私のシューベルティアーデ(10) 〜 クリーンのピアノ・ソナタ全集

2008.02.28 Thursday

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    ・ピアノ・ソナタ第1〜7,9,11,13〜21番
     ワルター・クリーン(p)


     ワルター・クリーンのソナタ全集を買ったきっかけは、村上春樹氏の「意味がなければスイングはない」を読んだことです。そこでは第17番のピアノ・ソナタの演奏論が展開されていて、氏が最も好むというイストミン盤、そしてカーゾン盤、アンスネス盤と並んで、このクリーン盤がお気に入りとして推薦されていたのです。早速、クリーンの演奏を聴きたいとCDを探しに行ったら、6枚の全集が3巻に安く分売されているのを発見し、えい、ついでだ!とばかり全巻揃えてレジへ直行してしまいました。

     クリーンの演奏は、どこをとっても特異なところのない一見平凡なものですが、どの音符にもシューベルトの音楽へのあたたかい共感と、シューベルトの心の痛みへの優しいいたわりや慰めを感じます。

     何と柔和でまろやかな音色、何と人懐っこく優しい歌なのでしょうか!アファナシエフが提示してくれたような「深淵」を感じる部分でさえも、あたかも親しげな微笑みをたたえた音楽に聴こえてくるのが不思議で、はにかみがちで内気な作曲家の心から発せられる「声」が、何の色づけもせずにそのまま聴こえてくるかのようです。

     ひとつ興味深いのは、ただ一つ第21番の演奏だけは、他の曲よりもいくらかダイナミックで激しい感情移入が見られる点です。もしかしたら録音の関係で高音がきつく感じられるからかもしれませんが、それでも、シューベルトが尊敬したベートーヴェンの音楽への憧憬が、音楽の奥底から滲み出てくるような気がして興味深かったです。

     まさに、何度聴いても飽きのこない滋味あふれる演奏に出会えて、本当に良かったと思います。村上春樹氏にも感謝したいと思います。

    私のシューベルティアーデ(9) 〜 シフのピアノ・ソナタ全集

    2008.02.28 Thursday

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      ・ピアノ・ソナタ第1〜9,11,13〜21番
       アンドラーシュ・シフ(p)


       アンドラーシュ・シフの演奏は、全体に理知的なアプローチで曲のフォルムを歪みなくかっちりと表現したものだと思います。しかし、べーゼンドルファー・インペリアルの柔らかで厚みのある音色が、理知的な表現の行きすぎから音楽が堅苦しくなるのを救っているようです。ちょっとしたフレーズがディミヌエンドして消えていく時の儚げな美しさは他の演奏からは聴けない固有の美質です。
       また、珍しく第8番の断片が収録されていて、演奏もアンビヴァレントな心理状態を織り込んだ暗い美しさをたたえていることもこの全集の価値を大いに高めています。掛け値なしの超一流の「シューベルト弾き」の素晴らしい成果だと思います。

       しかし、シューベルトの音楽の「痛み」に触れることで心のカタルシスを求める私にとっては、彼がその優しい音色で「痛み」を包み隠してしまっているきらいがあるのが小さくて大きな不満です。とても贅沢な不満ですけれども。

       このディスクの録音から15年以上経って、今のシフならまたどんな違った演奏を聴かせてくれるのかとても興味があります。再録音してくれないでしょうか。

      私のシューベルティアーデ(8) 〜 内田光子のピアノ・ソナタ選集

      2008.02.28 Thursday

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        ・第4,7,13〜21番、即興曲集、楽興の時、3つの小品
         内田光子(P)



         内田光子のシューベルトは、どの作品も「孤独」と真正面から向き合うかのような「厳しさ」を感じる演奏です。楽譜のアナリーゼもかなり綿密におこなわれているのでしょう、なぜそのような音にするのか、なぜそのように歌うのか熟慮に熟慮を重ねた末に明確なビジョンをきちんと掲げ、それを強靭な意志を持って十全に表現したものと言うべきでしょうか。その意味では、ルドルフ・ゼルキンの作品との対峙のしかたと通ずる姿勢を感じます。

         そんな彼女の「厳しい」演奏を聴いていると、私は、白衣をまとった女医さんがシューベルトその人を前に、彼の深層心理にある病理、音楽の構成の弱さや矛盾を冷静に「宣告」している場面を思い浮かべてしまいます。
         しかし、それと同時に、宣告を受け打ちひしがれるシューベルトを、「大丈夫、私がそばにいるから。」と抱きしめているような、そんな優しさをも感じます。その点が哲学的思索の中に完全に入り込んでしまうゼルキンとは決定的に異なる点だと思いますし、そこが内田光子の演奏をとても魅力的なものにしていると思います。3年かけて調整したスタインウェイをウィーンのムジークフェラインに持ち込んで録音したのも、その「優しさ」を表現するためだったのではないでしょうか。

