ハンス・ロットの交響曲のオルガン版?

2008.05.31 Saturday

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     先日、ハンス・ロットの交響曲が大阪で演奏されたと聞きました。私は聴きに行けませんでしたが、ロットの音楽がより広く音楽ファンの間で認知されていることの証しかと思います。とても嬉しい気がします。

     さて、HMVの新譜情報を見ていたら、こんなのがありました。

     (Organ)symphony: E.horn +bruckner, Mahler, Etc

     ハンス・ロットの交響曲のオルガン版のディスクが出るということなのでしょうか?今まで、第1楽章のみのオルガン編曲のディスクはあったようですが(現在廃盤)、今度のはそれとも演奏家もレーベルも違います。カップリングがブルックナーとマーラーということで訳が分からずまったく詳細不明ですが、とても興味深いディスクです。きっと1ヶ月後のこのブログでは、このディスクを聴いた感想を書いている自分の姿が思い浮かびますが、一体どんな演奏になっていることやら想像がつきません。

     因みに、このディスクで演奏しているエルヴィン・ホルンという人は、多分、以前Novalisレーベルからブルックナーのオルガン作品集を出していた人だと思います。

    ・ブルックナー/オルガン曲集
     エルヴィン・ホルン(Org)(Novalis)


     そこでは、オリジナルのオルガン曲に加え、第0,6番の緩徐楽章のオルガン編曲版も弾いていて、アレンジというか音栓の選び方が良く、なかなか良い印象を持っています。(現在廃盤の模様です)

     ブルックナーの弟子であったロットの交響曲をオルガンで、というのはあり得る発想です。ただ、この交響曲、個人的にはブルックナーよりもマーラーの音楽との近さをより強く感じるので、果たして納得のいく結果となっているのかはちょっぴり心配ですが、ロットの音楽の大ファンとしては、今から聴くのが楽しみです。

    私のシューベルティアーデ(35) 〜 カッサールのシューベルト

    2008.05.26 Monday

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       1900年のパリ万博で、マーラーがウィーン・フィルを率いて自作の「復活」を指揮した際、客席にいたドビュッシーは「音楽がシューベルト的だ」と言い残して途中で退席したそうです。ドビュッシーの批判が、「マーラーがシューベルトの真似をしているのが悪い」、あるいは、「シューベルトの音楽みたいで価値を見出さない」、どちらの意図でなされたものかは分かりません。しかし、ある意味フランス音楽の象徴ともいうべき作曲家のエピソードを思うにつけ、フランス人にとってシューベルトの音楽はどのように聴かれ受容されているのかとても興味が湧きます。

       先般開催されたLFJでは、フランス人のピアニストが大挙して来演してシューベルトを演奏しました。フランス人はシューベルト好きなのでは?と思うほどの豪華な顔ぶれは、ケフェレック、エンゲラー、ダルベルト、ペヌティエ、ブラレイ、そしてフィリップ・カッサール。私のシューベルト好きな知人が、カッサールの演奏するソナタ第20番を聴いてとても感動したとおっしゃっていたので、それまで名前さえもよく知らなかったカッサールのシューベルト、これは是非聴かねばと思うようになりました。

       そんな折、ふらりと立ち寄った中古CDショップで、カッサールの弾く第13,21番のソナタのCDを見つけたので狂喜乱舞して入手しました。2001年に録音された比較的新しいディスクですが、最近CDショップでは見かけたことのないディスクだったからです。

      ・ピアノ・ソナタ第21,13番
       フィリップ・カッサール(P) (Ambroisie)


       まず何よりも、艶消ししたようなシックで奥行きのある「黒」を想起させる音色に耳を奪われます。しかも、決して重苦しくならない適度なソノリティがとても心地良いのです。また、彼の語り口は、弱音を主体にした沈思黙考するようなもので、音楽に内在する深い静寂を表現しようとする強い姿勢を感じます。このように表面的にはとても地味な演奏とも言えるのですが、カッサールの奏でる「音」を注意深く丹念に追いかけていると、何とも絶妙に抑制された「歌」が隠されていることに気がつきます。例えば、第21番の冒頭の漂うような旋律などまさにシューベルトの「無言歌」になっていますし、第2楽章の静謐な響きからはシューベルトの歌曲(「死と乙女」や「白鳥の歌」のハイネの詩への付曲など)と通じる深い孤独を感じます。第13番も同様のアプローチで、後期の音楽と相通じる深い深層心理の世界をじっくりと聴かせてくれます。これは、正真正銘の「シューベルト弾き」の勲章を身につけた人の素晴らしい演奏だと心から感動しました。

       このディスクがとても気に入ったので、CDショップへ走り以下の2枚も買って聴きました。

      ・楽興の時、ピアノ・ソナタ第19番
       フィリップ・カッサール(P) (Accord)


       1988年録音の「楽興の時」とソナタ第19番のディスクは、21番のソナタのCDに入っているカッサールのインタビューの言葉を借りると、「まだ修行中の頃の録音」なのだそうです。しかし、これはもう既に、カッサールのシューベルト弾きとしての素質を如実に現した素晴らしい演奏だと思います。
       「楽興の時」の「楽興」というのは、一体どういう意味の言葉なのだろう?と常日頃考えているのですが、カッサールの演奏を聴いていると、それはどうも他の演奏から聴けるような「哀愁」だとか「感傷」とは無縁の、もっと厳しい「哀しみ」や「痛み」のニュアンスを奥に孕んだ言葉に違いないという確信を持ちます。例えば、あの有名な第3番。非常にゆっくりしたテンポで、少し後ろ向きに引きずられるようなリズムの伴奏に乗って、何と淋しげな孤独の歌が繰り広げられていることでしょう。第6番で聴かれる不協和音も、深刻ぶったりはしていないのに、何と深く私の心に突き刺さってくるのでしょう。こんな奥深い佇まいを持った「楽興の時」は私は初めて聴きます。
       そして、第19番のソナタは、まずその冒頭からして独特の演奏になっています。ハ短調の和音が力強く鳴らされた直後、音楽はすぐに力を弱め心の奥へとこもろうとする内向きのベクトルに支配されていきます。シューベルトが、ベートーヴェンのような「構築された音楽」への憧れを持ちつつもそこへは辿り着けなかった作曲家であることを強く意識させられます。そして、全曲を通して、まさに村上春樹氏の言うシューベルトの音楽の本質である「ものごとのありかたに挑んで敗れる」プロセスを体験することになります。これもまた、シューベルトの音楽の核心に触れた素晴らしい演奏だと私は思います。

