私のシューベルティアーデ(41) 〜 リトウィンのピアノ・ソナタ第18,21番

2008.06.15 Sunday

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    ・シューベルト/ピアノ・ソナタ第18番「幻想」
    ・シェーンベルク:3つのピアノ曲Op.11
    ・シューベルト:ピアノ・ソナタ第21番
    ・シェーンベルク:6つの小さなピアノ曲Op.19
     シュテファン・リトウィン(P) (Telos)


     シュテファン・リトウィンは、1960年メキシコ生まれ、主にドイツで現代音楽の演奏で活躍するピアニストで作曲家です。彼は、ラサールSQと共演したシェーンベルクや、ミヒャエル・ギーレンと共演したベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番のディスクでわずかに知られる程度かと思われますが、Telosレーベルへの"Perspective"というシリーズの第2弾として、シューベルトのピアノ・ソナタ第18,21番と、シェーンベルクのピアノ曲を組み合わせたディスクを録音しています。

     これは、正直言って、「珍盤」に属する演奏ではないかと思います。

     何が珍しいかというと、まずモダン・ピアノでモデレート・ペダルを使用して弾いていること。モデレート・ペダルというのは、ハンマーと弦の間にフェルトがおりてミュートされるペダル。シューベルトの時代のフォルテピアノや現代のアップライトにはついていますが、現代のコンサート・グランドではついているものはなく特注でつけたとのこと。ライナーノートによると、シューベルトはpppの部分では明らかにこのモデレートペダルを想定して書いたはずというリトウィン自身の主張に基づいての措置のようです。確かに、音量が小さくなる箇所で彼がこの弱音ペダルを踏んで、独特の音色を出しているのは明瞭に聴き取れます。普通の声で喋っていた人が突然ひそひそ声で話し出し、また普通の声に戻るような感覚なのですが、普通の声がまったく普通のモダンピアノの音色だけにとても落差が大きく、聴いていて度々失笑してしまうほど。これがフォルテピアノならばさほど違和感はないと思うのですが、リトウィンは「現代の聴衆はモダン・ピアノに慣れているから」とフォルテピアノは使わなかったそうで、恐らくこの落差こそが彼の「狙い」なのでしょう。とても変わった試みであると思います。

     そして、これが「珍盤」であると思うもう一つの理由。
     特に第21番の演奏に顕著なのですが、速めのテンポを基調として、一切の感傷を排した即物的な演奏であり、とても乾いた印象を抱かせる演奏であること。繰り返しを入れて18分を切る快速の第1楽章は時折暴力的とさえいえるようなフォルティッシモを聴かせ、例の左手のトリルは、激しい雨を伴う強烈な雷鳴を思わせるほど。18番はそれに比べれば幾分穏やかではありますが、ドライで情緒の乏しい演奏であることは共通しています。シェルヘンがシューベルトを弾いたらこういう演奏になったかな?という気がするくらいに「きつい」演奏です。

     一方、こんなに妙なシューベルトの演奏と組み合わされたシェーンベルクは、恐らく同じようなスタンスで弾かれたものに違いないのですが、とてもまともな演奏に聴こえます。「3つの小品」では、それこそシェーンベルクの指示通りに弱音器つきペダルを使って、シェーンベルクの「音色」による音楽の構築への試みを存分に楽しんでいるかのようです。恐らくは、リトウィンはこのシェーンベルクでのモデレート・ペダルの使用をヒントに、シューベルトでも使ってみようと思い立ったに違いありません。そして、音楽を一度バラバラに解体し、ブロックごとにふさわしい「音色」を割り当てていく作業を通して、シューベルトとシェーンベルクというウィーン出身の音楽家の共通点を抽出して我々聴き手に提示したかったのだろうと思います。また、シューベルトの音楽には、表現主義的な激しい表現への志向が既に見られるのだと言いたげな演奏でもあります。

     こんなシューベルトのソナタ演奏は、私は初めて聴きました。そして、リトウィンの「実験」が、確かに面白いですが実際のところさほど成功しているとは思えません。時折失笑してしまう場面があるほどで、正直、理解に苦しむ演奏と言わざるを得ません。

     ですが、「話のネタ」にはなる「珍盤」には違いないので、大事にとっておいて、時折怖いもの見たさで聴いてみたいと思っています。シューベルトに続けてシェーンベルクを聴くとシェーンベルクがロマンティックに聴こえ、シェーンベルクの後でシューベルトを聴くとシューベルトがモダンに聴こえるという「発見」もありましたし。こういうのもディスクとの付き合いの楽しいところですから。

    私のシューベルティアーデ(40) 〜 アラン・マークスのソナタ集

    2008.06.14 Saturday

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      ・ピアノ・ソナタ第4,7,9,13〜21番
       アラン・マークス(P) (Nimbus)