         どの曲もまったく驚くべき完成度の高い演奏で、本当に素晴らしいと思います。聴くのは少し疲れるのは確かですが、いつも座右に置いておきたいディスクです。

        私のシューベルティアーデ(7) 〜 ピアノ・ソナタあれこれ(メジャーレーベル編)

        2008.02.28 Thursday

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          ・第13,18〜21番、即興曲、楽興の時、3つの小品
           クラウディオ・アラウ
           (Phillips)

           70年代後半から91年の死の直前にかけてのクラウディオ・アラウ晩年の記録です。中でも第18番、楽興の時、3つの小品、即興曲は彼の最後の録音の一つ。全体に遅いテンポで一言一言慎重にじっくりと言葉を選びながら語りかけるような、シューベルトにしてはどこかゴツゴツした武骨な外見です。例えば、あの愛らしい第13番でさえスケールの大きな大ソナタのように感じられますし、小品たちもまるで一編の完結した交響的作品のようです。
           最初聴いた時は、「牛刀で鶏を割く」演奏のように思えて戸惑いましたが、しかし、虚心に耳を傾けていると、どの演奏も滋味深い表現に満ち溢れていることに気づきます。私が愛聴している彼の弾くリストの小品「孤独の中の神の祝福」に通じる、透明で清らかな境地がこれらの演奏の中にも透けて見えてきました。何度も繰り返し聴いて味わう価値のあるものだと思います。特に最後の録音の第18番「幻想」は、果てしなく広がる空間の中で瞑想をするかのような沈黙の深さに心を揺さぶられました。美しく齢を重ねた「巨匠」の音楽の懐の深さに感動しました。

          ・第19〜21番
           マレイ・ぺライア
          (SONY)

           発売時大きな話題となったマレイ・ペライアの後期3大ソナタの演奏は、どれも多くの人たちがこれらの音楽に対して抱くであろう最大公約数的なイメージを具現化したようなオーソドックスな表現で、繊細なタッチから夢見るように美しい音楽が生まれ出てきます。ある意味、非の打ち所のない模範的な名演だと思います。
           ですから、もし私が人から「これ、いい演奏だった?」と聞かれれば嬉々として「イエス!」と答え、「是非聴いてみてください」と言うでしょう。しかし、「これは、あなたの好きな演奏だった?」と聴かれれば、「サラサラと音楽が蒸留水のように進んでしまう気がして、残念ながら少し求めるものが違うかな」と答える気がします。もう少しじっくりと時間をかけて、シューベルトの、そして私自身の心の中をあちこち歩いてみたい気がしました。
           ペライアはとても好きなピアニストなのですが、「ゴルドベルク」でもこのシューベルトでも、最後の最後の部分で違和感を感じてしまうようです・・・。

          ・第20番,即興曲D.942
           ルドルフ・ゼルキン
          (SONY)

          ・第15,21番
           ルドルフ・ゼルキン
          (SONY)

           モノの15番以外は ルドルフ・ゼルキンの比較的晩年のスタジオ録音で、シューベルトの音楽の中にある「孤独」を質量のある「実体」として捉え、それとまっすぐに向き合って哲学的な思索をめぐらせているような演奏です。まるでベートーヴェンのソナタを演奏するかのように、一つ一つの音は十分に吟味され強い意志を持って完璧に制御されて鳴らされていますが、と同時に「どこへも向かっていかない」で同じところを逡巡したり後戻りしたりしている宙ぶらりんの音たちも見たままに表現されています。その結果、聴く者は厳しい孤独の実感の中にいきなり連れ込まれ、無駄を削ぎ落とされギリギリまで追い込まれた音と向き合い、そして何より自分自身の心と向き合うことを強いられます。
           最近、村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」を読んだのですが、主人公が井戸の底に潜って闇の中で自らに向き合い思索する場面があって、自分がそんな立場になればきっとこの演奏が頭に浮かぶだろうと思いながら読みました。
           実のところ、シューベルトの音楽ってそんなに厳しいか?という気もしますが、ここまで透徹した音楽には感服します。聴いていてかなり疲労しますが、でも、じっくり自分と向き合いたいときにはゼルキンの演奏に手が伸びるだろうと思います。

           ・・・まだまだ私のシューベルト巡礼、続きそうです。

          バーンスタインのこと(1990年7月東京)

          2008.02.27 Wednesday

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             先日、レナード・バーンスタインの初期録音のBOXセットを入手しました。

             

             1950年代前半にニューヨーク・スタジアム響(実体はニューヨーク・フィル)を指揮した「英雄」「新世界」「悲愴」「ブラ4」「シューマンの2番」が収録されており、さらに当時バーンスタインが録音したそれぞれの楽曲の解説も併録されています。

             