       さて、最後に、発売されて間もない2007年録音の即興曲集です。

      ・即興曲集、リスト編「君こそ我が憩い」「愛の使い」
       フィリップ・カッサール(P) (Accord)


       曲のせいでしょうか、それとも楽器を変えたのでしょうか、これまでの録音よりも少し光沢のあるギャラントな音色になっている印象があります。そして、カッサールのシューベルトの「孤独」と真正面から向き合うアプローチも、これまでのディスクに比べれば幾分柔らかさを見せているようです。しかし、それらは彼の内的な「成熟」または「円熟」を印象づけるものであって、カッサールのシューベルトを聴く楽しみはこのディスクでも十分に味わうことができます。特にD.935の方の即興曲の味わい深い演奏には心を惹かれました。

       このカッサールのシューベルト、もっと聴きたいと思うのですが、1991年録音のソナタ第17番と3つの小品のディスクは廃盤。そもそも録音嫌いなのかディスク自体もとても少ないようですが、入手可能なものの中では、シューマンの「幻想小曲集」と「子供の情景」のディスク、また、"Sur le bout des doigts"と題されたピアノ名曲集を聴いてみたいと思って狙っています。

       ところで、最後に、ソナタ第21番のディスクのライナーノートにあったカッサールのインタビューの中から、特に印象に残った言葉をメモってこのエントリーを閉じたいと思います。とても印象的な言葉に出会うことができましたので。

       いろいろと学び、練習を重ねて、シューベルトの音楽が語ることを自ら学ぶように努力しなければならない − 決して自分独自の色など追い求めたりせずにね。そんなことをするとシューベルトは台無しになってしまうから。

       D.960のアンダンテ・ソステヌートには同時期の弦楽五重奏曲の緩徐楽章に出てくるピツィカートに似た左手の音型があって、一見この2曲は似ているようにも思うのだけれど、実際のところその内容はかなり違う。無重力に漂うような気分は、冷たい、峻厳な隔世の感じに取って代わられている。それはどこか、R.シュトラウスが「四つの最後の歌」で用いたアイヒェンドルフの詩(注:「夕映え」)を想起させる。

       旅は、なんとこの身にこたえるのだろう
       死の到来というのも、このようなものだろうか?

      そうだね−マーラーの交響曲第3番や第9番にあるような深い瞑想の感じにも通じるところがあるかもしれないな。

      私のシューベルティアーデ(34) 〜 ホロヴィッツのソナタ第21番

      2008.05.25 Sunday

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         今日は、所用で楽器店に寄った際、シューベルトのピアノ・ソナタの楽譜を買って来ました。全音から出ている全集の第3巻で、第17〜21番の楽譜が収録されています。18番や21番の冒頭など、私のようなヘタクソでも音だけは出せそうなところは帰宅して早速遊んでみましたが、好きな音楽の音が鳴っているというだけでもとても楽しかったです。もっとも、弾けるところなどたかが知れた部分しかないので、今後はCDを聴くときのお供として愛用していくことになると思います。

         さて、今回は、ホロヴィッツが最晩年に録音した第21番のディスクについて書きます。

        ・シューベルト/ピアノ・ソナタ第21番
         シューマン/子供の情景
         ウラディミール・ホロヴィッツ(P)(DG)



         1986年、ホロヴィッツの死の3年前にニューヨークのスタジオで録音されたこの演奏、私は最初に聴いた時に非常に大きな違和感を覚えました。他の演奏からはついぞ聴かれないようなユニークな瞬間の連続なのです。全曲にわたって基本となるテンポは中庸ながら、極端なまでに広大なダイナミック・レンジ、独特のテンポの揺らぎとロマンティックなるルバートやリタルダンドが縦横無尽に駆使され、すべての音符が変幻自在な表情をもって耳に飛び込んできます。左手は1オクターヴ下の音が重ねられることもあり(フィナーレは特に凄い)、楽譜を見たことのなかった時点でも、楽譜から相当に「逸脱」した演奏であることは容易に察することができました。まさにホロヴィッツ色で塗り固められた独特の演奏なのです。

         そして、今日は買ってきたソナタの譜面を見ながら、この不思議な演奏を再び聴き直してみました。すると、楽譜には書いていないデュナーミクやアゴーギグの嵐に、改めて驚きました。恣意的と言ってもいいくらいに独特の味付けがそこかしこにされています。私の乏しい読譜力では、このシンプルな楽譜からどうしてこんなに猫の目のようにコロコロと表情の変わる演奏が出てくるのか理解できませんでした。

         しかし、カップリングのシューマンの「子供の情景」では事情がまったく異なります。'87年にウィーンでライヴ録音されたこの曲は、馥郁たる香り高いロマンが詩のように美しく、掛け値なしに感動的な演奏になっているのです。信じられないくらいにデリケートな音色や歌の美しさ、切なさに落涙してしまいました。

         なぜ?
         シューマンでこれほど感動的な演奏をするピアニストのシューベルトが、どうしてこんなに私には遠い演奏になってしまうのでしょう?

         ・・・貧弱な頭を絞って考えてみました。

         まず、シューマンという作曲家は、自己の中に強烈な「自意識」を持ち続けた人なのだろうと思います。彼の精神はロマンティックですが、常にどこか「覚醒」している自己が中心にあり、自分の中で起こっている感情や思考を冷静に見つめていた。そして、自身が作り出している音楽について、聴き手に対して抱く期待する効果についてかなり明確に意識していただろうと思うのです。

         であるならば、19世紀後半のロマン派のヴィルトゥオーゾ・ピアニストの精神を色濃く受け継ぎ、しかも常に聴衆を「楽しませる」ことに重きを置いたエンターテイナー的な「自意識」を持つホロヴィッツにとって、シューマンの音楽の内にある「自意識」はとても親しいものであり、あらゆる技巧を凝らしてシューマンの目指した効果を体現することはごく自然な行為だったに違いないだろうと思います。だからこそ、こんなに心の琴線に触れるような素晴らしい演奏を繰り広げることができたのだろうと私は考えます。