       今回は、アメリカ生まれのピアニスト、アラン・マークスのシューベルトのピアノ・ソナタ12曲のディスクです。15番「レリーク」以外はシューベルトが最後まで完成した曲のみを選んで弾いていて、1994年にベルリン・フィルハーモニーの小ホールで開かれた4回にわたるシューベルト・チクルスのライヴ録音だそうです。

       私はこのマークスというピアニストは全然知らず、このディスクにもさして興味もなかったのですが、CDショップに行くたび売れ残っているのを見るうちに無性に聴きたくなり、値段も結構安いのでつい買ってしまいました。全然気にしていなかった異性に突然恋心が芽生える時の不思議な感覚を思い出してしまったりしました。

       さて、マークスの演奏ですが、言葉は悪いかもしれませんが、全体に「頼りない」という印象を持ちました。ライヴゆえのミスや集中力の低下など技術的な「頼りなさ」もありますが、それ以上に、彼の演奏には、いつも「本当にこの表現でいいのだろうか?」という自問自答に閉じこもって明快な表現を避けるようなところがあって、いくらシューベルトの音楽だと言えど、もう少し決然とした自己表現が必要なのではないかと思えてくるくらいなのです。例えば、第16、19番にあるような劇的なパッセージでは、明らかに劇的に弾こうという意志は感じられるものの、かなり表現を抑制する力が大きく働いていてもどかしい印象を持ってしまいます。

       しかし、音楽とは不思議なもので、そんな彼の演奏から感じる「頼りなさ」は、なぜか欠点とは私には感じられませんでした。むしろ、彼の音楽家としての、いやそれ以上に人間としての誠実さを感じて、好ましくさえ思えたのです。自分の心の弱さ、迷いを包み隠さず正直に音楽に素直に表現する姿にとても共感を覚えました。

       そして、その彼の姿勢が、特にあの第21番のソナタでは信じられないほど深い思索の世界を生み出していて、ちょっとやそっとでは忘れられないような印象深い演奏になっています。23分を要する第1楽章は、アファナシエフのようなエキセントリックな表現は決してありませんが、それでも時折みせるルバートやテンポの揺れが、時折現れる雷鳴のようなトリルに怯える心の震えを描いているようです。そして、第2楽章も抑えた表現の中にさまよえる心の迷いが見て取れ、樹海にを歩くかのような先の読めない「心の旅」となっています。そして、第4楽章は肉体的な疲れが出たこともあるのか、何かに敗れ去ってしまったかのような弱々しさが全体を支配していて、例のGのオクターブ音が鳴らされるたびに、何かが一つずつ失われていくような喪失感を覚えます。演奏しているマークスのところに駆け寄って「大丈夫?」と支えてあげたくなるような「頼りなさ」があって、まことに不思議な感覚です。しかし、そんな彼の演奏、なぜか私にはどこか心地よく響くように感じるのです。自分の中にある「頼りなさ」と、マークスの演奏の中にある「頼りなさ」が共鳴しているのでしょうか。何とも不思議な聴体験を得られた21番、名演と呼べるかどうかは分かりませんが、私はとても気に入りました。

       そして、同傾向の演奏としてシューベルトの最初の完成作である第4番があり、頻出するルバートに哀しげな「頼りなさ」があって心を打ちます。シューベルトの出発点と最終到達地点の間に通じる線をはっきりと見ることができたのは収穫でした。

       その他の曲の演奏は、いずれも誠実に真面目に音楽を奏でる真摯な姿勢が好ましいものの先ほども述べた通り「頼りなさ」が必ずしもプラスには働いていない曲もあり、今まで聴いてきた名盤の中では少し印象が薄くなってしまうのは仕方がないことかもしれません。

       ところで、このアラン・マークスというピアニスト、実はこのチクルスの翌年、46歳という若さで癌のためこの世を去ったのだそうです。これらのソナタの演奏をしていたとき、彼は迫りくる自らの死を予期していたのでしょうか。だとしたら、マークスの演奏にある「頼りなさ」には悲劇的な背景があったのでしょう。私は、ディスクを聴く時にはそのような「物語性」は排して聴いたつもりですが、彼が一体どんな気持ちでシューベルトの音楽と向き合っていたのかと考えると胸が痛みます。

       音楽と向き合ういうのは、自分と向き合うということなのだということを強く考えさせられたディスクでした。いい出会いができたと思います。

      私のシューベルティアーデ(39) 〜 カルミナSQの後期弦楽四重奏曲

      2008.06.09 Monday

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         前回のエントリーでは、最近の愛聴盤であるイタリアSQの後期弦楽四重奏曲について書きましたが、それ以外にもカルミナSQの演奏もよく聴いています。