             バーンスタインが生前最も得意としていた曲の一つであるシューマンの交響曲第2番から聴き始めたのですが、その第3楽章のアダージョを聴いていて、彼の最後の来日の時のことを思い出さずにいられませんでした。


             バーンスタインは、自身が提唱した、若い音楽家への教育を目的とする札幌での第1回パシフィックミュージックフェスティバル(PMF)のために来日し、音楽祭終了後に帯同してきたロンドン交響楽団やPMFオーケストラと東京や大阪で演奏会を開くことになっていたのでした。

             あれは、「異常気象」とも言われた、とても暑い夏のことでした。

            ・・・
            ■1990年7月14日 サントリーホール前のチケット売り場にて
             私はその日、バーンスタイン指揮PMFオーケストラのシューマンの交響曲第2番を聴きたくて、朝早くから当日券売り場に並んでいました。

             

             チケット発売時刻が近付いて来た頃、関係者の方がホールから出てきて「バースタイン氏急病のため指揮を大植英次氏に変更します」と書かれた紙を掲示しました。心配になって「そんなにバーンスタインの体調は悪いのですか?」とその方に質問したら、「今朝ホテルで血を吐いて倒れていてドクターストップがかかり、すぐに帰国されることになりました。以降の公演も指揮者変更になります」という答えが返ってきました。

             

             私はすっかり動揺してしまって演奏会を聴く気にもなれず、不安な気持ちを抱えて帰宅しました。そして、2日前と4日前のことを生々しく思い出していました。

            ■1990年7月10日 サントリーホール、12日 オーチャードホールにて
             前述の指揮者交代となったPMF演奏会の直前、私はバーンスタインとロンドン交響楽団の東京公演を聴きました。曲目は両日とも以下の3曲でした。 

             ・ブリテン/歌劇「ピーター・グライムズ」から4つの海の間奏曲
             ・バーンスタイン/ウェストサイドストーリーからシンフォニック・ダンス(大植英次指揮)
             ・ベートーヴェン/交響曲第7番

             もともと12日はブルックナーの交響曲第9番のみのプログラムでした。しかし、バーンスタインの体調不良で準備期間がとれないとのことで両日とも同じプログラムに変更。さらに、10日の演奏会当日になって「ウェストサイド」の指揮が弟子の大植英次に変更になり、12日も同様でした(会場で一部聴衆と主催者側との間で騒ぎが起こったのは記憶に新しいところです)。

             上記2回の公演は、ブリテンでこそDGのマーラー全集を思わせるような心の底への深い沈潜に感動しましたが、メインのベートーヴェンの7番は、両日とも何とも形容のしがたい異様な演奏に戸惑ってしまいました。50分近くもかかろうかという異様なスローテンポ、彼独特の局所的なデフォルメありと、私たちが日ごろ聴いている、「舞踏の神化」とも評されるリズミックな「ベト7」とはおよそかけ離れたグロテスクとさえ言える演奏でした。

             

             サントリーホールの公演では客席からバーンスタインの表情を見ながら聴いていたのですが、彼は時折苦悶に顔をしかめ大粒の汗をかきながら音楽と格闘しているかのようでした。尋常ではない腹部の膨らみのせいもあって、彼は指揮棒を振るのがやっとというくらいに動きが鈍くて痛々しかった。私は「これがあのレニーなのか?」と目を疑ってしまいました。

             そんなベト7を聴いて、私は、それでも、彼の演奏を「生の賛歌」だと感じました。当時つけていた日記にもそう書いたと思います。なぜなら、テンポを遅くとってすべての音符を「歌いきる」ことによって、曲の根源にある「生命力」を明らかにしようとしていたのではないかと思ったからです。そして、少しでも長い時間、聴衆と音楽を分かち合いたいという意志の表れだったのではないかと思いたかった。

             

             実際には、体調が悪いのを無理してやったら結果的にそういう演奏になったというのが真相でしょう。あの時のベト7は「生の賛歌」であるよりは、その裏返しで彼自身の「生への渇望」だったのだろうと、今は認識を改めています。勿論、私自身があの日あの場所で感じた感覚は、たとえ間違っていようとも私個人の交換不可能なもの、それは大事にしたいと思っていますけれども。

            ■1990年7月12日 オーチャードホール演奏会終了後 楽屋口にて
             オーチャードホールの演奏会が終わって、私は楽屋出口へと向かいました。体調の悪そうなバーンスタインを目にしていたのできっと無理だろうとは思いつつ、持参したマーラーの交響曲第9番のスコアにサインをしてもらえたらと一縷の望みを抱いて持って行っていたのです。

             予想通り、彼はなかなか姿を現しませんでした。楽屋からシャットアウトされた人の話が聞こえたのですが、「彼は憔悴しきっていて動けない状態。タバコを吸ってウィスキーをがぶ飲みしているらしい」とのことでした。やはり相当に体調が悪かったのだなあと思いました。そんな状況なのでサインをもらうことは諦めましたが、それでも、何とかバーンスタインの姿だけでも見たいと思ってずっと待っていました。