         さて、一方のシューベルトはというと、シューマンのような「自意識」が希薄というか、やはりシューマンよりも古い時代の人のものであるという気がするのです。シューベルトの年長の友人で歌手のフォーグルは、彼を評して「自分の内部で何が起こっているのかが理解できていない。とめどない氾濫が起こっている。」と言ったそうですが、彼は心の中にひとたび音楽が湧き上がると、ただひたすら夢中になって音楽に没頭し、聴き手の存在を意識することさえもできなかったのだろうと思うのです。

         従って、「フロレスタン」と「オイゼビウス」という自己の内部の対立や矛盾に悩まされて発狂した(ホロヴィッツも一時期精神を病んだ)シューマンの人工的な音楽と、無意識のうちに彼岸と此岸を行きつ戻りつするような自然児たるシューベルトの音楽が、そもそもの立脚点が異なるのは当然のことです。そして、ホロヴィッツという「自意識」の強いピアニストが、彼がシューマンで見せたアプローチをシューベルトの音楽にそのまま適用するなら、その結果がいわゆる「普通の」シューベルトの演奏とかなり大きく趣が変わるのも当たり前のこと、そこに私は大きな違和感を感じたのでしょう。ホロヴィッツは、彼のヴィルトオージティを発揮する素材としてのシューベルトの音楽には興味があっても、シューベルトの音楽の奥にあるメンタルな要素にはさほど関心がなかったように思えて、私にはあまり共感ができなかったのです。同時代に活躍したルービンシュタインが、もっと音楽に寄り添い、とても美しくナチュラルな21番を聴かせて感動に導いてくれたのとは大きな違いです。

         しかし、一旦そんなふうにホロヴィッツの演奏を勝手に「理解」して視点を変えて聴いてみれば、これ以上はあり得ないというくらいにデリケートな最弱音のささやきや、微妙なテンポの揺らぎをもって行きつ戻りつするモチーフの味わいなど、他からは得難い独特の美質が確かにそこにあることに気がつきます。それはもう「大家の芸」としか言いようのない高みにあるものです。シューマンで受けた感銘も併せて思えば、やはりホロヴィッツというのは凄いピアニストだったのだなあと、今さらながらの感慨を持たずにはいられません。

         私は、これから先も、恐らくこの演奏を好きになれないとは思いますが、この演奏から受けたインパクトの大きさは忘れることがないでしょう。そして、「ホロヴィッツのピアニッシモが聴きたい」と思ったときには、このディスクをラックから取り出して聴くでしょう。そのへんの「矛盾」が、音楽の面白さでしょうね。

        私のシューベルティアーデ(33) 〜 ピアノ・ソナタあれこれ(マイナー編)

        2008.05.23 Friday

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           今日は、最近聴いた、とっても地味なディスクばかり集めてみました。ラウッリアラのディスク以外は、雑誌やネットで取り上げられているのを見たことがありません。

          ・ピアノ・ソナタ第19〜21番、さすらい人幻想曲
           ジェローム・ローズ(P)(Medici Classics)


           これは中古で入手したものですが、2002,3年、ニューヨークでの録音。アメリカ出身のピアニスト、ローズは私は初めて知る名前ですが、リストの作品の録音(Vox)で知られている他、ショルティやマッケラス、サヴァリッシュ始め、ジンマンやティーレマンとも共演したとのことです。
           彼の演奏を聴いていて出てきた言葉は、「ユルい!」の一言です。
           テンポは遅いとは言わないまでも全般にゆったりしていて、表情もまったく極端に走ることなく常に中庸、大きなドラマも起こらずにだらだらと同じような音楽が続いていきます。まさにシューベルトの音楽のある種の「退屈さ」を真っ正直に引き出しています。演奏技術は危な気なくしっかりしたものですが、この人はどこかのんびりしたところのある人なのでしょう、音楽がまったくガッつかないのです。きっとローズさんは、シューベルトの音楽をドラマティックに演奏しようなどと鼻から思っていないのでしょう、「さすらい人」の冒頭など、「やる気あるの?」と聞きたくなる人がいてもおかしくないくらいに前代未聞にユルい。
           でも、私は、この演奏のユルさ加減がとても好きです。酔っ払いが同じことを何べんも言っているのに油断して付き合っているうち、いつの間にか巻き込まれて結構楽しんでいる、そんな気分になってしまいます。厳しい耳を持った評論家やファンの方からは、一刀両断で斬り捨てられるような「駄演」かもしれませんが、私はこの演奏の肩を持ちたいと思います。こんな演奏があってもいいじゃないかと思います。この人はリストを得意としているそうですが、一体どんな演奏をしているのか気になります。

          ・ピアノ・ソナタ第21番、即興曲集D.899/942、3つの小品
           ジェームズ・リズニー(P)(Woodhause)

           シューベルトの演奏に情熱を傾けているイギリスのピアニスト、ジェームズ・リズニーの2005,6年の録音。こちらは、美しい弱音を武器に、とても繊細なタッチで丁寧に弾いているのがとても好ましいです。繊細とは言っても、神経過敏な聴き疲れのするようなものにはなっていませんが、ちょっと線が細すぎて、時々シューベルトの泣き言を聴いているみたいな気分になってくるのが面白いです。内気なはにかみ故に、涙を心の裡にしまって唇をかみ締めてこらえているというような一般的なシューベルト像じゃなくて、こういうメソメソしたウェットなシューベルトの姿に接するのもありかなと思います。際立った特徴に乏しい演奏ではありながら、そのウェットな泣き言を聴きたくて、時々このディスクに手が伸びてしまいます。これもきっと巷ではあまり評価されない演奏だと思いますけれど・・・。
           なお、このリズニーが弾いているスタインウェイ457560というピアノは、ペライアがモーツァルトの録音で使用するなど銘器として知られたものだそうですが、コヴェントガーデン歌劇場で舞台からピットに落下するという大事故(怪我人はなかったそうです)から修復したものなのだそうです。蛇足。

          ・ピアノ・ソナタ第21番、3つの小品
           リスト・ラウッリアラ(P)(ALBA)

