R.シュトラウス/歌曲集 〜 ポップ(S)/サヴァリッシュ(P)

2008.10.31 Friday

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    ・R.シュトラウス/歌曲集
     ルチア・ポップ(S)/ヴォルフガング・サヴァリッシュ(P) (EMI)

     →詳細はコチラ(HMV/Tower/Amazon)

     EMIミュージックジャパンからシリーズで順次発売されている「BEST100」は、それこそ名曲名盤の類が「焼き直し」で大量に再発売されているだけのように思っていましたが、よくよくラインナップを見ると、こっそりと長らく廃盤だったレアな音源が復刻されたりしていて侮れません。

     その中でも私が復刻を心待ちにしていたのが、このルチア・ポップのR.シュトラウスの歌曲集です。以前、シュトラウスの「子守歌」にハマってCDを集めていたところ、大好きなポップのこの歌曲集のCDは廃盤になっていて入手できませんでした。それでも「子守歌」だけはポップのオムニバス盤に収録されているのを聴いて溜飲は下げたものの、やはりオリジナルのCDを聴きたくなるのが人情というもの。アマゾンのマーケットプライスに出品されても1万円などの高値がついていたので、再発売されないかとずっと待っていました。

     このCDは、1984年の録音ということですから、スザンナやゾフィーといったスーブレット役から、伯爵夫人やマルシャリンのようなドラマティックな役へとシフトしつつあった頃の録音。しかも伴奏がR.シュトラウスを得意とする名指揮者ヴォルフガング・サヴァリッシュ。やっと「幻の名盤」を手にして、楽しみにして聴きました。

     既に聴いていた「子守歌」の優しさと清潔な官能に満ちた歌は、そのまま全曲21曲でも同じように繰り広げられています。私はとても嬉しくなりました。ベームが最後に来た時の「フィガロ」でのあの可憐なスザンナの姿よりは、もっと大人の成熟した女性を感じさせますが、その落ち着いた気品溢れる歌には胸を打たれずにいられません。まさに「名花」と呼ばずにはいられません。フォルテでも決して絶叫にならず豊かな響きを聴かせ、弱音では耳をくすぐるような官能に身をよじりたくなってしまいます。素晴らしい歌です。

     有名な「献呈」や「万霊節」も美しいですが、「子守歌」と同じくデーメルの詩につけた「ひそかな歌」など心にそくそくと迫ってくる歌で感動的です。また、最後の2曲は「子供の不思議な角笛」につけた曲で、マーラーの歌曲の雰囲気との違いを楽しむことができて興味深いです。

     サヴァリッシュの伴奏も素晴らしいです。本当にプロのピアニストも裸足で逃げ出してしまいそうなくらいに技術的にも優れているだけでなく、音楽の輪郭をきっちり描き出しながら、細かなニュアンスにも心を配ってポップの歌をしっかり支えているあたり、まったく文句のつけようもありません。

     いい音楽を聴いたなあと心から思えるディスクでした。こういうアルバムがきちんと復刻されたことを喜びたいし感謝したいと思います。

     そういえば、最近突然リリースされたカルロス・クライバーの'73年の「ばらの騎士」では、まだ若かった頃のポップのゾフィーを聴くことができます。そちらはまだ全部は聴いていないのですが、改めてルチア・ポップの歌手としての成熟の軌跡をたどり、誰からも愛された素晴らしいディーヴァを偲びたいと思っています。

    アルフォンシーナと海 〜 波多野睦美&つのだたかし

    2008.10.31 Friday

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      ・アルフォンシーナと海
       波多野睦美(Vo) つのだたかし(G,Lute)

       →詳細はコチラ(HMV/Tower/Amazon)

      <<曲目>>
      ・アルフォンシーナと海(ラミレス)
      ・天使の死(ピアソラ)
      ・オブリヴィオン−忘却−(ピアソラ)
      ・忘れる木(ヒナステラ)
      ・バラと柳(グァスタヴィーノ)
      ・プレリュード(ヴィラ=ロボス)
      ・メロディア・センチメンタル(ヴィラ=ロボス)
      ・向こうの教会へ(ラヴェル)
      ・サラバンド(プーランク)
      ・愛の小径(プーランク)
      ・屋根の上の空(ヴォーン・ウィリアムス)
      ・子羊をもとめて(ヴォーン・ウィリアムス)
      ・リンデン・リー(ヴォーン・ウィリアムス)
      ・小さな空(武満徹)
      ・三月のうた(武満徹)


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       アルゼンチンの作曲家グァスタヴィーノの歌曲「バラと柳」を、波多野睦美とつのだたかしという名コンビが録音しているのを見つけて早速購入しました。波多野睦美は、バッハ・コレギウム・ジャパンのいくつかの録音や、バロック音楽を歌った「ひとときの音楽」がとても気に入っています。古楽を得意とする人だけにヴィブラート控えめでとても伸びのある声が素晴らしいですし、清楚な佇まいの中にも仄かな官能が立ち昇るような色気のある歌い口が私の心をくすぐるのです。そんな彼女が、リュート奏者のつのだたかしと組んで録音した何枚かのディスクのうちの一枚がこの「アルフォンシーナの海」です。

       私は、この愛すべきディスクと出会えたことを心から幸せに思います。

       ここでも波多野睦美の歌声はたとえようもないほどに美しく、伸びやかな歌い口に心が震えます。そして、ギターとリュートでその歌をサポートするつのだの伴奏も、「サウダージ(哀愁)」に満ちた優しい手つきが素晴らしいです。ああ、こんなに素晴らしい、そして今の私の心にこんなにもぴったり来るディスクを、発売されて6年も知らずに来たことが悔しいくらいです。