         もともと、彼らの演奏した第12,15番のディスクは発売当初に聴いて、心の底から感動した覚えがあります。当時はシューベルトの弦楽四重奏などほとんど知らなかったのですが、こんなに味わい深く、かつ、「怖い」世界があるのかと思い知らされた演奏でした。カルミナの15番に感動したのは私だけはなく、知人の間でも好評でしたし、世間一般でも名盤として評判になった記憶があります。

        ・弦楽四重奏曲第15,12番
         カルミナ弦楽四重奏団



         その後、カルミナSQは、2002年になって、第13,14番の録音をおこないました。不覚にも私はそのディスクを買いそびれてしまい、気がついたら廃盤になってしまいました。発売元のDENONのクレスト・シリーズには15番が入っていたので、当然これらのCDも復活するものと高をくくっていましたが一向に再発売の気配はなし。これは中古で買うしかないかと思っていたところ、ふらりと立ち寄った中古ショップでこの第13,14番のディスクを見つけて狂喜乱舞して買ってしまいました。

        ・弦楽四重奏曲第14,13番
         カルミナ弦楽四重奏団


         これはまた期待を裏切らない素晴らしい演奏でした。例のイタリアSQの演奏よりもさらに贅肉をしぼり、より現代的でシャープな演奏をしています。例えば、「死と乙女」の第2楽章の乾いた抒情は高層ビルの一室で都会の風景を見ながら孤独をかみしめている人間の哀しみを感じますし、「ロザムンデ」の第2楽章もこれを「名曲アルバム」で流すなら決してウィーン郊外ののどかな田園風景よりも最新のおしゃれな建物の立ち並ぶ界隈が似つかわしいような雰囲気。とても知的で冷静な分析を根本に、とてもストレートに明晰に音楽を展開していくという趣です。ですから、イタリアSQが時折垣間見せたようなあたたかさはありませんが、細部への目配りを常に怠らずに一つ一つの音を大事に奏でていくあたり、多少距離はあっても音楽へのゆるぎない愛情があることは十分に感じられます。そして、現代を生きる我々にとっては、彼らの演奏には私達自身の抱える心の悩みや不安と大きく共鳴するところがあるので、とても親しいものであるように思います。だから、飽きずに何度も聴いてしまうのでしょう。

         カルミナSQのシューベルト、これだけでなく他の曲も聴きたいと思います。折りしも、DENONレーベルでは久々に彼らの録音が再開される(バルトークが録音予定)とのことですし、是非全集完成に向けて始動して欲しいと思います。できることなら、チェロに名手を迎えて弦楽五重奏曲も録音してほしい(チェロはケラスあたり、とか・・・)です。
         また、シューベルト以外の作品の録音も期待しています。そもそも、私はこのブログのタイトルの由来となったウェーベルンの"Langsamar Satz"を彼らの演奏で知りましたし、シマノフスキ、シェック、ドヴォルザーク、シェーンベルクなど彼らの演奏はどれも大変に魅力的な演奏でしたので、もっともっとカルミナSQの演奏を聴きたいのです。DENONさん、よろしく!!

        私のシューベルティアーデ(38) 〜 イタリアSQの後期弦楽四重奏曲

        2008.06.08 Sunday

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           最近の私のシューベルト・ヘビーローテーションは、これです。

          ・弦楽四重奏曲第12〜15番
           イタリア弦楽四重奏団 (Philips)


           イタリアSQによる後期弦楽四重奏曲は中古で買った現在廃盤の国内盤で、現役の輸入盤とは「死と乙女」が79年の新録音に差し替えられている点が異なります。(輸入盤は65年録音の旧盤を収録)

           さて、実のところ、これまでさほど熱心に室内楽を聴いて来なかった私は、このイタリアSQの演奏は、ポリーニとのブラームスのクインテット以外では初めて聴きます。この演奏を聴く前は、イタリアの団体という先入観もあり、豊麗な歌に満ちた甘口の果実酒のような演奏を期待していました。シリアスな音楽を「楽しんで」聴けるのではないかと。

           しかし、私がここで耳にしたものは、私の期待に反して、むしろ、風味が厳しく吟味され管理された白ワインのような辛口の演奏でした。退屈を誘うような甘ったるい歌や、耳障りの良い美音の垂れ流しとはまったく無縁。先入観ついでに言えば、筋肉質で均整の取れたプロポーションを持ったミケランジェロの彫像のような演奏、とでも言うのでしょうか。それだけに、シューベルトの音楽のうちにある心の不安や哀しみ、絶望が、ストレートに胸に刺さってきます。12番のトレモロの連続が醸し出す言いようのない不安、13番の微妙に揺れ動く心理、14番の絶望の淵を見た者にしか書けないような慟哭とカタルシス、そして15番の深い傷が癒えて一条の明るいを見出し再生しようとする力が、明晰で曇りのない音の運びのなかからはっきりと感じ取れます。