           
           フィンランドの中堅ピアニスト、ラウッリアラの演奏は、独特のアゴーギグでテンポを揺らしながら音楽のドラマを掘り下げようという姿勢がユニークです。しかも、その音楽の振れ幅をほぼ許容範囲にとどめ、決して音楽が崩れないよう細心の注意が払われているところに、このピアニストの良識のようなものを感じます。併録の3つの小品も同傾向の音楽ですが、第2曲の中間部のようにテンポを極端に早め激しい表現を見せるところもあり、こちらは少し好悪を分かつところかもしれません。私はソナタのようなぎりぎりの抑制が欲しかったかなと思いますが、それでもしみじみとした趣のある部分では心が和む思いがします。全般に決して派手さはありませんが、手作りのいい音楽を聴いているなあという充実感を味わえました。ローズやリズニーのような「えこ贔屓」なしに、こちらは普通の意味で良い演奏だと私は思います。

          ・ピアノ・ソナタ第16番、小品集(変奏曲、ハンガリー風メロディほか)
           パトリシア・パグニー(P)(Novalis)


           さて、最後は、フランスの女流ピアニスト、パトリシア・パグニーが1995年に録音したピアノ作品集。ヒュッテンブレンナー変奏曲やハンガリー風のメロディ、クッペルヴァイザーワルツなどの小品が6曲、そして第16番のソナタが脈略なく並べられたものです。
           パグニーの演奏は、きちっとして折り目正しく、とてもお行儀の良い優等生的なものです。名盤の多い16番のソナタにしても、先般涙を流しながらシフの実演を聴いた「ハンガリー風のメロディ」にしても、音楽がとても淡白にさらさらと流れていくさまに呆気にとられてしまいます。「ちょっと待ってじっくり見て!楽譜の奥に何か見えるものはないの?」とパグニーさんに聞きたくなるくらい。
           でも、私はこの演奏、決して憎めません。近所にいるとても素敵な美人のピアノの先生が、一生懸命、丹精をこめて弾いたシューベルトといった身近さが胸にキュンとくるのです。こういう演奏だってあっていいじゃないかと思います。いつもいつもリヒテルやアファナシエフ、内田光子のシューベルトばっかり聴いていたら体が持たないですから。

           これらの地味な演奏を聴いていると、シューベルトの音楽は、「ベスト・レコードはどれ?」「○×の演奏に比べてどっちが良いか?」などクラヲタの王道的な聴き方をするよりは、明確な判断基準や審美眼も持たずにそれぞれの演奏の持ち味を味わうという聴き方の方がより楽しい気がします。

           今日はこんなところで。

          私のシューベルティアーデ(32) 〜 フォルテピアノによるソナタあれこれ

          2008.05.22 Thursday

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             昨日のエントリーで、ベルギーの鍵盤奏者フェルミューレンがフォルテピアノを弾いて演奏したシューベルトのピアノ・ソナタについて書きましたが、最近、他にもいくつかフォルテピアノによる演奏を聴いたので感想をメモっておきます。

            ・ピアノ・ソナタ第20,21番
             メルヴィン・タン(Fp)(Virgin)


             詩人の発する美しい言葉が一陣の風に乗って吹き抜けていったかのような、独特の聴後感のある演奏です。どちらの曲も第1楽章の提示部の反復を省略し、ほぼ33分程度という快速テンポで弾き進められていきますが、音楽にせかせかしたところはまったくなく、自然な息遣いのとても柔らかな歌が紡ぎ出されていきます。緩徐楽章も他の誰よりも早いテンポで淡々と弾かれますが、独特の浮遊感を感じさせるフレーズ感から、まるで目の前で手垢にまみれない言葉がふっと自然に生まれてくるさまを見るかのような不思議な感覚を覚えます。しかも、その言葉には、シューベルトのピュアな心の痛みが結晶になったかのような透明な哀しみがこめられていて、何とファンタスティックな演奏かとため息が出ます。このアプローチをモダンピアノでやろうとすると、恐らく表情が浅くなりすぎてしまって、この独特の風味は出なかっただろうと思わせるほど、楽器の響きと表現がぴったりと調和しているのも素晴らしい。
             このような演奏が可能になったのは、タンが古楽器からでも「滑らかなレガート」を引き出すことのできる卓越した技巧を持っているからでしょうが、それ以上に、とても感じやすい繊細な心と、それを暗喩として「言葉」にする詩人としての高い能力をも兼ね備えた人であるからだろうと私は思います。
             本当に素敵な演奏で、私が今まで聴いてきた古楽器によるシューベルト演奏の中で、インマゼールの21番と共に最も心に残る名演奏だと思います。
             ただし、それだけに尚更、特に第21番の第1楽章の提示部の繰り返しを省略してしまったのは本当に本当に残念なことです。あのミステリアスな9小節を彼がどのように弾くのか聴いてみたいのに・・・。

            ・ピアノ・ソナタ第16番、即興曲D.935
             パオロ・ジャコメッティ(Fp)(Channel Classics)


             人気チェリストのウィスペルウェイの伴奏などで知られたジャコメッティが、1815年ウィーン製のフォルテピアノで弾いた16番です。こちらは、タン以上に柔らかくまろやかな響きと、温厚で微笑を絶やさない柔和な歌い口が魅力的です。常に音のあたたかみが失われておらず、淋しさに満ちた最弱音にさえも血が通っているのを感じることができ、心があたためられるような心地良さを感じます。若い世代の鍵盤奏者だけあって、古楽器でこの曲を弾くことがごく自然で当たり前のこととでも言いたげな、良い意味で肩の力の抜けたスタンスも気持ち良いです。
             言葉を極限まで切り詰めてシューベルトの涙を結晶化してしまったかのようなタンのアプローチを知ってしまうと、安逸と言えば言い過ぎかもしれませんが、音楽が少し優しすぎる方向へ流れがちな印象を抱いてしまうのも確かです。しかし、これはこれでとても素晴らしい演奏だと思います。とても気に入りました。この演奏があまり話題にならないのは不思議な気がします。そして、彼の演奏、ロッシーニなども出ているようなので聴いてみたいと思います。

            ・ピアノ・ソナタ第18,21番
             イェルク・デムス(Fp)(Deutche Harmonia Mundi)


            ・ピアノ・ソナタ第11,13,14,19,20,21番
             パウル・バドゥラ=スコダ(Fp)(ARCANA)