       冒頭のラミレスの「アルフォンシーナと海」は、アルゼンチンの女流詩人アルフォンシーナ・ストルニが、海で入水自殺をする直前に書いた最後の詩を引用して作られた詩につけられた曲で、透明な悲しみが結晶したような美しい曲です。

       灯りをもう少し落として下さい
       眠りたいのです 乳母さん 静かに
       もし彼が呼んでも 私がいると言わないで
       彼に言って アルフォンシーナは戻らないと
       もし彼が呼んでも 決しているとは言わないで
       伝えて下さい 私は行ってしまったと

       アルフォンシーナ あなたは行く 孤独と共に
       どんな新しい詩を探しに行った?
       風と潮のなつかしい声が
       あなたの魂を誘い 連れ去ろうとしている
       あなたは行ってしまう 夢見るように
       アルフォンシーナは眠る 海をまとって
       (フェリックス・ルナ詩、波多野睦美訳)

       引用した部分の前半が、ストリニの最後の詩の「引用」が見られる部分です。
       歌詞を見ながら聴いていると涙が止まりません。自らを死に追いやらねばならなかった詩人の心の痛み、アルフォンシーナの死を悼む作者の心の痛みが、哀しい子守歌のような調べに乗って伝わってくる素晴らしい曲です。決してベトついた感傷に頼らず、透明な涙を感じさせてくれる波多野とつのだの演奏も心から感動できる素敵なものです。

       ピアソラの「オブリヴィオン」。今まで聴いたことのないような遅いテンポで、そして今まで聴いたことのないような弱音で歌われています。でも、そこから、過ぎ去った愛を忘れようとする気だるい哀しみがまた胸に響いてきます。

       ヒナステラの「忘れる木」、グァスタヴィーノの「バラと柳」は、アルゼンチンの歌曲の典型のような歌で、哀愁が甘美な旋律を身にまとって聴く者の心にすっと入ってきます。そして、ヴィラ=ロボスの「メロディア・センティメンタル」も、少しテイストは違いますが、やはり感傷的な甘さが私にはたまらない。これらの曲でも、波多野の透明な声が何と「静かな饒舌」を生んでいることか。コンサートホールの隅々まで届けと言わんばかりに声を張り上げて歌っていては絶対に表現できない、インティメートな聴き手との心の交流を提供してくれるのが嬉しいです。

       あの愛すべきプーランクの「愛の小径」やヴォーン=ウィリアムスの歌曲などを経て、武満徹の歌を2曲、「ちいさな空」「三月のうた」でアルバムの最後が飾られています。武満の甘く切ないメロディの美しさもさることながら、武満自身や谷川俊太郎の詩のもつ「日本語の美しさ」を感じさせてくれる素晴らしい歌です!地声とも、ベルカントのような鍛え上げた声とも違う、柔らかで澄み切ったナチュラルな歌声を聴いているだけで涙が出てきます。そして、「三月のうた」はリュートの伴奏で歌われているのですが、そのシンプルな趣からまるでダウランドの歌でも聴いているような錯覚にとらわれます。ああ、ほんとにほんとに美しい歌。かなしい歌。何度でも聴いて味わいたい音楽です。

       繰り返しになりますが、私はこのアルバムに出会えた幸運に感謝したいと思います。そして、この2人のような素晴らしい演奏家が日本にいてくれることを喜びたいし誇りに思いたいです。

       三月のうた(谷川俊太郎詩)
        わたしは花を捨てて行く
        ものみな芽吹く三月に
        わたしは道を捨てていく
        子等のかけだす三月に
        わたしは愛だけを抱いて行く
        よろこびとおそれとおまえ
        おまえの笑う三月に

      アンスネス ピアノ・リサイタルを聴いて

      2008.10.28 Tuesday

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        ・ヤナーチェク/霧の中で
        ・シューベルト/ピアノ・ソナタ第19番ハ短調D.958
        ・ドビュッシー:前奏曲集より
          ビーノの門、 西風の見たもの 、ヒースの茂る荒地、とだえたセレナード、オンディーヌ
        ・ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第14番嬰ハ短調Op.27-2「月光」
         レイフ・オヴェ・アンスネス(P)
         (2008.10.27 東京オペラシティコンサートホール)


         私の大好きなノルウェーのピアニスト、レイフ・オヴェ・アンスネスのリサイタルに行ってきました。

         彼の奏でるピアノからは独特の「空気」が感じられました。それは時として「静寂」の漂う孤独な空気だったり、時として動きの感じられる「風」だったり、曲想によってスピードや温度を変えながら姿を変えていくのですが、それを手にとってつかんでみようとしても、実体がつかめず私の手からすり抜けていく。すると彼の手から次にまた新しい風が吹いてきて、私の心の中で巻き起こる「景色」が変わっていく。そんな不思議な味わいのある演奏でした。

         アンスネスの音楽から感じられる「空気」は、とても澄んだ透明なものでした。それをノルウェーという彼の出自と結びつけるのは短絡的に過ぎるかもしれませんが、でも、シンプルで飾り気がなく、でもどこかにあたたかみのある人間性を感じさせるような雰囲気から最近流行の北欧デザインの家具を想起したのは事実です。勿論、これまで彼のディスクを聴いてきて感じていたことではあったのですが、やはりナマを聴いてもっと切実に彼の「空気」を感じ取ることができたと思います。