             待ち始めて30分くらい経った頃でしょうか、楽屋口に背の高い男性の肩に手を載せ、ヨロヨロと歩いてくる小柄な老人の姿が見えました。そう、その老人こそ、レナード・バーンスタインその人だったのです。暗かったのであまりよくは見えませんでしたが、彼は顔面蒼白で魂が抜けてしまったかのような表情をしていました。瞬間、出口を囲んでいたたくさんのファンは息をのみ、何の言葉も出せずに立ちすくんでしまいました。「これがあのレニーなのか?」かと、誰もが同じことを思ったに違いありません。

             凍りつくような沈黙の中、私は思わずバーンスタインに向ってひとり拍手を始めました。すると他の人も同調してくれて拍手の輪がだんだん広がっていきました。バーンスタインは弱々しく微笑み軽く手を振りながら答えてくれました。そして、巨大なリムジンが、私たちの愛する「レニー」を連れて去って行きました。

             それが、私たちとバーンスタインとの「永遠のお別れ」になるのではないかという哀しい予感は的中してしまいました。その年の10月に彼はこの世を去ってしまったのです。

             後で詳しく事情を知ったのですが、当時彼は既に不治の病を抱えており、死期が迫っていることをはっきり自覚していたのだそうです。しかし彼は、愛する音楽の喜びを、愛する人たちと分かち合うため病身を押して来日した。演奏会で自作の指揮を弟子に任せたのも相当に体調が悪かったからでした。演奏会の休憩時間には酸素マスクをつけて呼吸を整えていたのだという話も聞きました。

             その5年前に聴いたマーラーの9番の実演の時とは全然状況は異なりますが、バーンスタインは「音楽には無限の可能性がある」、そして「そんな素晴らしい音楽を持つ人間の人生は生きる価値のあるものなのだ」ということを、それこそ命がけで教えてくれたような気がします。

            ・・・

             最初に紹介した初期録音CDのシューマンの2番に関する解説では、第3楽章アダージョのクライマックスの音に被って、「この部分のシューマンのオーケストレーションは"奇跡"です。一切手を加えるべきではありません。」と語る35歳のバーンスタインの声が聴こえてきます。その熱く若々しい声を聴きながら、札幌のPMFで若い音楽家を相手にしたリハーサルで同じ箇所を指揮しながら「クレッシェンド、クレッシェンド!!」と必死に叫んでオケから熱い「音楽」を引き出そうとしていたバーンスタインの映像の鮮烈な記憶が重なり、さらに東京で聴いたバーンスタインの命がけの演奏会の記憶もが交差して、深い感慨に浸らずにはいられませんでした。

             音楽に命をかけるまでに没入して人生を燃焼しきったバーンスタインの姿を思い出すにつけ、自分もその何百分の一いや何千分の一でもいいから、何かに熱中して没入して「燃えたい」なんて思ったりします。実際は、くたびれた中年の道をひたすらまっすぐに歩んでいますけれども。

            私のシューベルティアーデ(6) 〜 ツァハリアスのソナタ集

            2008.02.26 Tuesday

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              ピアノ・ソナタ選集(第4,7,9,13,14,16〜21番)
              クリスティアン・ツァハリアス(p)

               →詳細はコチラ


               クリスティアン・ツァハリアスはドイツ出身のピアニストで、日本ではあまり人気がないようですが、EMIやMD+Gから多くのディスクが出ている名手です。特にモーツァルトのソナタや協奏曲のディスクが有名です。

               私は、EMIから出ているべートーヴェンのピアノ協奏曲全集(w/フォンク指揮ドレスデン・シュターツカペレ)を聴いて彼の演奏に興味をもったのですが、そこでは特に第1、2、4番の非常に粒立ちの揃った美しいタッチと端整な音楽の運びが印象的で、まさに「モーツァルト弾き」の面目躍如と感じました。

               私は、そんな彼の美しいタッチでシューベルトを聴けばきっといいだろうなあと思い、廉価で売られていたEMIの5枚セットを入手してみました。このセットでは完成された11曲のソナタのみが取り上げられており、15番「レリーク」も含まれていません。

               彼の演奏ですが、期待した通り、モーツァルト晩年の作品のもつ澄み切った秋の青空のような透明さを、そのままシューベルトの音楽の奥底にある「哀しみ」に重ね合わせたような何とも美しい演奏の数々に出会い大変印象に残りました。勿論、シューベルトの音楽にある哀しみとモーツァルトの音楽のそれとは決して同じであるはずがないのですが、ツァハリアスの演奏を聴いていると、両者の音楽を結ぶ補助線のようなものがはっきり見えてくる気がするのが不思議でした。
               