             これらは、古楽器でシューベルトを演奏することにかけては、まさに先駆者とも言えるウィーン出身の巨匠が録音したものです。前者は録音年代は不明ですが70年代くらいの録音でしょうか。後者は1990年代初頭に録音された全集の第3巻です。
             両者とも、それぞれに研究に研究を重ねた成果を披露しようとする気概と、パイオニアとしての誇りに満ちた演奏と言うべきでしょうか。また、シューベルトがどのような音を思い描いて作曲したのかを探りあてようという冒険心のようなものも共通して感じられます。いかんせん、「学者先生の演奏」的なスクウェアな表現をところどころに感じてしまうのが残念ですが、彼らの努力がなければ、シューベルトの音楽を歴史的コンテキストの中で捉えなおして、シューベルトの音楽の先進性をリアルに体感するということもできなかったわけで、どちらの演奏にも等しく敬意と感謝を捧げるべきだと思います。

             このほか、AEONに録音されたシュタイヤーの16番の再録音などもありますが、これはまた別の機会に。

            私のシューベルティアーデ(31) 〜 フェルミューレンのソナタ集

            2008.05.21 Wednesday

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              ・ピアノ・ソナタ第19,15,20,4番、2つのスケルツォ

              ・即興曲集D.899,942、ピアノ・ソナタ第18,7番

              ・ピアノ・ソナタ第16,3,21,9番

              ヤン・フェルミューレン(Fortepiano)(蘭ETCETRA)

               ベルギー出身の鍵盤楽器奏者フェルミューレンが現在進行中のシューベルトのピアノ・ソナタのチクルス、先ごろ待望の第21番を含む第3弾が出ました。これでソナタ10曲(+即興曲8曲)の録音が揃いました。

               フェルミューレンという演奏家は、上記ディスクのライナーを見ても1979年にブリュッセル王立音楽大学を卒業し(現在は50歳代くらい?)、W.クイケンらと共演するなど広く活躍している云々というありきたりの経歴紹介しか見当たらず、どんな人なのかはまだよく分かりません。彼の顔写真を見ても、少し禿げ上がった白髪の普通のおじさんといった風貌。まあ下手に情報がない方が、変な先入観もなく音楽を聴けるので良しとしましょう。

               フェルミューレンの演奏は、テンポも中庸なら表現も穏やかである意味何の変哲もないもので、名盤ひしめくシューベルトのソナタの録音中ではかなり地味な部類に属すると思います。シューベルトの心の暗闇を暴いてみせようとするでもなく、新しい視座から思いもよらなかったシューベルトの音楽の別の側面を明らかにしようとするでもなく、肩肘張らず「ただそこにシューベルトの音楽があるから」弾いたとでも言いたげな趣が漂う演奏とでも言うのでしょうか。しかし、よく彼の演奏に耳を傾けてみると、フェルミューレンがシューベルトの書いた音符を非常に丹念にそして愛情を持って弾き込んでいるのがよく分かります。アーティキュレーションやフレージングもよく考え抜かれたものですし、ペダリングも非常に洗練されたものに感じます。彼自身のもつ確かな技巧や音楽学的な主張は音楽の奥へと注意深く隠し、シューベルトの音楽の持ち味をそのまま聴き手に届けようという誠実な姿勢にとても好感を持ちます。

               そんな彼の演奏を聴いていると、どの曲でもあたたかな気持ちになるのを感じます。例えば、あの第21番の不気味な左手のトリルでさえも、どこか親しみさえ覚えてしまいそうな独特の質感を持った「声」のように感じます。また、第18番の第1楽章での延々と続く高音の繰り返しのパッセージも、縁側で日向ぼっこしている時に外から聴こえてくる誰かの楽しげな歌のようにさえ聴こえます。第16,19番といった短調の曲ではさすがに悲劇的なトーンも聴こえますが、決して聴き手も、そして作曲者をも絶望に陥れない大きな包容力を感じます。そんな「あたたかさ」は、モダンピアノでは生み出せないと思ったからフェルミューレンは古楽器でシューベルトを弾いたんだろうなあと私は思います。因みに、彼が使用している1826年ウィーン製のナンネッテ・シュトライヒャーの楽器の音色も、強音で音がぺたぺたするフォルテピアノ特有の音はしますが、柔らかくあたたかい木目調の音はとても耳に心地よく聴き疲れのしないものです。

               これらのディスクは、滅多なことではCDショップの店頭で見つけられないマイナーなものですし、巷で話題に上ることもほとんどないでしょうけれど、私にとっては、家の片隅にさりげなく飾って、時々手にとって愛でてみたい調度品のような親しみを覚えるものです。このシリーズ、あとは13,14,17番、楽興の時、3つの小品あたりが出て完結ということになるでしょうか。今から第4弾の発売が楽しみです。

               また、最近、フォルテピアノの演奏によるシューベルトも他にいくつか聴きました。とても気に入ったものがあるので、その感想も次にメモっておきたいと思っています。

              気になる演奏家 その5 〜 エリアフ・インバル(指揮)

              2008.05.20 Tuesday

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                ・マーラー/交響曲第6番イ短調「悲劇的」
                 エリアフ・インバル指揮東京都響(FONTEC)



                 今日、インバル指揮東京都響のマーラーの6番のディスクを買って来ました。彼の都響のプリンシパル・コンダクター(首席指揮者?)への就任が決まった直後、昨年12月来日時の定期演奏会ライヴで、当日はチケットは完売、聴衆の評判も上々だったのは記憶に新しいところです。これから聴くのが楽しみです。

                 さて、私はインバルの20年来の大ファンで、現役指揮者中、私にとっては最も身近で大好きな指揮者の一人です。ナマは今まで30回以上聴きましたし、彼のディスクもかなり持っています。

                 私は、彼の非常に集中力の高い演奏が好きで、特に熱く激しい音楽への踏み込みと、冷徹とさえいえる冷静で知的な分析とが高い次元でバランスをとっているようなマーラーのナマ演奏には、いつも感動してしまいます。特に10番のクック版のCDは、10番の補筆版にとどまらず、私が聴いたあらゆるマーラーのディスク中でも最も大切なものの一つです。(1997年の都響とのライヴも良かった)他にも、新ウィーン楽派の作曲家の作品、ブルックナー、ベルリオーズ、ショスタコなどでも好きな演奏はたくさんあります。

                 そのインバルのことが今、私はとても気になっています。

                 このところの彼のレパートリー、狭すぎやしませんか?
                 日本に来ればほとんどがマーラー。ベルリンなどでも相変わらずマーラー、ブルックナー、ショスタコあたりの曲ばかりやっているようです。