         そんな彼の演奏ですが、お目当てだったシューベルトよりも、ドビュッシーの前奏曲集からの5曲でその美質がとてもよく生かされていたと思います。彼の演奏にある「空気」が、ドビュッシーの音楽にある「アトモスフェール」と共鳴して、ビリビリと振動するのが伝わってくるようで、こちらも心を強く動かされました。これなら抜粋じゃなくて、前奏曲を全部聴きたかったなあと思うくらい。特に「西風の見たもの」の詩情溢れる美しいタッチはまさに夢見心地でした。そして、同様にヤナーチェクの「霧の中で」も、まさに目の前に「霧」が立ち上ってくるような雰囲気に溢れた音楽に感動しました。この2曲だけでも十分に満足できるくらいに素晴らしかったです。

         そして、シューベルトの第19番。透明な音色で淀みなく流動する空気はまさにアンスネスにしかできない演奏ではありましたが、風向や風力のコントロールに失敗したのか、呼吸の浅い音楽に感じられて、ドビュッシーやヤナーチェクほどには魅力のある「空気」は生まれて来ませんでした。特に猛スピードで弾かれた終楽章では表現が上滑りしてしまっていた感もあり残念でした。第2楽章で静謐な孤独の歌が聴けたのは良かったですけれども。

         また、ベートーヴェンの「月光」も、とても見事に弾きこなされていはいたのですが、これからベートーヴェンの音楽の内奥へと分け入ろうとし始めたばかりの「試行錯誤」の手探りの音楽だったような気がします。もう一歩踏み込んで心にぐっと訴えかけてくる何かが欲しかった。でも、まだ40歳にもなっていない彼のことですから、これから経験を積み、彼独自の「風のようなベートーヴェン」に磨きをかけて、さらに説得力のある演奏をしてくれることを期待したいと思います。

         満場の拍手に答えてのアンコールは、ドビュッシー、ベートーヴェン、そしてスカルラッティ。ここでもドビュッシーが素晴らしかったです。彼のドビュッシーのディスクが聴きたいと切に思いました。

         ところで、今回のリサイタルは、ヤナーチェク、シューベルト、ドビュッシー、ベートーヴェンと、はっきりいって意味不明のプログラミングでしたが、演奏を聴いていて、これらの作品の間には、いろいろな対立軸があるのだということに気がつきました。独墺系の音楽の「形式」「抽象」に対する、ヤナーチェクやドビュッシーの「内容」「具象」といった構図。そして、自我の裡へと深く潜ろうとするロマン派への扉を開けようとせんばかりの音楽と、ロマン派を抜け出して自然との接点の中に新たな「自我」を見ようとした音楽。そうしたコントラストが透けて見えてきて面白かったです。

         そして、もう一つ別の視点から見れば、ヤナーチェクとシューベルトは、まだマイナーな存在だったアンスネスを一躍スターダムに持ち上げたおなじみのレパートリー、そして、ドビュッシーとベートーヴェンは最近になって彼が取り上げ始めた新しいレパートリー。過去と未来の自分の狭間に立って、新しい一歩を踏み出そうとする音楽家の生々しい姿を目の当たりにすることもできた演奏会でした。

         私たちと同時代を生きる名ピアニスト、アンスネスの今後により大きな期待を寄せたいと思います。

         因みに、今日の演奏会の模様はテレビカメラが入っていたので、そのうち放映されることと思います。(多分NHK)

        ウィッグルスワースの「グレの歌」

        2008.10.26 Sunday

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          <<シェーンベルク/ グレの歌>>
           ワルデマール王 :スティーブン・グールド
           トーヴェ: アンネ・シュヴァンネヴィルムス
           山鳩:アンナ・ラーション
           農夫:ゲルト・グロホウスキ
           道化師クラウス:エーベルハルト・フランチェスコ・ロレンツ
           語り手:ブリギッテ・ファスベンダー
           合 唱:王立モネ劇場合唱団、ネーデルランド・オペラ合唱団
           管弦楽:王立モネ劇場管弦楽団
           指 揮:マーク・ウィッグルスワース
           [ 2007年9月12日, アムステルダム・コンセルトヘボー (オランダ) ]

           ついさっきまで、BS-hiでマーク・ウィッグルスワース指揮モネ王立管の演奏によるシェーンベルクの「グレの歌」が放送されていました。ちょっとした「作業」をやりながらテレビの貧弱な音声を聴きたまに映像を見た程度でしたので、音楽をちゃんと聴けたわけではなかったですが、それでも私の耳に入ってくる演奏は凄いものでした。

           こんなに鳴らしまくってソロ歌手や合唱は大丈夫なのだろうか?楽団員はスタミナが持つのか?というくらいにカロリーの高い凄まじい響きが、アムステルダムのコンセルトヘボウいっぱいに鳴り響いていたのです。例のヴァルデマール王の狩の場面など、今まで聴いた演奏(そんなに沢山はないですが)と比べても、ちょっと思い浮かばないくらいの盛り上がり方。単にデシベル単位で音が大きいというだけでなく、響きはとても分厚く、少しテンポも遅めでうねるような起伏を持った重量感のある音の運びなので、まさに腹に響く地響きのような凄い音楽になっています。ウィッグルスワースの一連のショスタコーヴィッチの交響曲の録音(BIS)でも既に明らになっていた特徴ですが、とにかく超大編成のスケールの大きい曲ですから、彼の振幅の大きい表現がより際立っているように感じます。そして、第3部の最後の合唱など、眩しくて目も開けていられないような壮麗な響きのうちに「大団円」を迎えるといった趣。最後の音のクレッシェンドの凄いこと!