           それでいて、例えば、13番の第3楽章のように、どこかノスタルジックで懐かしさを覚えるような古雅な味わいを感じさせるような場面もあり、厳しさ一辺倒ではなくてあたたかい血の通った人間の歌を感じさせてくれるのがとても嬉しいです。第15番の第1楽章でファーストヴァイオリンが静かに明るい主題をひそやかに歌い始める箇所など、今まさに産声を上げたばかりの新鮮な新星が白い光を放射しているような眩さがあり、心に残ります。これまた、本当に素晴らしい演奏に出会えたと思います。

           というわけで、イタリアSQの演奏、いくら聴いても飽きるということがなく何度も楽しんでいます。そして、同時に私の贔屓のカルミナSQのCDも併せて聴き、シューベルトの後期の弦楽四重奏曲の素晴らしさをこれまで以上に実感している次第です。

          私のシューベルティアーデ(37) 〜 弦楽五重奏曲あれこれ

          2008.06.08 Sunday

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             私が偏愛する弦楽五重奏曲のディスクも順調に増えていきます。

            ・ハーゲン弦楽四重奏団
             ハイリッヒ・シフ(Vc) (DG)


             1990年代初頭、ハーゲンSQがまだ期待の若手カルテットとしてメキメキ頭角を現していた頃の演奏。非常に緊張感に満ちた音楽の運びに若々しさを感じますが、緻密な音楽の設計と瑞々しい歌が見事なバランスで両立した演奏でもあり、大変に素晴らしい演奏だと思います。ただ、音楽がまだとても「地上的」で、あともう一歩、「彼岸」を感じさせてくれるような深い思いを聴かせてほしかったというのはないものねだりでしょうか。

            ・ボロディン弦楽四重奏団
             ミッシャ・ミルマン(Vc) (Teldec)


             1994年、彼らがワーナーに移籍した頃の演奏で、ファーストVnは黄金時代を築いたコペルマンが弾いています。全体に速めのテンポで引き締まった造型を見せつつ、細かいことに拘泥せずにスケール大きく音楽に斬り込んでいくさまが、あの彼らのショスタコーヴィッチの素晴らしい演奏を思い起こさせます。そして、美しいメロディを聴かせる場面では、「大地」を思わせるような息の長い幅広さがあり、独特の魅力があります。さすがにベテランカルテットにしかできない演奏だと思います。

            ・オルフェウス弦楽四重奏団
             ピーテル・ウィスペルウェイ(Vc) (ChannelClassics)


             私の贔屓のチェリスト、ウィスペルウェイが参加した録音。バロックとモダン楽器の両刀遣いのウィスペルウェイですが、ここではどうやらモダン楽器で弾いてるようです。
             聴いてみて、とても穏やかで優しさに満ち溢れた音楽に心が癒される思いでした。押し付けがましさや、これ見よがしの声高な主張もなく、純粋にシューベルトの音楽の美しさを満喫することができます。ただ、あまりに円満、まろやかに過ぎて、少し食い足りない印象が拭いきれないのも事実で、例えば第2楽章中間の激しい嵐ではもっと荒れ狂う風を感じたいという気もします。ただ、そのカタストロフの直後、時間が止まってしまったかのようにデリケートに休符を扱い、静謐な空気を醸しだしているのは、心臓が止まりそうなくらいに魅力的な瞬間でした。いい演奏だと思います。

            ・キム、ニッカネン(Vn)ジョンソン(Va)
             シュタルケル、ベイリー(Vc) (DELOS)


             2004年、泣く子も黙る名チェリスト、ヤーノシュ・シュタルケルの80歳を記念して開かれた演奏会のライヴ。寄せ集めのアンサンブルと言うことで、表現が十分に練れておらず結構出たとこ勝負的になっている場面もありますが、室内楽の名手でもあるシュタルケルの薫陶のもと、とても緊密なアンサンブルが生み出されています。特に、ヴィオラと第1チェロ(シュタルケル担当)が3度進行で内声のハーモニーを埋める場面など、従来あまり聴けなかったような豊かな歌がくっきりと浮き出てきて素敵です。これはシューベルトの音楽を楽しむディスクというよりは、シュタルケルが若い音楽家との音楽的対話をしている姿を楽しむべきディスクですが、独特の存在感を誇るものだと思います。なお、残念ながら、この演奏のみ第1楽章の提示部反復が省略されています。