               ツァハリアスの演奏の美しさの際立つ場面はたくさんあります。例えば、第18番「幻想」の第1楽章の高音の優しい響きからは煌めきながらたくさんの星が降ってくる情景を思い浮かべましたし、特に後期のソナタの緩徐楽章での静謐なたたずまいは、まさにモーツァルトのピアノ協奏曲第27番の第2楽章を想起させるようです。

               ただ、第13番以前の初期作品の中には、玉を転がすような美音に耳を洗われる反面、あまりにも音楽がサラサラときれいに流れていくのに違和感があり、もっとシューベルトの内的なロマンティシズムの世界をじっくり見たいと不満に思った曲もあります。また、繊細で透明な響きを追求するあまり音の運びが多少神経質になり、時として「歌」が響きの背後に隠れてしまう箇所もあるのも気になり、彼の美質が両刃の剣となってしまっているように思えたのが残念です。

               ツァハリアスは、最近、第20番のソナタをドイツのMD+Gに再録音しました。

              ・ピアノ・ソナタ第20番イ長調 D.959
              ・6つのドイツ舞曲 D.820
              ・4つのレントラー D.814
              ・ドイツ舞曲 D.841-1
              ・ワルツ D.844
              クリスティアン・ツァハリアス(p)

               →詳細はコチラ


               その演奏は、以前の彼らしい美質を保ちながらも、前述のような不満を感じさせない非常にスケールの大きな立派な演奏で素晴らしいものでした。今回取り上げたEMIのセットも十分に価値のあるもだと確信しますが、より成熟した音楽家へと深化した彼の再録音を期待したいというのが正直なところです。

               その彼は今年の「ラ・フォル・ジュルネ」にはその得意の20番を引っさげて来日し、指揮者としても手兵のローザンヌ室内管と共に交響曲も演奏するそうです。もしかしたら、日本でツァハリアスの人気が急上昇するかもしれません。

              私のシューベルティアーデ(5) 〜 ピアノ・ソナタあれこれ(マイナーレーベル編)

              2008.02.25 Monday

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                 最近聴いたシューベルトのピアノ・ソナタのCDで特に印象に残ったものの感想をメモっておきます。今回はマイナー・レーベルのものを集めてみました。いずれもバーゲンで格安(50〜70%OFF)に入手したものです。

                ・第3〜7,9番:トゥルデリーゼ・レオンハルト(Jecklin)

                 グスタフ・レオンハルトの実妹トゥルデリーゼがハンマーフリューゲルで演奏したもので、Jecklinから2枚ずつ3巻で出ていた全集の第3巻を中古ショップで偶然発見しました。レオンハルトのシューベルトは、朝日選書「シューベルト」の著者、喜多尾道冬氏が音楽の友社のムックで推薦されていて気になっていましたが既に廃盤になっている模様なので狂喜乱舞して入手しました。古楽器を使用している以外は際立ったもののない演奏ですが、何とも親しげで柔らかい歌い口で、若き日まだ死の影を意識することのなかったシューベルトの青春の歌をみずみずしく歌い上げているのが心地よく、私の心にすうっと何の抵抗もなく入り込んできます。何度も聴いて味わいたい演奏です。今、Jecklinの第2巻と、彼女が最近再録音した第21番(Globe盤)をネットで注文中ですが、まだ音沙汰がありません・・・・。

                ・第4,13番、即興曲D.899:セルジオ・フィオレンティーノ(APR)

                 初めて聞く名前のピアニストですが、彼が1998年に晩年亡くなる少し前に録音したものです。独自の風格を持った音楽家の演奏とでもいうべきでしょうか。昔のヴィルトゥオーゾタイプのピアニストらしく、音の粒だちはとてもはっきりしていますが、甘くて柔らかく厚みのある音色がユニークで印象的です。じっくりとしたテンポでしみじみと心の底から歌い上げた13番が特に美しく、第2楽章の静謐さの中にはとても深い境地を感じます。愛すべきいい演奏でした。第21番の録音もあるそうなので機会があれば聴いてみたいと思っています。

                ・第4,14番、さすらい人幻想曲:ロナルド・スミス(APR)

                 このスミスも初めて知る人です。彼が1980年代にニンバスに録音したもののライセンス発売だそうです。技術的にも音楽的にも非常に素朴でダイナミックレンジも狭く、音像もはっきりせず音色もニュートラル、全体にこれといった特徴のない演奏に聴こえます。しかし、よくよく耳を傾けてみると、一つ一つの音やフレーズには淡くともしっかりした性格が与えられていて、とても心のこもった演奏であることに気づかされます。その飾らない訥々とした語り口には、知らず知らずのうちに引き込まれてしまいました。スター演奏家が弾くと途端に筋肉隆々の威勢の良い曲になってしまう「さすらい人」幻想曲が、シューベルトが少数の友人たちを前にピアノを弾いて聴かせているかのようなアットホームで親密な佇まいで奏でられているのが私にはとても好ましいです。繰り返し聴きたくなる魅力的な演奏でした。