           さらに、第1部のヴァルデマール王とトーヴェの官能的な愛の場面では、ウィッグルスワースの「トリスタン」を是非聴きたいと思わずにいられない、ねっとりとまとわりつくような情動を聴かせてくれて満足しました。

           昨年CDが発売されて私を心の底から感動させてくれたミヒャエル・ギーレン指揮の演奏が、屹立するような厳しさを奥に秘めながらも人生の黄昏を感じさせるような黄金色の空気に包まれたものとするなら、このウィッグルスワースの演奏は、人生の真っ盛り、絶頂にある人が放つ放射能のような力に溢れたものと言えるかもしれません。また一つ、いい「グレ」を聴けたなあと嬉しく思いました。

           歌手は、ヴァルデマール王のグールドがなかなかの熱演でしたが、何と言っても強烈な印象を残したのは、最後のシュプレッヒ・シュテンメで登場した往年の名歌手、ブリギッテ・ファスベンダーです。(つい最近出たカルロス・クライバーの「ばらの騎士」のCDでのオクタヴィアンの印象も新しいところですね。)既に現役を引退したとは言え、まったく衰えを感じさせない芝居っ気たっぷりの「語り」は、まったく余人を持って代え難い魅力をもったものでした。それにしても、この「語り」を女性がやるのは初めて聴きましたが、ファスベンダーだからできたことなのかもしれません。

           ところで、ウィッグルスワースはもう10年来ファンをやっているのですが、この放送で初めて指揮姿を見ました。特に変わったところもなく至極まっとうな棒さばきで、ショウマンシップを発揮するよりは、職人的な手堅さを感じさせます。でも、そんな飾り気のない棒がオケの団員から支持されているのでしょうか、オケとの齟齬も感じさせず、なかなかいいパートナーシップを築いているように思いました。彼は、デビュー当時は、マーラーの10番のクック版を好んで指揮したりして「ラトルの再来」なんて言われてましたが、「再来」はハーディングにお任せして、彼の独自の音楽をやっているのを確かめることができて良かったです。

           この放送を契機に日本でも認知度が上がって、そのうち来日してくれたらなあと切に願います。(確かまだ一度も来日していない)大野和士の後のモネ劇場の実力も実際に接して確かめたいところですし。誰か、招聘して下さい!!

          ビリャダンゴスのアルゼンチンのギター音楽集

          2008.10.25 Saturday

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             以前、アルゼンチンのギタリスト、ビクトル・ビリャダンゴスの弾く「アルゼンチンのギター音楽集第1集」というディスクを、珠玉の小品というカテゴリーの中で取り上げました。そのディスクに収められたプホールの「ミロンガ」という曲がとても気に入ったからです。

            ・アルゼンチンのギター音楽第1集
             ビクトル・ビリャダンゴス(G) (Naxos)

             →詳細はコチラ(HMV/Tower/Amazon)


            <<曲目>>
            ・M.D.プホール:ラプラタの3つの小品/銀の組曲 第1番
            ・サウル:サン・ジョルジュの遊歩道
            ・アヤラ:南米組曲 (セリエ・アメリカーナ)
            ・グァスタビーノ:ギター・ソナタ 第1番
            ・ファルー:3つの小品
            ・エインセ:呼応

            ---
             その時のエントリーでも書きましたが、このディスク、全編本当にきれいな曲ばかりで私のとびきりのお気に入りになっています。今年の「夏の思い出」と、ビリャダンゴスの弾くプホールやアラヤの曲の響きが分かちがたく結びついています。

             ビリャダンゴスには、Naxosから他に数点CDが出ていますが、私はそのうち2枚を聴くことができました。

            ・アルゼンチンのギター音楽第2集
             ビクトル・ビリャダンゴス(G) (Naxos)

             →詳細はコチラ(HMV/Tower/Amazon)

            <<曲目>>
            ・シネシ:あの頃の音/反対の潮流/開かれた空
            ・モスカルディーニ:ドニャ・カルメン(南米のワルツ)
            ・プホール:あるタンゴ弾きへの哀歌
            ・ナタリ:甘いマテ茶/熱いマテ茶
            ・ビリャダンゴス:自由な時/トゥクトゥーター
            ・フェレール:エル・フェリーペ(ガト)
            ・コロネル:アルゼンチンの有名な伝説
            ・サンティリャ−ン:練習曲 第4番 「悪い暮らし向き」
            ・グァスタビーノ:ギター・ソナタ 第3番

            ---
             まず最初は、前述の「アルゼンチンのギター音楽集」に続く第2集。ここでも、第1集に引き続き、プホールの「あるタンゴ弾きへの哀歌」、そして目下の私のお気に入りの作曲家グァスタビーノのギター・ソナタ第3番が収められているのが嬉しい。ただ、ビリャダンゴス自身の曲を含め、あとはまったく知らない作曲家の知らない作品ばかり。

             私は、このアルバム、第1集に収められた曲のような哀愁を帯びた美しい調子の曲を期待して聴いたのですが、こちらはもっとカラッとして明るい調子の曲が多いです。

             例えば、Ottavaでも時々オンエアされているシネシの「あの頃の音」など、ポップ・ミュージックのような軽快なリズムと爽やかなコード進行が耳に心地よく、晴れ渡った空を想起させるような音楽で好感が持てます。

             プホールの「あるタンゴ弾きへの哀歌」は、ピアソラ追悼のために書かれた曲で(村治香織のデビューアルバムで知ってました)、ビリャダンゴスは持てる技巧を鮮やかに発揮しながら、少し苦み走ったピアソラへのオマージュを見事に弾き切っています。「憂鬱な気分で」と名づけられた第2曲の美しさは絶品です。