             先日、日本でさよなら公演をしたアルバン・ベルクSQも、彼らの本拠では、ハインリッヒ・シフとの共演によるシューベルトの弦楽五重奏曲(とレオンスカヤとの「ます」)をもって、彼らの輝かしいキャリアを閉じるのだそうです。ウィーン出身の彼らが同郷のシューベルトの音楽を最後に選び、しかも、室内楽の分野での最高傑作の一つともいえるこの五重奏を選ぶのはとても素晴らしいことだと思います。余談ながら。

             本当に聴けば聴くほどに味わいの増す素晴らしい音楽です。

            気になる演奏家 その6 〜 モンペリエ国立管弦楽団

            2008.06.08 Sunday

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               最近はヨーロッパまで足を運んで演奏会を聴いておられる方が、以前に比べればとても多くなっているようです。ブログやSNSでも、ウィーンやベルリン、ロンドンなどから詳細な演奏会のレポートを書く方が結構おられて、ああやはりあちらでは刺激的なコンサートが多いなあとため息交じりで拝読致しております。

               しかし、例えば、フランス南端でスペインとの国境近くにあるモンペリエという街からの演奏会レポートというのは見たことがありません。私自身、モンペリエは、かのグルダが当地で開いた演奏会のライヴCDで名前を知っているくらいでしたが、数年前からここのオケがとても活発で刺激的な活動をしていることを知り、この街に興味を持つようになりました。このオケ、どうやら、毎年のようにレアなオペラの上演をおこなうだけでなく、滅多に聴けない珍しい管弦楽曲や現代音楽もさかんに演奏しているようなのです。果たしてこんな曲ばっかり演奏したり録音したりしていて、儲かっているんだろうか?ととても気になります。

               今回取り上げるモンペリエ国立管関係のCDは以下の3点。

              ・ハンス・ロット/交響曲第1番
               フリーデマン・レイヤー指揮モンペリエ国立管(Naive)

               2000年のライヴ録音。とても情熱的な演奏です。オケは大してうまくはないですし、ライヴ特有の傷もありますが、オケの面々が、ロットの音楽を夢中になって大変な愛情をもって演奏しているのがひしひしと伝わってくる演奏で大変好感が持てます。特に、緩徐楽章での音楽する喜びに満ち溢れた演奏は胸を打ちます。いくつかあるロットの交響曲のディスクの中でも、個人的に非常に好きな演奏です。なお、オーストリア出身の指揮者レイヤーは、このオケを振って沢山のCDを出していますが、どうやら特定のポストには就いていないような感じです。

              ・ヴィットリオ・ニェッキ/歌劇「カッサンドラ」
               クピード(T)マッツオーラ(S)ほか
               エンリケ・ディーメッケ指揮モンペリエ国立管(AGORA)

               
               イタリアの作曲家ニェッキ(1876-1954)といっても殆ど知られていない作曲家ですが、彼の遺したオペラ「カッサンドラ」は、R.シュトラウスの「エレクトラ」に非常に大きな影響を与えた作品として知られています。事実、ニェッキはこの「カッサンドラ」のスコアをR.シュトラウスに送って意見を求めたのだそうですが、そのすぐ後に書かれた「エレクトラ」が余りに「カッサンドラ」に似ているので、盗作疑惑で裁判沙汰になったとかならなかったとかという逸話が残っています。
               実際、「カッサンドラ」冒頭のオケの跳躍する音型は、「エレクトラ」冒頭の「アガメームノン!」という絶叫の音型とそっくり。また非常に起伏に満ちたドラマティックな音楽が強烈で、恐らくシュトラウスが刺激を受けただろうことは容易に想像がつきます。
               ここでも、モンペリエのオケはディーメッケの棒の下、大変に情熱的な演奏を繰り広げています。久々の蘇演のライヴで世界初録音となったディスクですが、希少価値があるだけというだけでなく、この隠れた名作を世に紹介するのだという気魄を感じさせる演奏に胸を打たれずにはいられません。最近は入手困難かもしれませんが、後期ロマン派の音楽好きには人気が出てもおかしくない作品だしディスクだと思います。

              ・アルファーノ/歌劇「復活」
               マッツオーラ(S)ナゴレ(T)ペトロフ(Br)ほか
               レイヤー指揮モンペリエ国立管(ACCORD)


               アルファーノといえば、言うまでもなくプッチーニの「トゥーランドット」の補筆をして完成させた作曲家。彼の作品は、交響曲やオペラ「シラノ・ド・ベルジュラック」などが知られていますが、モンペリエでは珍しいトルストイ原作の「復活」が上演されたようです。
               モンペリエのオケは、ここでも美しい旋律にあふれた聴きやすい作品を、やはりとても魅力的に演奏してくれています。レイヤーの指揮も音楽のもつ体温をきちんと伝えてくれる優れたものだと思います。ただ、私個人としては、恥ずかしながらトルストイの「復活」は未読なので、あまり深く音楽を追い切れていないので、読破してから再び聴いてみたいと思っています。