                ・第15番、3つの小品:ルートヴィヒ・セメリャン(ATMA)

                 カナダの鍵盤奏者セメリャンがシューベルトの時代のコンラート・グラーフ製フォルテピアノを弾いた演奏。まずジャケットで第15番の第1楽章の演奏時間を見てびっくり。通常長くても15分程度のところを22分もかけて演奏しています。シューベルトのピアノ・ソナタというと、私はゆっくりしたテンポのものを非常に好むのでつい買ってしまいました。実際聴いてみると確かに「牛歩」ともいうべき遅さですが、表現自体は特に深刻でもなく、意味ありげなパウゼやアゴーギグもない非常に丁寧で素直な演奏でした。ですから、アファナシエフやリヒテルのようにシューベルトの音楽の深淵を明らかにするためにテンポを遅めたのではなく、フォルテピアノの音の減衰をしっかり聴かせるために遅くしたのではないかと思います。その結果、ちょっと間延びしたようなところが感じられてしまうのは残念ですが、しかし実直なまでに丁寧に音を積み重ねていく演奏者の姿勢はとても気持ちよく、カップリングの3つの小品も含め私はとても楽しみました。なお、未完の第15番は通常と同じように完成された2楽章までを演奏しています。

                ・第18番:村山卓洋(genuin)

                 何年か前のシューベルト国際コンクールで入賞した村山氏の録音。バッハのトッカータと武満の「閉じた眼」に挟まれて演奏されていますが、非常に大柄のスケールの大きな表現に好感を抱きました。どの音も非常に明晰で重量感があり、アクセントも概して強め、ゲルハルト・オピッツの弟子としてドイツのピアノ演奏の流儀を引き継いでいる人という印象でした。しかし、すべてがあまりにクリアに弾かれているせいか、この曲独特の、彼岸と交信しているかのような幽玄な雰囲気が背後に行ってしまったように思えるのが少々残念。とはいえ、日本のピアニストでもこれだけの演奏ができる人ができるのだと知って嬉しかったです。村山氏の今後の活躍を期待したいと思います。

                ・第19番、即興曲D.899ほか小品:セバスチャン・クナウアー(Berlin Classics)

                 続いて今度は生粋のドイツ人で、フィリップ・アントルモンの高弟クナウアーの1999年の録音。19番は非常に几帳面ですべてが明晰に弾かれた誠実な演奏です。ハ短調の和音は非常にドラマティックに重量感を持って鳴らされていて、ベートーヴェン的な推進力や音楽の構築への意志を強く感じさせるものです。その意味ではなかなかの好演ですが、この曲に現れる短調と長調の交差や半音階の多用による心の「ざわめき」は、どうしても「安定」の方向のベクトルへと収斂させようという意志が働いているようなのが私の好みとは少し違う気がしました。むしろ、哀しみを掌の上でコロコロと転がして戯れているかのような「ハンガリーのメロディ」の演奏の方が私には気に入りました。彼は今年、来日して演奏会を開くそうなので聴いてみたいなあと思ったりもしています。

                ・第20,21番:コンスタンティン・リフシッツ(若林工房)

                 リフシッツは決してマイナーなピアニストではないですが、発売されているレーベルがマイナー(若林工房)なのでこちらで感想を書きます。20番は1996年、リフシッツが20歳の時、そして21番は2003年の日本でのライヴ録音だそうです。まだ20代の若いピアニストの演奏からシューベルトの音楽の「深淵」がはっきりと見てとれます。20歳で既に20番の第2楽章で深々とした寂寥の響きを聴かせているのは大変素晴らしいですが、それ以上に21番のシューベルトの「孤独の痛み」が十全に表現された演奏は、リヒテルやアファナシエフの系譜に立つものとして捉えることができるのではないかと思います。もちろん、これが完成された表現だとは思いませんから、リフシッツは今後また違った角度からシューベルトの音楽の魅力を引き出してくれるものと期待します。

                ・・・他に聴いたもので感想を書きたいものもあるのですが、"To Be Continued"ということで今日はこのへんでお開きです。

                私のシューベルティアーデ(4) 〜 後期弦楽四重奏曲の弦楽合奏版

                2008.02.25 Monday

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                  シューベルト/弦楽四重奏曲第12番、13番「ロザムンデ」、14番「死と乙女」(ラクレフスキー版)
                  ミーシャ・ラクレフスキー指揮クレムリン室内管

                  詳細はコチラ

                   今日取り上げるシューベルトのディスクは、先日所用があって実家に帰った際に大阪のCDショップでみつけたものです。なかなか見かけないディスクなので入手を諦めていましたが、たまたま店頭に残っていたので即買いでした。