             グァスタビーノのソナタも、端整なフォルムと適度に湿り気を帯びた美しい旋律がとても印象的でした。

             しかし、その他の曲は、どれもなかなかに好印象の曲ばかりのですが、第1集で聴けた珠玉の作品たちのように心に迫ってくるものはあまりなく、ちょっと拍子抜け。「2匹目のドジョウ」はいないのかなあなどと思ってしまいました。

             そんな時、行きつけの音盤屋さんで、ずっと探していたビリャダンゴスのアルバムが売られているのを見つけ、即購入しました。そのアルバム名は、「アルゼンチンのタンゴ」。

            ・アルゼンチンのタンゴ
             ビクトル・ビリャダンゴス(G) (Naxos)

             →詳細はコチラ(HMV/Tower/Amazon)

            <<曲目>>
            ・ブラスケス:凧が飛ぶ夢
            ・モスカルディーニ:決闘のミロンガ/ティリンゴたちのために
            ・ピアソラ:
              最後のグレーラ/リベルタンゴ/アディオス・ノニーノ/ブエノスアイレス午前零時
              ハシント・チクラーナ/勝利
            ・ガルデル:想いのとどく日/帰還
            ・モレス:ミリタリー・タップ
            ・フリアン・プラサ:メランコリコ/ノスタルヒコ
            ・トロイロ:南(スール)
            ・コセンティーノ:ラ・レコレータ
            ・ラウレンス:わが愛のミロンガ
            ・ビターレ:ミロンガ・デル71

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             ピアソラの「リベルタンゴ」「アディオス・ノニーノ」「ブエノス・アイレス午前零時」など、私でも知っているような有名な曲の他、様々な作曲家のタンゴが18曲収められています。これは、どの曲もおしなべて「アルゼンチンのギター音楽第1集」と同じように胸に迫る曲のオンパレード。演奏も、彼の変幻自在の多彩な音色を存分に楽しめるもので、既に私のお気に入りのディスクの仲間入りをしています。

             その中で特に気に入っているのは、カルロス・ガルデルの「いつか想いが届く日」。これは本当にため息が出るほど美しい。元は歌詞のついた「歌」なのですが、ビリャダンゴスは、ギターという楽器から何と豊かな「歌」を聴かせてくれることか!憧れの異性を思ってはるか遠くの空を眺めながら恋焦がれている、そんな胸がキュンとするような風景を、そう、もう長いこと忘れてしまった「恋」の感情を思い出させてくれます。この曲のタイトルの英訳は"The day you love me"ですが、なかなかいい和訳だなあと思います。

             あとは、トロイロの「南(スール)」、コセンティーノの「ラ・レコレータ」という曲が、甘党の私にはたまらない魅力を持った音楽で特に気に入っています。

             また、ピアソラの音楽は、やはり独自の高みに達した音楽であることを痛感します。「最後のグレーラ」、「アディオス・ノニーノ」なんて、ほんとに心に沁みる曲です。

             個人的には「名盤!」と呼びたくなるいいアルバムだと思います。

             Naxosのギターコレクション、沢山聴いたわけではありませんが、この他に聴いたもののレベルの高さを考えると、HMVのレビューでどなたか書かれていたようにまさに「宝の山」なのだろうと思います。これから、バリオスやラウロなどの作品にも手を伸ばしてみたいと思っていますし、新人ギタリストのシリーズも聴きたいです。

             私は、ギターに関しては本当に最近聴き始めた初心者で、セゴビアもイェペスもブリームもセルシェルも聴いたことがないのですが、でも、今まで聴いたデヴァインやクラフト、ガルシアといった人と比べると、このビリャダンゴスという人は、Naxosのギター奏者陣の中でも技術も音楽性も一頭地抜けたものを持った人なのではないかと思います。

             できることなら、ビリャダンゴスのナマを、小さいホールでPAなしで聴いてみたいと思います。私はこれまで、ギターのリサイタルというものに出かけたことがありませんので、尚更、彼のようないい演奏家を最初に聴きたいと思います。

            ベートーヴェン/ピアノ・ソナタ第29番 コルスティック

            2008.10.24 Friday

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              ・ベートーヴェン/ピアノ・ソナタ第29番「ハンマークラヴィーア」
               (+ピアノ・ソナタ第21番「ワルトシュタイン」)
               ミヒャエル・コルスティック(P) (Ars Musici)

               →詳細はコチラ(HMV)

               ドイツの中堅ピアニストで、「ドクター・ベートーヴェン」との異名を持つミヒャエル・コルスティックのディスクを何枚か聴いたのですが、その中から特に印象に残ったベートーヴェンのピアノ・ソナタ第29番「ハンマークラヴィーア」について書きたいと思います。

               まず、何と!第3楽章の演奏時間が29分近くもかかっています。例えばグルダの演奏時間は14分弱、今まで最長と思われるグールドでも24分程度、平均して16〜18分くらいの音楽のはず。どれほど異様にテンポが遅いか一目瞭然かと思います。しかも、コルスティックは、他の楽章ではベートーヴェンの書き残したメトロノーム記号を守って、超快速で弾いているので、この楽章でのスローテンポぶりが異様に浮き出ています。