               それにしても、ほんとにこんなマニアックな作品をよく見つけてくるものだ、そして、このオケはこれでよく商売が成り立つものだと思います。モンペリエという街、よっぽどものすごいお金持ちが集まっていてオケのパトロンになっているのでしょうか。どなたか事情をご存知の方がおられたら教えて欲しいです。

               このところ、大阪センチュリー交響楽団への補助金打ち切りに伴う存続危機のニュースをよく目にします。10万人の署名が集まったそうですが、補助金打ち切りは決定で、「オケの自立を促す」との方針とのこと。行政が芸術文化に冷淡なのは何とも悲しいことですけれども、これも、大阪という「街」とセンチュリーという「オケ」が結局うまい関係を築けていなかったということなのかなと、ちょっとドライな考え方をしてしまいます。関西の音楽事情はあまりよく知らないのでまことに勝手な意見かもしれないのですが。

               だとすると、このモンペリエのオケのような、そうでなくてもマイノリティたるクラシック・ファンの中でも更にごく限られたファンしか見向きもしなさそうなレアな音楽を取り上げることに使命感を燃やす団体が、どのように街の人々に受け容れられているのか、どんなふうに経営が成り立っているのかを観察してみれば参考になることも多いのではないかと思ったりします。例の大阪の知事をあっと言わせて見返せるようなアイディアの源泉がそこにあるのかもしれません。勿論、このモンペリエのオケだって財政は火の車という可能性はなくはないですけれども・・・。

               街とオーケストラが、その数に関係なくいい関係を築けるようになれば、よき文化が根付いたということの証になると思います。私たち音楽ファンは、いい音楽を聴ける選択肢が増えることを心から願っています。

               話は戻りますが、このモンペリエのオケの最新盤がいくつかリリースされています。私が狙っているのは、ピツェッティのピアノ協奏曲。ピツェッティといえば紀元2600年の行事で日本に委嘱されて交響曲を作曲した人。これまた珍しい曲をやってくれます。ピアノが長老チッコリーニということもあって大変注目しています。



               いつの日にかこのオケのナマを聴いてみたいです。来日してもらってもいいですし、私自身がモンペリエに行って聴ければいいなあと夢見ています。

              私のシューベルティアーデ(36) 〜 T.レオンハルトのソナタ第21番

              2008.06.04 Wednesday

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                ・ピアノ・ソナタ第21番、アレグレット&スケルツォD.566
                 ソナタ第21番のためのスケッチ(第1,2楽章)
                 トゥルデリーゼ・レオンハルト(Fp:ザイドナー製作)(GLOBE)


                 3ヶ月前から国内ネットショップで注文していたCDがなかなか届かずキャンセルし、別の海外ショップで注文したら1週間ほどであっという間に届きました。それが、このトゥルデリーゼ・レオンハルトの弾くシューベルトのピアノ・ソナタ第21番の再録音盤。2006年2月にスイスで録音された新しいGLOBEレーベルのディスクです。

                 レオンハルトは、かの巨匠グスタフ・レオンハルトの実妹に当たるオランダのフォルテピアノ奏者。以前からシューベルトのピアノ・ソナタの演奏を得意としており、まずスイスのJecklinレーベルに全集を録音、その後、CascavelleやDiscoveryレーベルに単発で即興曲などの録音をしていましたが、現在、オランダのGLOBEレーベルにピアノ作品全集の録音を継続中。これはその第3弾となるディスクです。私は、このブログの以前のエントリーで、Jecklinの全集盤中の初期ソナタの感想を書いていますが、彼女の弾くとても柔らかく親しげな語り口の演奏が大変気に入っていましたので、ようやくこのGLOBE盤を手にできてとても嬉しいです。

                 本当に楽しみにしながら聴き始めましたが、私はこれがフォルテピアノの演奏であることをすっかり忘れ、シューベルトの音楽の素晴らしさを実感しながら夢中で聴きました。使用楽器や奏法といった「ツール」や「手段」はどうでも良くなるくらい、「心」で奏でられた音楽になっていて強く心を動かされました。

                 レオンハルトのとるテンポは、全体で47分程度(22:33-9:48-4:46-10:24)と標準と比べてもかなり遅めなのですが、十分な間合いを取りつつ、シューベルトの心からの言葉を大切にじっくりと聴かせてくれています。その語り口は、時に「ロマンティック」という形容さえしたくなるほど豊かで美しい「言葉」に満ちたもので、まさに天国的な美しさを感じていつまでもこの音楽に浸っていたいと感じることもしばしばです。