                 いくらインバル・ファンの私でさえも、彼の最近の演奏会のプログラムを見ると、「ああ、またマーラーか」と思ってしまうのです。なるほどインバルのマーラーはいつだって聴きものに違いないですし、かく言う私も昨年のフィルハーモニア管とのマーラー連続演奏会にも足を運びました。そして何より、今日こうして彼のマーラーの新譜を嬉々として買ってきてはいるのですが、でも・・・。

                 私は、彼が今やっておくべき曲、他にもっとあるんじゃないかと思ってしまうのです。例えば、数年前に発売されたアイスラーの「ドイツ交響曲」なんて、インバルにしかできない激烈な音楽を聴かせてくれましたし、他に彼の音楽性に合った音楽はあるんじゃないかという気がします。彼のもっと新しい側面を見たいと思ってしまいます。

                 例えば、私が彼の指揮で聴きたい曲を挙げてみます。まったくごく個人的な願望に過ぎませんが。

                 ・ハンス・ロット/交響曲第1番
                 ・ドビュッシー/「海」、歌劇「ペレアスとメリザンド」
                 ・ブロッホ/交響曲嬰ハ短調
                 ・ニールセン/交響曲第5番
                 ・オネゲル/交響曲どれか
                 ・プロコフィエフ/交響曲どれか(特に2〜4,6番)、バレエ「ロメオとジュリエット」
                 ・ベルク/「ヴォツェック」「ルル」
                 ・シェーンベルク/「モーゼとアロン」
                 ・メシアン/トゥランガリラ交響曲、キリストの昇天など
                 
                 それから、やはり何と言ってもベートーヴェンでしょうか。インバル指揮のベートーヴェン・チクルスなんて、全然想像つかなくて「怖いもの見たさ」で聴いてみたいです。あるいは、彼がバッハの「マタイ」を振る姿なんてのも見てみたいかもしれません。

                 都響とは「コンパクトな契約なのでサインした」と語るインバル、都響への登場回数はあまり多くないようですが、申し訳ないけれども得意のマーラーはちょっとの間封印してもらって、東京(とプラハ)で今までないほど大暴れして一花咲かせてほしいと切に願います。マーラーは、体が動かなくなる直前に総決算として聴かせてくれればいい、なんていうのはインバル・ファンとしては暴言でしょうか・・・・。

                ロストロポーヴィチ/LPO チャイコフスキー/交響曲全集を聴いて

                2008.05.19 Monday

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                  ・チャイコフスキー
                   交響曲全集(第1〜6番、マンフレッド)
                   幻想序曲「ロメオとジュリエット」「フランチェスカ・ダ・リミニ」
                   ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ指揮ロンドン・フィル(EMI)



                   早いものでムスティスラフ・ロストロポーヴィチが亡くなって1年以上が経ちます。その後、追悼盤も数多くリリースされ、映画も上映され、海外ではロストロを偲ぶ大規模な演奏会(昨年10月にドイツで錚々たる顔ぶれのチェリストが集結、近くその際のライヴ録音がProfilレーベルから発売予定とのこと)が開かれ、彼がいかに大きな存在であったのかを実感させられる思いがします。

                   そんなロストロの指揮者としての代表盤の一つとしてLP時代から有名だったチャイコフスキーの交響曲全集が先ごろ輸入の廉価盤で再発売されたので聴いてみました。この全集は、LP時代はとても高価(7枚組で16800円!)で高嶺の花、そしてCDになってからは国内外盤ともボーっとしていたらあっという間に廃盤で入手困難に、私は追悼企画で安く出ないかと期待していたので、今回5枚組で3190円(HMV店頭価格)という値段で発売されたのは嬉しい。

                   さて、この全集の録音は1976〜7年にロンドンでおこなわれたものです。つまり、ロストロポーヴィチが祖国ソ連から国籍を剥奪されて数年後の録音ということになります。当時は既に、このロンドン・フィルとチャイコを演奏会で取り上げて熱狂を引き起こしたのを始め、正義のために祖国を追われた彼を西側があたたかく迎え、チェロだけでなく指揮の方でもプレゼンスが上がっていた頃の演奏です。ロストロ自身、恐らく立て続けに受ける数多くの賛美に自信を得て、まさに意気揚々とこのプロジェクトに取り組み始めたであろうことは想像に難くありません。

                   果たして、この全集に聴かれる演奏、特に第1〜3番の初期の交響曲とマンフレッド交響曲では、ロストロの「思い入れ」がこれ以上はないというほどの強烈さで迫ってくる凄絶なものになっています。中でも第1番は、私はこれまで今ひとつ面白みを感じたことのなかった曲なのですが、ああこんなに熱い感情が込められた曲なのか、これは素晴らしいではないかと気づき、これまでの不明を恥じずにいられませんでした。その熱く燃えたぎるようなめいっぱいに鳴らされた響きの分厚さ、脂分がこってりと浮かんだボルシチを思わせるような濃厚な味付けで歌われるカンタービレ、いずれも最盛期のロストロのチェロの特質をそのままオケで体現したかのような表現が、このチャイコの若書きの音楽が持つ魅力を思う存分に引き出していました。
                   国民楽派的な要素の強い第2、3番でもその魅力は同じですが、「マンフレッド」で聴かれるストーリーテラー的な語り口の巧さも特筆すべきものです。特に第1楽章のコーダでは息が出来なくなるくらいの荒れ狂うフォルティッシモの嵐、そして、フィナーレの「救済」の場面でのどぎついまでにギラギラした喜びの表現など、他の演奏からは聴いたことのない大きなダイナミックレンジをもった演奏には本当に圧倒されてしまいます。さらには、併録された幻想序曲「フランチェスカ・ダ・リミニ」も最晩年のバーンスタインもびっくりするくらいに濃厚な表現。どんな何気ないフレーズにさえも多彩で雄弁な感情表現があり、ここまで徹底してなりふり構わずやられると、こちらも恥ずかしいのを通り越して「もっとやってくれ!」と嬉しくなってしまうほどです。

                   このように、表現者としてのロストロが、その持てる力をすべて注ぎ込んだともいうべき熱い演奏がここにはありますが、しかし、この演奏の根底には、ただ単純に「音楽の喜び」だけがあるとは言えないだろうと思います。そこには、ロシア(ソ連ではありません)とロシアの音楽への限りない愛情と共に、強烈なノスタルジーを感じるのです。それはロストロが祖国を追われたという悲しい状況も大きな影を落としているに違いありません。

