忠実な部分と手を加えた部分が混在していたり、なぜか対向配置をとっていたり、何かにつけどうも一貫したポリシーを見出しにくい不可解さがあります。
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん・・・
中原中也の詩に倣えば、観客である私は鰯になって喉を鳴らしながら、サーカスの奇妙な空中ブランコを唖然と見ているしかありません。
なんで彼らからこういう演奏が出てきたのかは、私のような凡人には分かりません。ただ、一ついえることは、この演奏(解釈)は高度に戦略的であるということ。
今年の1月に聴いたポゴレリッチのベートーヴェンのソナタの24,32番のライヴは、プレトニョフに負けるとも劣らない、非常な珍演・奇演でした。しかし、その演奏には、彼自身の切羽詰った、こうでなければならないという、抜き差しならないような内的欲求がありました。あまりに異様な演奏に、それがまた痛々しくもあったのですが、プレトニョフの演奏には、そんな切羽詰ったような切実感は感じません。
「最近の市場マーケティングの調査結果によれば、リスナーにこういう"ショック"を与えることで、これこれの利益が見積もれる」というような市場原理を考慮して設計した演奏のようにも感じます。それはそれでかまわないのですが、そうした目的を掲げて描かれたベートーヴェンが、現代の社会の何かを如実に反映しているとしたら、その社会自体が、彼らの演奏のように、何か歪な不思議な様相を呈したものなのだ、というのが、プレトニョフが表現したかった「警鐘」なのでしょうか・・・・。
でも、その一方で、単純にピアノを弾く時の感覚を持ち込んで、ピアニスティックにオケを扱ってみたというだけなのかもしれませんし・・・。
いろいろと考えさせてくれる演奏ではありました。
どれも好きな演奏では決してありませんが、ところどころふるいつきたくなるくらいに魅力的な場面があったりもして面白かったので、中古屋には売らないと思います。
このCDを聴く目的には、ベートーヴェンの演奏の今後を占いたいということもありましたが、それは演奏の余りのユニークさゆえ果たせませんでしたが、まだまだベートーヴェンの音楽って、現代の我々にとってアクティブであり続けているのだなあと思います。
やっぱりベートーヴェンは凄い、です。