私のシューベルティアーデ(27) 〜 ブレンデルのソナタ選集
2008.04.29 Tuesday
・ピアノ・ソナタ第14〜21番、即興曲集、3つの小品、さすらい人幻想曲ほか
アルフレッド・ブレンデル(P)(Philips)
アルフレッド・ブレンデルが1980年代にデジタル録音したソナタ選集を聴きました。1822年以降に書かれた第14番からあとのピアノ・ソナタ全部と、即興曲集、3つの小品、さすらい幻想曲など、「晩年」のシューベルトのピアノ作品の集大成になっています。
高価なブレンデルのソナタ全集を買った理由は、バーゲンで大幅値引きされていたからです。でも、それ以上に、「ブレンデルがなぜ1970年代以降のシューベルトのピアノ・ソナタ・ルネッサンスを巻き起こしたのか」について、じっくり考えてみたかったからというのが一番大きい。
今まで私は、専ら自らの「心の再生」のためというパーソナルな要求からシューベルトの音楽を聴いていました。でも、今は心に少しゆとりも出てきた。それもあって、例えば、「シューベルトの音楽の受容史」の文脈を念頭に置く、というような、自分の外からの視点で触れてみたくなったのです。そうすることで、シューベルトの音楽の、これまで気づけなかった魅力に気づけるかもしれないからです。となれば、シューベルトの第一人者として評価されるブレンデルのディスクは、どうしても避けて通れない。
ブレンデルの「語り」を聴くような演奏でした。
シューベルトの音楽には、人間の意識や思考の流れの「訳の分からなさ」がリアルに表現されています。例えば、時折思いもかけずふっと物思いに落ちて行ったり、内面から溢れてくる思考の渦の中で行きつ戻りつして行き場を探したり。決して線形に物事が運ばない。その道筋は曲がりくねっていて、時制もあちらこちらへと飛んで行く。
楽界随一の「考える人」にして明晰な頭脳の持ち主のブレンデルは、そうしたシューベルトの音楽の「訳の分からなさ」を見事なまでに明快に解きほぐし、それがどういうものかを我々に懇切丁寧に説明してくれます。「ほら、フランツの独り言がまた始まった。ちょっと注意して聴いてみてね」とか、「ああ、またさっきと同じこと言ってるね。長ったらしいし、ちょっとここは早足でいこうか」とか、「このパッセージにはユーモアを感じないかい?面白いよね!」とか。あの厚い眼鏡の底からギョロっとした眼差しをこちらに向け、にっこりと微笑んで語りかけてくるのを、音の背後に感じずにいられません。
彼が発する言葉は、緻密な分析に裏打ちされたもので、いちいち説得力があります。かといってアカデミズムに淫した無味乾燥な演奏には決してせず、長年弾き込んで年季の入った表現には熟慮と抑制を感じさせる奥行きがあり、聴き手への配慮を欠かさないあたたかな良心も感じさせます。ブレンデルは、シューベルトへの音楽の欠点を聴き手になるべく意識させることなく、ベートーヴェンともまた異なる独自の立派な風格をもった作曲家だと気づいてほしい、と言っているかのようです。そのために凝らされた数々の工夫や熟慮は、シューベルトの音楽への並々ならぬ愛情や情熱を感じさせるものであり、その完成度の高さはまさに「第一級」のものです。無論、卓越した演奏技術があるからこそ可能になった演奏なのは言うまでもない。だからこそ、こうした優れた演奏を通して、シューベルトの音楽の魅力に気づく人が多かったというのは、うなずけます。
ただ、私は既に、その後に出てきたアファナシエフを初めとするピアニストたちの演奏を知っています。彼ら彼女らは、「訳の分からなさ」をそのまま受け容れることでこそ、シューベルトの音楽の美質を本当に感じることができるのだと主張し、私たちに大きな衝撃と感銘を与えてくれました。
それらの演奏で洗礼を受けた耳でブレンデルを聴くと、その優れた演奏に感嘆しつつも、「ああ、そんなに音楽をいじらなくても十分に美しいのに」とか、「もう少しシューベルトの音楽の世界にどっぷり浸らせてほしいのに」とささやかな不満を抱いてしまうのは否めません。やはり、シューベルトの音楽の「立派さ」よりも「不完全さ」にこそ、魅力を感じてしまう体になっているからです。勿論、ブレンデルの献身的な努力を否定するつもりなど毛頭ありませんが、やはり私はシューベルトの「不完全さ」に立脚した演奏に、より惹かれます。現代を生きる我々のパーソナルな心理の不安や苦悩と、より大きな共鳴を生んで、そのことで私に「生きる力」を与えてくれるからです。その意味で、私は、ブレンデルの演奏に諸手を挙げて「万歳!」とは言えません。
ですけれども、繰り返しになりますが、ブレンデルの演奏がいかに優れたものであるか、彼がいかに優れたシューベルト弾きであるかは強く実感できました。当初の目的に立ち返って、「なぜブレンデルのシューベルトがルネッサンスを引き起こしたか」という問いに対しては、かなり明確な答えは得られたので十分に満足です。濃密な体験を与えてくれたディスクたちに深謝したい。
最後に述べておきますが、ブレンデルは大好きなピアニストです。彼のバッハやベートーヴェン、シューマンには愛聴盤もある。ナマでも3回聴いて大変感銘を受けた記憶もあります。クリーヴランドSQとの「ます」やディースカウとの「冬の旅」もお気に入り。そのことは忘れずに述べておきたいと思います。
残念なことに、ブレンデルは今年2008年をもって現役引退なのだそうです。まだ活躍できそうな年齢なのにもったいない限りですが、彼らしい美しい「引き際」なのかもしれません。願わくば、最後の来日公演をしてシューベルトを聴かせてほしいところですが、もう無理ですね。悠々自適の生活の中で、得意の文筆活動を続けたりするのでしょうか。おつかれさまでした、というところですね。