                   ラクレフスキー/クレムリン室内管というと、90年代にClavesレーベルから様々な弦楽合奏用の曲を集めたCDを続々とリリースしていて、私のようなショスタコ・ファンには弦楽四重奏曲第15番の弦楽合奏版を世に初めて出したことで記憶していますし、シュニトケの弦楽四重奏曲まで弦楽合奏でやっていて結構強烈な印象を残した人たちでした。

                   彼らは、1997年のシューベルト生誕200年の際に、シューベルトの後期の第12番「四重奏断章」、第13番「ロザムンデ」、第14番「死と乙女」を指揮者のラクレフスキー編曲の弦楽合奏版で録音していたのでした。マーラー編曲の「死と乙女」は既に一般的なレパートリーになっていて弦楽合奏で演奏することは珍しくありませんが、12,13番まで弦楽合奏でやってしまおうという彼らの試みには食指を動かされます。

                   楽しみにして早速ディスクを聴いてみたのですが、これがとても素晴らしい。

                   まず、第12番の死の影を思わせるような不気味なトレモロは、厚みのある弦で演奏されることにより、その「恐ろしさ」が倍加しているような気がします。

                   また、「ロザムンデ」も曲自体がシンフォニックな構成をとっていることもあり、まったく違和感なく聴くことができました。この13番の出だし、「糸を紡ぐグレートヒェン」の伴奏音型の変形を提示してその歌曲の歌詞を暗示させ、彼自身が永遠に失ってしまった安らぎや希望への喪失感が歌われていますが、演奏も真っ白な哀しみを心の内に抑えながらも切々と歌っており胸を打たれます。そして、劇音楽「ロザムンデ」の間奏曲第3番が引用された第2楽章の清楚な美しさは、訓練され響きが十分に吟味された弦楽合奏の響きによって際立っています。響きの分厚さと引き換えに原曲のインティメートな楽器同志の対話は薄まってはいますが、私にはそれが瑕とは感じられませんでした。

                   続く「死と乙女」もまったく素晴らしい演奏で、いささかの弛緩もなく悲劇的な曲の核心を突こうとする真摯さに胸を打たれます。あの第2楽章の歌曲「死と乙女」の変奏もただただ哀しさと美しさの限り。シューベルトの音楽の「悲しみを歌えば愛になり、愛を歌えば悲しみになる」という特質を、存分に味わって充実した時間を過ごせました。
                   いいディスクを入手できたと私は思っています。

                   こういう演奏に出会えるのでCDショップ詣ではやめられません。そして、シューベルト狂いもまだまだしばらくやみそうにありません。

                   因みに、シューベルトの後期の弦楽四重奏曲の弦楽合奏版では、クレーメル/クレメラータ・バルティカの15番(ECM)もあり、こちらも素晴らしい演奏です。
                   また、もう最近は店頭では見かけなくなりましたが、私が愛してやまない弦楽五重奏曲の弦楽合奏版(近衛秀麿の管弦楽版にあらず)のディスクもあります。ダリア・アトラス指揮アトラス・カメラータ(ITM CLASSICS盤)がそれですが、こちらは残念ながら編曲がイマイチで原曲の方が良かったです・・・。

                  There Is Sweet Music

                  2008.02.24 Sunday

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                    "There Is Sweet Music〜 English Choral Songs 1890-1950"
                     ジョン・ラター指揮ケンブリッジ・シンガーズ

                    詳細はコチラ

                     シューベルトのCDは続々と増え続けて、相変わらず聴きまくっているのですが、それ以外のディスクも聴いています。私の近所のショップでは50〜70%OFFのバーゲンがあり掘り出し物が結構あるのでついつい買ってしまうのです。

                     最近入手したディスクの中で特に印象に残っているのは、最近は作曲家としても有名な合唱指揮者ジョン・ラターが指揮するケンブリッジ・シンガーズのイギリスの無伴奏合唱曲集"There Is Sweet Music"です。このアルバムには、スタンフォード、ディーリアス、エルガー、ヴォーン=ウィリアムス、ブリテンら作曲家の作品に加え、グレインジャーやホルストが編曲した民謡などが収録されています。(録音は1986年頃の少し古いもの)

                     まず、アルバム冒頭のスタンフォードの「ブルーバード」からその美しさにぐいっと引き込まれてしまいます。何という静かで優しい、そして儚げな旋律なのでしょうか!!聴いていると、本当に空をゆったりと飛ぶ青い鳥の姿が眼に浮かぶようなとても印象的な曲です。因みに、これはどこかで聴いた曲だと思っていたら、インターネットラジオOTTAVAでテーマ曲のようにして流されている曲でした。

                     そして、私がお目当てにしていたディーリアスの「夏の夜、水の上にて歌える」は、テノール・ソロが、今をときめくエヴァンゲリスト、マーク・パドモア。ガラス細工のように繊細で美しさの極みともいうべき伴奏にのって、パドモアはのびやかですがすがしい歌を聴かせてくれます。私がLP時代に愛聴していたレッジャー/キングスカレッジ合唱団とロバート・ティアーの演奏以上に私には好ましい演奏でした。