                 一方で、10分を超える第4楽章など、悠然たる音楽の運びに独特の骨っぽい風格と生命力を感じさせ、ありがちな「取ってつけたようなフィナーレ」というような印象をまったく寄せ付けません。また、ちょっとフェイントのかかったような第3楽章のリズムのとり方もユニークで、ただただ表面的に美しい演奏をしようというのとも違う。そこにはレオンハルトの独自の音楽観や美意識が反映されたかのような「主観性」さえ感じさせます。

                 つまりは、ただ単純に古楽器でシューベルトの音楽を「再現」してみたというような安易な演奏ではありきれず、より自由な視点からシューベルトの音楽の魂の奥へ奥へと迫ろうとするような厳しく真摯な姿勢を感じさせる演奏なのです。楽譜から溢れ出てくるシューベルトの「言葉」をはっきり聴き取り、その言葉のつながりを美しい「詩」として表現できるだけの、研ぎ澄まされた感性の持ち主であるレオンハルトだからこそ生まれたものであると私は思います。

                 とは言え、この演奏が、フォルテピアノという古楽器の可能性を極限まで引き出したものであることにも触れない訳にはいきません。レオンハルトが、フォルテピアノの演奏に関していかに卓越した技巧の持ち主であるかは容易に聴き取れます。

                 確かに、フォルテピアノという古楽器で弾いている以上、ダイナミックレンジは狭く、ハンマーアクションのせいか音色も薄くなりがち、タッチも音域によって不均一であるなど、物理的な音響には様々な「制約」を感じずにはいられないのは事実です。しかし、レオンハルトが、そんな「制約」さえも音楽の彩りに変え、独特の空気感を作り出しているのに成功していることにまずとても驚かされます。4本のペダルを実に精妙に使い分けることで、変幻自在に音色を変化させ、シューベルトの微妙な心動きや意識の流れを、「色」や「グラデーション」として認識できるくらいに視覚化してくれているのも感嘆せざるを得ません。特に第2楽章は、明と暗、静と動の対比が、控えめなダイナミックレンジの中で実に美しく奏でられていて、ため息が出てしまいます。フォルテピアノの音を聴いてこれほどまでに「美しい」と思ったことはあまり記憶にありません。

                 このように、古楽器を縦横無尽に使いこなせる名手が、自由闊達に心のうちを語ったかような深い味わい演奏に触れ、私は本当に心が震えるような感動を覚えました。21番のソナタのディスクも相当な数が手元に揃いましたが、このレオンハルトの演奏は揺ぎ無い独自の座を占めるものになることは間違いありません。掛け値なしに素晴らしい演奏です。
                 
                 さて、このディスクには、2枚目にわずか9分程度ですが、シューベルトが21番のソナタを書くために遺した第1,2楽章の下書きの演奏が収録されています。完成した曲に比べると魅力はかなり落ち、あくまで資料的な意義しかないですが、シューベルトの最初の構想がどんなものだったかを知ることができるのは貴重だと思います。中でも、第2楽章の長調の中間部が、当初は、修飾音を多用した随分と軽々しい音楽になっていること、例の第1楽章の提示部の繰り返しの不気味な部分も最初からほぼそのままの形で構想されていたことは驚きでした。また、レオンハルト自身のライナーを読むと、第1楽章に記された"molto moderato"という奇妙な表示は、下書きの段階では"moderato"しかなかったということも興味深い事実でした。

                 それから、1枚目の余白にはD.566の2つの楽章(通常6番として演奏される)が収録されています。前回のJecklin盤では演奏されていなかったので貴重ですが、こちらも伸びやかで素直な歌がとても印象的な素敵な演奏です。

                 これで私の愛聴盤がまた一つ増えました。レオンハルトに心から感謝したいと思いますし、レオンハルトのピアノ作品全集の完成が今から待ち遠しくてたまりません。

                 なお、このディスク、エントリー冒頭でも述べましたが、なぜか日本では普通に入手することが大変困難な状況のようです。大手のショップでも発売されていないようですし、国内のネットショップでもカタログに見当たりません。代理店の方で何か問題があるのでしょうか。レオンハルトのシューベルト、もっと広く聴かれるべきだと思うのですが、まことにもったいないことです。

                ヘルマン・プライの歌に浸る

                2008.06.01 Sunday

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                   先日のエントリーで、シューベルトの三大歌曲集を集中して聴いた時、ヘルマン・プライのDENON盤をとても楽しんだことを書きました。それ以来、もともと大好きだったプライの歌がより身近に感じられて、手持ちのCDを改めて聴いたりしていました。彼のあの人懐っこい笑顔そのままの心のこもったあたたかく優しい歌と、本当に神様から授けられた天性ともいうべき美しい声にほれぼれしながら、生きることの喜びを感じさせてもらっていました。