                   彼は、早い時期から西側で活躍してきた幸運な演奏家ではありますが、恐らく、祖国の人達と音楽を愛し、祖国の大地の上で音楽をやり続けたいという気持ちがあったに違いありません。彼の師ともいえるショスタコーヴィチが身の危険にさらされながらも、生涯を通じて祖国にとどまったことも忘れられなかったでしょう。ですから、祖国に帰れなくなってしまったこと(当時は後に彼が帰郷できることなど誰も想像できなかった)は、彼にとってどれほど辛いことだったかと思います。だから、彼はその祖国、いや郷土といった方がいいかもしれません、ともかく、ロシアへのホームシックにも似たノスタルジーをいつも抱えていたに違いありません。そして、その郷土へのノスタルジーが、このチャイコフスキーの交響曲の演奏を成立させている大きな要素になっていると思います。ですから、各曲のソナタ形式の楽章の第2主題や、緩徐楽章で聴かれるような歌は、いつ帰れるかも分からぬ祖国への望郷の歌そのものであるように私には聴こえます。

                   こんな彼の心を「愛国心」と呼んで良いのかは私には分かりません。恐らく、ソ連という非人間的な裏の顔を持った国家体制への憎しみも半ばする複雑な気持だったでしょう。しかし、少なくとも、ロシアの音楽、ロシアの聴衆への「愛」はきっと一度もいささかも揺らぐことなく彼の中にあり続けたことと思います。そんな悲劇的な状況を背景にした「愛国心」を感じながらこの演奏を聴くのは、なかなかにエネルギーのいるもので聴き終わるとへとへとになりますが、チャイコフスキーという作曲家の音楽を語る上では決して忘れることのできない記念碑的な演奏の一つと言えると思います。もちろん、こんな「暑苦しい」音楽はお嫌いな方も多いとは思うのですが。

                   ところで、第4〜6番の後期3つの交響曲については上記であまり触れてきませんでした。やはりロストロならではの熱い音楽が聴けるのですが、「後世の残る名盤を残そう」という思いが先に立ったのか、幾分音楽から少し距離をとって客観的に音楽を響かせようという意図が働いたのか、ちょっとおとなしめの演奏になっているのが不思議でした。初期の交響曲みたいに本当になりふり構わず演奏してくれても良かったのになと思います。まあ、何しろ名盤の多い名曲たちですから、それらを差し置いてもというほどの名演を生むことは、至難の業ということではありますが。

                   それから、この全集、残念ながら、収録時間の関係で、第3,6番の2曲が2枚にまたがるという面割になっています。6番は仕方ないとしても、3番は今の技術なら回避できたのにとちょっと残念です。蛇足ながら。

                  気になる演奏家 その4 〜 エヴァ・クピエツ(P)

                  2008.05.18 Sunday

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                     私が、ポーランド出身の女流ピアニスト、エヴァ・クピエツの名前を強烈に意識したのは、昨年ヘンスラーから発売されたヤナーチェクのピアノ作品集が発売されたときです。

                    ・ヤナーチェク/ピアノ作品集
                     エヴァ・クピエツ(P)(Hänssler)



                     当時私は、これが2枚組であって結構高価に感じたこともあり、欲しいと思いつつ買うのをためらってそのままになっていました。そして、そうこうしているうち7割引やら半額というようなバーゲンがあって彼女の既発売のディスクを見つけ、「これが良かったらヤナーチェク買おう」というような乗りで2枚購入しました。

                     まず、数年前にクリスティアン・ツィマーマンが来日した折に弾いて話題となった、ポーランドの女流作曲家グラジナ・バツェヴィチのピアノ作品集。ツィマーマンの弾いたソナタ第2番の他、ソナチネ、「子供のための組曲」、10の練習曲などといった小品が全部で9曲24トラック収められています。

                    ・バツェヴィチ/ピアノ作品集
                     エヴァ・クピエツ(P)(Hänssler)



                     バツェヴィチの音楽は、結構斬新な書法で書かれた音楽ではありますが、ところどころ美しいメロディや楽しげなリズムが突然現れたりして、今ひとつ焦点が合わせづらくとらえどころのない音楽に私は思えるのですが、クピエツはこれらの曲を決して「分かりやすく」とか「面白く」聴かせようとなどとはせず、ごく生真面目に音楽とまっすぐに対峙しているという印象を受けました。モノトーン系の音色で彩られた渋い演奏で、色彩で聴く者の耳の関心を表面的な音にひきつけてしまうことは注意深く避け、音楽の構築、もっといえば骨格の美を聴きとって欲しいとでもいいたげな音楽が、彼女の演奏の大きな特徴かと思いました。これはバツェヴィチの少々晦渋な音楽の美質とうまく調和していて、なかなかいい演奏だと思いました。

                     次に聴いたのがドイツのカルテット、ペーターゼンSQと組んだショスタコーヴィチのピアノ五重奏曲です。

                    ・ショスタコーヴィチ/ピアノ五重奏曲(+弦楽四重奏曲第1,4番)
                     エヴァ・クピエツ(P)/ペーターゼンSQ(Capriccio)



                    こちらは私も日ごろから聴き馴染んだ曲なので、バツェヴィチよりも大いに親しみを持って聴きましたが、ここでのクピエツの演奏は、前述のような「生真面目さ」も感じますが、音色も表現もかなり重心の低い、どこか暗鬱で厭世的な雰囲気さえ漂うものに感じました。第3楽章の諧謔的なスケルツォでも、はしゃいだり攻撃的になったりすることもせず、青白くて不健康にさえ思える翳りを見せていて不気味で、とても印象に残りました。

                     そんな2枚のディスクを聴いてクピエツの演奏には好印象は持ったのですが、私は件の彼女のヤナーチェクのピアノ曲集を買おうという強い意志を持ちませんでした。それは、そのクピエツの「暗さ」が前面に出た音楽性に少ししんどさのようなものを感じていたからです。