                     続くアルバムタイトルのエルガーのパートソング"There Is Sweet Music"、"My Love Dwelt in a Northern Land"も素晴らしい歌ですし、ブリテンの花を題材にした、でも少し苦味を感じさせる曲も良いですが、それ以上にイングランドやアイルランドの民謡の編曲はとても素晴らしいです。

                     まず、ディーリアスの有名な狂詩曲の原曲「ブリッグの定期市」の哀しげな旋律はとても印象的です。
                     そして、私の心をわしづかみにしたのはグレインジャー編曲の「ロンドンデリーの歌(ダニーボーイ)」です。有名な旋律が2回歌われるのですが、この編曲ではいずれもハミングで歌われるのです。だからこそかえって、曲のメロディの美しさがそのままストレートに響いてきます。ケンブリッジ・シンガーズの面々もまさに感じ切って万感の思いをこめつつ淡々と歌っていて、私は聴きながら思わず落涙してしまいました。私が死んだらこの演奏を流して欲しいと思うくらいに気に入りました。

                     イギリスのパートソングの魅力を改めて知ると同時に、人間の声の魅力を思い知らされた良いディスクだと思いました。これを新品600円で入手して何だか申し訳ないと思うくらいです。

                    私のシューベルティアーデ(3) 〜 映画の中のシューベルト

                    2008.02.09 Saturday

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                      シューベルトの音楽にどっぷり浸る生活が続いています。
                      今日は、シューベルトの音楽が使われた2つの映画のことを書きます。

                      一つめは、シャーリー・マクレーン主演の「マダム・スザーツカ」(1988)。



                      これは、マクレーン演じる老ピアノ教師マダム・スザーツカと、その弟子であるインド人少年マネクの心の交流を描いた映画です。あまりヒットしませんでしたが、マクレーンの深い演技が印象的な映画でした。(詳しいあらすじはコチラ)

                      この映画の中では、シューベルトのピアノ連弾曲「幻想曲へ短調D.940」が使われていました。スザーツカとマネクの連弾シーンだけでなく、映画が終わった後のスタッフ・ロールでもこの曲冒頭の哀しげな旋律が流れて来ます。ほろ苦くてちくりと胸に刺さる寂しげな結末の余韻が何ともこの曲の調べとマッチしていて、スタッフロールが終わるまで映画館の席を立てなかったのを記憶しています。私は、ラ・フォル・ジュルネでもおなじみのケフェレックとクーパーのデュオの演奏を好んで聴きます。

                      もう一つは、パトリス・ルコント監督の「列車に乗った男」(2002)です。



                      定年を迎えて孤独な生活をするフランス語教師マネスキエが、街へやって来た訳ありの男ミランと同じ列車に乗り合わせたことから、束の間の奇妙な共同生活をするお話。他のルコント映画とは少しテイストが違い、全く正反対の男同士の人生が微妙な「交差」をしながら互いに共感し合うところが印象的な映画です。(詳しいあらすじはコチラ)

                      この映画の中でマネスキエがミランのためにへたくそなピアノを弾くのですが、そのときに弾いたのがシューベルトの即興曲D.935(Op.142)第2番変イ長調。とてもシンプルで明るくて、それゆえにどこか哀愁を帯びた曲調が、自足してはいてもどこか哀しげな表情でポロポロと弾くマネスキエの姿とぴったり合っていて印象的でした。

                      この曲は名盤が多くて、気分によっていろいろ聴きたくなりますが、バックハウスの生涯最後の演奏会のライヴが特に印象に残っています。その演奏会で、バックハウスは1曲目のベートーヴェンのソナタを弾いている途中で気分が悪くなり退場し、休憩後にシューマンの幻想小曲集から2曲と、この曲を演奏して聴衆と最後の別れをしたのでした。その演奏にあるのは、質量さえも失ってしまったかのような不思議な浮遊感のある透明な境地です。あとはルドルフ・ゼルキンやアラウ、内田光子なども好きです。

                      そういえば、「列車に乗った男」でも最後は主人公の「死」が扱われていて、見ていてバックハウスのシューベルトとも何か通じる感覚が感じられたのを思い出します。きっと即興曲のシーンが私自身の心の中に伏線を作っていたからだとは思いますが。

                      その他、大昔の「未完成交響楽」(「わが恋が終わらざるが如くこの曲も終わらず」とかいう台詞がありました)の時代から、いろいろな映画でシューベルトの音楽が使われていることと思います。私は見ていないのですが、「のだめカンタービレ」でもソナタの第16番が使われたそうですね。私としては、大好きな弦楽五重奏曲の第2楽章、誰か映画で使わないかなあと考えたりしています。