                   そんな中、彼がパパゲーノを歌ったショルティ指揮VPOの「魔笛」が、オリジナルズ・シリーズで廉価で復活したので入手して早速聴いてみました。昔から名盤の誉れも高く、また、プライの当たり役唯一のディスクとしても知られるものですが、私は初めて聴きます。

                  ・モーツァルト/歌劇「魔笛」全曲
                   プライ(Br)、ローレンガー(S)、バロウズ(T)、ホルム(S)
                   ドイテコム(S)、タルヴェラ(Bs)、シュトルツェ(T)、/ディースカウ(Br)
                   ショルティ指揮ウィーン・フィル、ウィーン国立歌劇場合唱団(Decca)



                   やはりプライのパパゲーノは素晴らしいです。これはプライのために書かれたような役柄ではないかと思うくらい。屈託がなくて素朴な性格の持ち主の自然児、そして、「人間は平等」という市民社会の基本原則ともいうべき思想を持つ自由人というキャラクターは、まさにプライの「地」で演じられているかのような印象を持ちます。歌だけではなくて、台詞の会話部分を聴いただけでも、鳥の格好をして舞台を所狭しと動き回る自由闊達なプライの姿が思い浮かぶかのようです。3つのアリアがとても素晴らしいのは当然として、例のパパゲーナとの二重唱もパートナーを得た喜びに満ちた生き生きした歌が胸をうちますし、パミーナとの二重唱の優しい語りかけも心に沁みてきます。「ほら見てごらん、君一人じゃないんんだよ。」とあたたかく寄り添ってくれるかのような歌に、図らずも涙が出そうになります。とてもいい歌だと思います。
                   因みに、この「魔笛」、他のキャストではローレンガーの可憐で純粋な乙女の心を描いたパミーナ、「指環」で見事なミーメを演じていたシュトルツェのモノスタトス、ベーム盤の「魔笛」で利口すぎるパパゲーノを演じてミスキャストだったディースカウのここでははまり役の弁者が印象に残りました。また、若き日のコロとゾーティンによる二人の騎士の歌も、実に素晴らしい。ショルティの指揮は例によってスパッと竹を割ったような明快さが身上ともいうべき演奏ですが、素朴さを内に秘めたこのオペラにはそれが利点となっていて気に入りました。それも、ウィーン・フィルが即物的なショルティの指揮に不足しがちな潤いを補っているからではあると思いますが。

                   さて、プライのパパゲーノを堪能した私は、以下の2枚もまた楽しみました。

                  ・モーツァルト/オペラ・アリア集
                   プライ(Br)スイトナー指揮ドレスデン・シュターツカペレ
                  (BerlinClassic)

                   
                   これは彼が60年代初頭に歌ったアリア集で、パパゲーノやグリエルモ、アルマヴィーヴァ伯爵、フィガロといった持ち役の他、ドン・ジョヴァンニやマゼットも歌っています。声も若ければ、表現も初々しく、本当に聴いていて胸がワクワクするような楽しさに満ちた歌。しかも、伴奏のスイトナーとドレスデンの素晴らしいこと!オケの古雅で充実した響きと、しなやかで柔軟なフレージングがため息が出そうなくらいに美しいです。LP時代から愛聴しているものですが、何度聴いても飽きません。

                  ・シューベルト・歌曲集「冬の旅」
                   プライ(Br)サヴァリッシュ(P)(Phillips)



                   もう一つは「冬の旅」の旧録音。彼の「冬の旅」というと最近聴いたDENON盤の印象が強いのですが、そのほぼ10年前の70年代初頭に録音されたこちらの盤を聴いてみると、プライの最も脂の乗り切った頃の素晴らしい歌唱に胸のすくような思いをします。勿論、曲が曲ですから、能天気な歌という訳ではないのですが、「青春の息吹」などという口にするには少し照れるような、でも、そうとしか言いようのないナイーヴで若々しい感性をより強く感じる歌唱に好感を持ちます。サヴァリッシュのピアノ伴奏も本職顔負けのうまさで素晴らしいです。

                   さて、ヘルマン・プライが突然亡くなってもう10年近く経ってしまいました。でも、その後、プライの「後継者」と言えるようなバリトンはまだ出ていない気がします。(彼の息子さんが歌手として活動しているようですが)1988年の来日時の「冬の旅」のナマを聴くことができたという幸運もかみしめつつ、これからもプライの歌と共に生きていきたいと思っています。
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