                     しかし、その時はやって来ました。クピエツのヤナーチェクを中古CDショップで見つけたのです。1890円の美品。何の躊躇もなく買ってしまいました。

                     そしてまず、私が偏愛している「草蔭の小径を通って」から聴いてみました。
                     やっぱり暗く重心の低い演奏でした。特にエキセントリックな表情もないしテンポも少しゆっくりめというくらいなのに、なぜか音楽が重く感じられるのです。そして、彼女の奏でる音楽に深く没入していこうとすると、決して情におぼれない理知的でクールな表現にコツンとぶち当たって、仕方なく彼女の演奏から少し距離を置かざるを得ない、そんなことの繰り返しをしておりました。あの美しい「フリーデクのマリア」など、もっとみずみずしく抒情的な演奏をしてくれても良さそうなものなのに、なんだか無愛想。とても不思議な音楽です。

                     でも、クピエツの演奏、私は嫌いじゃない。いや、このヤナーチェクは多分繰り返して聴くことがあるだろうと思っています。「草蔭」以上に、「霧の中」のほの暗いファンタジーにはとても引きつけられるものがあります。実際、買ってから2度ほど聴いてしまいました。ヤナーチェクのピアノ曲は私は大好きで、名盤の誉れの高いフィルクシュニーの演奏を始め、ルディ、アンスネス、シフらの素晴らしい演奏、そしてアンゼロッティのアコーディオンなどでよく聴きますが、クピエツの演奏も私には忘れられない演奏の一つになりそうです。

                     どうしてだかよく自分でも理解できていないのですが、このクピエツというピアニストは、やはりとても気になります。かつては病弱でいつも運動場の片隅で体育を見学していたような女性を想像させる少し暗くて屈折した表情や、口説いてもいつも無関心でつれない返事しかしてくれないような女性を思わせるクールさに、少しゾクゾクしてしまうからかもしれません。とてもヘンなたとえですが。

                     彼女の演奏、他にはスクロヴァチェフスキー指揮で弾いたショパンのピアノ協奏曲(Oehms)や、イザベル・ファウストのヴァイオリン・ソナタの伴奏盤(Harmonia Mundi)、そして、ショパンのノクターン全集(Eloquence)などがあるようですが、特にノクターンは聴いてみたいと思います。また、7月に入荷するシマノフスキの交響曲全集(コルド指揮ポーランド国立放送響)の中でも協奏交響曲を弾いているそうなので、これは是非聴いてみたいと思っています。このように彼女は自国ポーランドを初め、ロシアや東欧の作曲家の作品を多く取り上げているようですが、もっと他の作品を聴いてみたいなあと思っています。このスタイルでバッハなんてどうだろうなあとか、ラヴェルなんて意外に面白いかもと思ったりしています。

                    私のシューベルティアーデ(30) 〜 楽しみな新譜たち

                    2008.05.17 Saturday

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                       LFJも終わったのによく飽きもせず続けていられるなあと言われてしまうかもしれませんが、私のシューベルト巡礼はまだまだ続いています。(そもそもLFJには行ってませんし) そして、コンサートには行っていませんが、ディスクでは入手してからまだ聴けていないもの、感想を書ききれていないものがたくさんあります。そうこうしているうち、どうしても聴きたいと思っていたものもかなり手元に揃ってきて、そろそろ巡礼も一段落かなあなどという気持ちも正直あるのは確かです。

                       しかし。

                       CDショップの発売予定などを見ていると結構あるんですね、シューベルトの新譜。以下、私自身の備忘録として気になる新譜を挙げておきます。聴いた感想をこのブログに書くものも当然あるかと思いますが、巡礼の一段落なんてまだ無理だなあと、最早白旗を出さざるを得ないくらいに聴きたいものばかりです。

                      ・ピアノ・ソナタ第13,19番、さすらい人幻想曲
                       伊藤恵(P) (FONTEC)



                       先般シューマンのピアノ曲全集を完成させた伊藤恵のシューベルト・チクルス第1弾。昨年、神戸新聞松方ホールで録音されたもので、5/20発売(5/19には店頭に並ぶでしょう)、SACDとのハイブリッドCDだそうです。彼女は、シューベルトの第19番を弾いてミュンヘン国際音楽コンクールで優勝したとのことで、恐らく並々ならぬ意欲と思い入れを持って録音に臨まれたことだと思います。東京では先月末に後期3大ソナタの演奏会もあったそうで、これから集中的にシューベルトの音楽の核心へと迫っていかれるのでしょう。日本の女流ピアニストとしては、内田光子、田部京子という素晴らしいシューベルト弾きがいますが、彼女も「シューベルト弾き」としての地位を固めることができるでしょうか。期待に胸がふくらみます。

                      ・ピアノ・ソナタ第18番「幻想」、3つの小品D.946
                       ゲルハルト・オピッツ(P) (Hänssler)



                       オピッツというとドイツの正統派ピアニストという看板を背負って注目を浴びており、つい先日同じヘンスラーレーベルでベートーヴェンのソナタ全集を完成させましたが、その彼が今度はシューベルトに取り組むのだそうです。チクルスNo.1というタイトルがついているので、恐らくは全集という形に発展していくのでしょう。私はオピッツの演奏はほとんど聴いたことがないのですが、jpcのサイトで試聴したところなかなか良さそうで、このディスクを聴くのを楽しみにしています。6月30日に入荷予定とHMVのサイトにはあります。

                      ・歌曲集
                       イアン・ボストリッジ(T)レイフ・オヴェ・アンスネス(P)(EMI)




                       これまでアンスネスのソナタ録音とカップリングされていたボストリッジとの歌曲が2枚のCDにまとまって発売されるそうです。私はアンスネスのソナタのCDは全て持っているのでこれは買う必要はないかと思ったのですが、インフォメーションをよく見ると、今回の歌曲選集のために新たに録音された曲があるのだそうです。「音楽に寄す」「死と乙女」「聞け、聞け、ひばりを」「笑いと涙」「リュートに寄せて」という超有名曲が新録音ということで、これは聴かない訳にはいかないかという気がしています。私は彼らの組み合わせの歌曲、「冬の旅」も含めて大好きなので楽しみです。でも、こういう「商法」、本音を言うとやめてほしいんですけれど・・・・。6月2日に入荷予定とHMVのサイトにはあります。

                       その他、仏Harmonia Mundiでショスタコーヴィッチの録音で名を上げてきたイェルサレムSQの「死と乙女」だとか、古いところでピアーズとブリテンの「冬の旅」の映像DVDなど、他にも興味深いものもいくつかあります。

                       やっぱりまだまだシューベルトの音楽を聴き続けていくつもりです。