               コルスティックの演奏では、一つ一つの音が、ポツリポツリと互いの関連を断ち切られる寸前のところで鳴らされています。そこには彼の音楽への「解釈」は介在しません。ただ譜面に書かれた音が並べられて存在するだけ。例えばポゴレリッチが32番のライヴで聴かせた病的なまでの激しい起伏もなく、ひたすら瞑想的な音楽が、ほぼインテンポでゆるく進んでいくだけ。まるでフェルドマンの音楽を聴いているみたい。

               そこで彼は、その音と音のはざまに聴き手を誘い、能動的な音楽への「参加」を要求します。単音が鳴っている間に聴き手の「思考」を呼び起こすのです。「次はどこへ行くのだ?」「今自分はどこにいるのだ?」と。音楽を咀嚼して噛み砕き、「分かりやすい」「一口サイズ」の音楽を提供すれば聴き手は受動的になってしまうから、巨大なものは巨大なまま提示しようという試みなのでしょうか。ライナーノートのインタビューによると、この長大な楽章は何とワンテイクで録音したのだそうです。ものすごい集中力、すごい技術だと思います。

               コルスティックのこの異様な第3楽章の演奏、恐らく、奇をてらったこけおどしと取る向きもあるでしょう。でも、私はこのフェルドマンみたいな「前衛的な」音楽をとても楽しみました。音楽を聴きながら何かモノを考える「猶予」を与えてもらったようで、間延びした音楽ではなくてファンタジーに満ちた音楽と聴こえたからです。

               実のところ、今まで、「ハンマークラヴィーア」の第3楽章は、あまりに音楽が巨大すぎて足の掛けどころを見つけられずにいました。第30番以降の3曲ほどには心の底から感動することもできずにいたのです。でも、このコルスティックの微速前進の演奏を聴いて、やっと心地よく対峙できるきっかけをもらえた気がします。本当に現代曲を聴く時と同じように、決して身構えずにその響きに身を浸していれば見えてくるのだ、と教えてもらった気がします。

               第3楽章以外の、手に汗握るような快速の演奏は、こちらはコルスティックの持つ技量の鮮やかさと、音楽の造形の確かさを感じることのできる快演だと思います。特に、第1楽章のカミソリのような切れ味鋭いタッチ、第4楽章の屹立するかのような壮大なフーガの立体感も印象的です。ああ、「ハンマークラヴィーア」って凄い、ベートーヴェンって凄い、と、今更のように感動しました。

               そうなると俄然この曲に興味がわいてきて、手持ちのルドルフ・ゼルキンの演奏を聴きなおしてみたところ、以前とは比べものにならないくらいに音楽を味わい深く感じることができました。何と素晴らしい音楽の名演!!手持ちの「ハンマークラヴィーア」を全部聴き直してみたくなりました。コルスティックに感謝したいです!

               コルスティックは他に手持ちではエームスへの「ディアベリ変奏曲」を持っていて、こちらも引き締まった素晴らしい演奏ですし、Ars Musiciへのシューベルトの21番も素晴らしい演奏で、後者は別の機会に感想を書こうと思っています。

               ところで、「ハンマークラヴィーア」のCDのインレイを見ると、何やら漢字の書かれた掛け軸を背に楽譜を読むコルスティックの写真があり目を引きます。もしかしたら、アジアの思想に興味のある人なのかもしれません。だとすれば、彼の「ハンマークラヴィーア」の第3楽章の瞑想や、今度出るというケックランの音楽への取り組みには、どこかアジア的な宗教感への憧れがその基底にあるのだろうかと思ったりします。とても興味深いピアニストです。彼がエームスに進行中のベートーヴェン・チクルスも聴いてみたいと思っています。果たして、「ハンマークラヴィーア」はどんなに深化・進化した演奏を聴かせてくれるでしょうか。

              私のシューベルティアーデ(56) 〜 ミューズたちのピアノ・ソナタ

              2008.10.24 Friday

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                 前回のエントリーで取り上げたビルソンのシューベルトのピアノ・ソナタのライナー・ノートにこんなことが書かれていました。

                 − シューベルトはゲイだった。 −

                 私は、レナード・バーンスタインの熱狂的なファンなので、自分が好きな音楽家の性的嗜好がどうであろうとまったく気にはしないですが、そういう話は初めて聞いたので正直ちょっと驚きました。件のライナーノートの著者は、シューベルトのセクシャリティについては多くの学者の間では常識だとしながら、シューベルトの音楽の「女性的な(feminine)」側面がその証拠だと書いています。そう、ベートーヴェンの筋肉質で男性的、そして"straight"な音楽とは正反対だ、とも。何ともまあステレオタイプな「論拠」だと苦笑してしまいました・・・。

                 まあ、そんな話はどうでもいいのですが、一つ興味があるのは、その「女性的な」シューベルトの音楽を女性がどのように捉え、どのように味わっているのかということです。

                 演奏家では、「シューベルト弾き」と呼ばれる女性ピアニストは、内田光子、ピリス、レオンスカヤ、田部京子といった名前がすぐに浮かんできます。でも、この人達のシューベルトの演奏に共通する「女性ならでは」の何かがあるかというと難しくて、「女性にとってのシューベルト」というものは定義できるわけでもありません。「シューベルトの音楽が女性的」というのも何となく疑わしい気がします。私は男ですが、同じところを逡巡してクヨクヨしたり、なかなか勇気を持って前に足を踏み出せなかったり、深い孤独に自分を身を置いてみたり、そんなのはむしろ男の特権だよなあと思います・・・。

                 前置きが長くなりました。このところ聴いた女流演奏家のシューベルトのピアノ・ソナタの演奏の感想をメモっておきます。

                ・ピアノ・ソナタ第21番、「さすらい人」幻想曲
                 リリー・クラウス(P) (Vanguard)

                 →詳細はコチラ(HMV)

                 まずは往年の名ピアニスト、リリー・クラウスの弾く第21番。1979年のアナログ最後期の録音で、彼女の晩年の演奏です。
                 モーツァルトの演奏で名高い彼女の演奏、恥ずかしながら私は初めて聴くのですが、とても味の濃い音楽に胸を打たれました。楽想に応じて非常に多彩な表情がつけられているのですが、ごく最小限のテンポの揺れの中でそれが見事なバランスで均衡をとりながら自在におこなわれています。時に内面の嵐を思わせるような激しい追い込みがあっても決してやりすぎにもなっていません。これぞまさに名人芸。最近の演奏家に比べれば、技術的には少し粗いかもしれませんが、いい音楽を聴いたなという気になります。
                 そして、第21番以上に素晴らしいのが、「さすらい人幻想曲」。味の濃い表現にますます磨きがかかっていて、とてもドラマティックな演奏です。しかし、あの歌曲の伴奏部が静かに奏でられる第2部のあたりの胸に突き刺さるような歌の深さはどうでしょう。一度聴いたら忘れられない強い印象を与えられました。
                 クラウスには、他に13,16番や即興曲集のディスクが現役で出ているので是非聴いてみたいと思います。

                ・ピアノ・ソナタ第20,13番
                 カルメン・ピアッツィーニ(P) (oehms)

                 →詳細はコチラ(HMV/Amazon)

                 次は、アルゼンチンのピアニスト、カルメン・ピアッツィーニの弾く第13,20番。ピアッツィーニのディスクは、前にアルゼンチンの歌曲集の伴奏で取り上げたことがありますが、独奏を聴くのは初めてです。
                 どちらの曲も、至ってオーソドックスな演奏で、何か新機軸を打ち出してみようとか、人を驚かせようとかいう「狙い」などまったくなく、無心にシューベルトの歌を奏でているといったふう。でも、その落ち着き払ってあっさりとした語り口や、飾り気のない素朴な音色に、何かホッとして身を預けられる、それがとても嬉しい。まさに大人の品格のある滋味深いピアッツィーニの音楽にとても惹かれました。
                 ピアッツィーニは、ハイドンのソナタ全集が出ているほかは、多くは廃盤で今はあまりディスクが出ていないようでもったいないことだなあと思います。それに日本に来たことはあるのでしょうか。アルゼンチン・プログラムとかシューベルト・プログラムをナマで聴いてみたいです。


                ・ピアノ・ソナタ第19,13番、「さすらい人」幻想曲
                 伊藤恵(P) (Fontec)

                 →詳細はコチラ(HMV/Tower/Amazon)

                 その次には、以前「気になる新譜」で取り上げた伊藤恵のシューベルト作品集の第1弾。聴いてから随分時間は経ってしまいましたが、これも感想を書いておきたいと思います。
                 まず、彼女がミュンヘン国際音楽コンクール優勝の際に弾いたという第19番のソナタ。まさに満を辞しての録音ということですが、その彼女の意気込みがストレートに伝わってきます。いかなる音に対しても、どう弾くべきか、どう響くべきか、熟考に熟考を重ね、練習に練習を重ねて十分に弾きこんだ末に出てきた音楽だと思います。ただ、贅沢を言わせてもらえれば、彼女が考え抜いた分、ところどころに出てくるルバートや、デュナーミクの変化に伴うアゴーギグがちょっと「先が読める」というふうになっているのが惜しい。もっと自然に弾いても十分に素晴らしいのになあと。
                 でも、第13番と「さすらい人」では、もっと自然な音楽になっていてこれは良かったです。特に「さすらい人」の立派な構築感は優れたものだと思います。
                 彼女のこれからの録音、とても気になります。次はどんな演奏が聴けるのか楽しみです。

                ・ピアノ・ソナタ第20番(+シューマン/ウィーンの謝肉祭)
                 河村尚子(P) (Audite)

                 →詳細はコチラ(HMV/Tower/Amazon)

                 最後に取り上げるのは、河村尚子の第20番。河村はドイツを中心に活躍しているピアニストで、日本では在京オケとの共演やラ・フォル・ジュルネへの出演で名前の売れてきた人です。
                 彼女の2回目となるシューベルトの20番ですが、ゆったりとしたテンポでとても構えの大きい演奏です。打鍵はさほど強くないですが、しっかりと重量感のある音が出ていて、揺ぎない堅牢な構築を感じさせる安定した音の運びが好ましいです。また、珍しくカワイのピアノを弾いているそうで、特に抒情的な場面、例えば第1楽章の第2主題や第2楽章では、甘くてまろやかな音色の弱音が耳に残ります。
                 しかし、シューベルトの音楽の「核心」にある、ひりつくような孤独の痛みには、敢えてなのかどうかあまり触れておらず、隔靴掻痒の感もなきにしもあらず。器の大きい音楽を持っているだけに、それがあれば鬼に金棒なのにと惜しい。
                 でも、カップリングのシューマンの「ウィーンの謝肉祭」の素直な演奏にはとても好感を持ったので、彼女はとてもいい音楽性をお持ちのピアニストと思います。まだまだ若い人のようですし、これから経験を積んでさらに深化したシューベルトを聴かせてくれることを望みます。

                 と書いてみて、やっぱり「女性ならではのシューベルト」って分からずじまいでした。弾いてる人が男だろうが女だろうが、いいものはいいということですね。

                私のシューベルティアーデ(55) 〜 ビルソンのピアノ・ソナタ全集

                2008.10.23 Thursday

                0
                  ・ピアノ・ソナタ全集(第2〜9,11,13〜21番)
                   マルコム・ビルソン(Fp) (Hungaroton)

                   →詳細はコチラ(HMV/Tower)

                   フォルテピアノ奏者にして音楽学者としても有名なマルコム・ビルソンの弾くシューベルトのピアノ・ソナタ全集を聴きました。一つ前のエントリーのエンデリオンSQのベートーヴェン全集と並行していたので、ちょっとした「マラソン」状態でした。

                   さて、このフンガロトン原盤のビルソンの全集ですが、何より他の盤にない大きな特徴が、未完の曲に対する扱いです。さすがは学者さんというところでしょうか、以下にその様子を列挙してみます。
                  ・第1番D.157(第4楽章欠落)は演奏されていない
                  ・第2番D.279は第4楽章に未完のアレグレットD.346を当て、ビルソンが補筆
                  ・第3番D.459「5つの小品」は、最終曲を割愛して4楽章構成にしている
                  ・第6番D.566は、モデラートとアレグレットの2つの楽章のみ演奏
                  ・第8番D.571は、D.604と570を第2,3楽章として演奏、第1,4楽章をビルソンが補筆
                  ・第15番D.845は、ビルソン補筆版の第3楽章を追加
                  ・通常通り、第10,12番は演奏されていない

                   と、ビルソン自身が補筆をしている曲が3曲あるのです。その割には、第1番が演奏されていないとか、第15番のフィナーレも補筆していないとか、ちょっと解せない対応もあるのですが、きっと演奏家兼学者ビルソンとしての見解なのでしょう。

                   さて、ビルソンの演奏は、第14番を境にしたシューベルトの作風の深刻な「変化」をとても強く意識したものだと言えると思います。13番以前の前古典派的な、そう、ハイドンやモーツァルト、初期のベートーヴェンの影響下にある、端整な佇まいのある曲として演奏されているのに比べ、第14番以降のソナタでは「内面の嵐」を感じさせるような激しい心情の吐露や心の叫びがあちこちで聴かれます。時として、暴力的とさえ言えるような、楽器が軋むような強いタッチで弾かれることさえあり、第1楽章提示部の繰り返しもカットして、疾風怒涛のようなドラマ性を強調した演奏になっています。

                   私は、そのビルソンの激しい後期作品の演奏、特に第18番には心理的に抵抗があります。楽器の特性上、短めのフレージングで明晰なアーティキュレーションを目指すのは良いとしても、あまりにも潤いの不足した乾いた「激情」にはついていけません。また、第14番でのまるで絶叫するかのようなユニゾン、第20番の第2楽章中間部の凄まじい「暴風雨」、聴くのが少ししんどいです。あの第21番に至って、ようやく、静かな境地が開けてきて救いになっていますが、第4楽章はやはり激しい嵐・・・。私の聴きたいシューベルトの音楽じゃないなあ、というのが正直な感想です。

                   しかし、第13番以前の作品は、まったく素晴らしい演奏だと思います。後期の作品のような表現の行き過ぎは感じられず、どこかに哀しみをたたえつつ明るい微笑みを絶やさないような表情がとても印象的です。彼のフォルテピアノも5台を使い分けて録音されていますけれども、初期・中期の曲では軋みもあげず余裕のある、とてもいい音を聴くことができます。

                   そして、ビルソンの補筆ですが、これはとてもうまくいっていると思います。特に、私はあの美しい第8番の補筆に興味があったのですが、第1楽章の途中からなかなかうまくシューベルトの「転調」を再現しつつ、後ろ髪引かれるような哀愁漂うエンディングを形作っています。これは納得のいく補筆です。その他の曲も、ほとんど違和感のない補筆ぶりで、そうと言われなければ補筆とは気づかないであろう出来となっています。

                   ということで、後期の作品の不満が大きいながらも、作風転換前の作品での演奏への好感と、アピールポイントである補筆作業の「たしかさ」ゆえに、これはこれで私には意味のある「全集」を入手できたかなと思います。特に、第2,3,8番が収められた一枚は、私のシューベルティアーデでも特にお気に入りの一枚になりそうです。

                   シューベルトのピアノ・ソナタ、この他に、アンドラーシュ・シフの全集を再度聴き直したり、最近再発された東ドイツのピアニスト、ディーター・ツェヒリンのものを購入したりして、やはり私の音楽生活の中心であり続けています。また感想を書けたら書きたいと思います。

                  ベートーヴェン/弦楽四重奏曲全集 エンデリオンSQ

                  2008.10.23 Thursday

                  0
                    ・ベートーヴェン/弦楽四重奏曲・五重奏曲全集
                     エンデリオン弦楽四重奏団 (Warner)

                     →詳細はコチラ(HMV/Tower/Amazon)


                     ここ1週間ばかり、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲全集を集中して聴いていました。先ごろ発売されたばかりのイギリスのカルテット、エンデリオン弦楽四重奏団による最新盤です。今まで数枚が発売されて評判が良く気にはなっていましたが、一気に全集として廉価でリリースされたので購入することにしました。

                     エンデリオンSQは、日本ではさほど知名度の高くない団体ですが、もう結成25年を迎えるベテランだそうです。四半世紀という節目であれば、やはりベートーヴェン全集を制作したいと思うのでしょう。

                     さて、彼らの演奏を聴いていて、ベートーヴェンが残した「願わくば 心から出でて心へと伝わらんことを」という言葉を思い起こさずにはいられませんでした。ベートーヴェンの音楽の「精髄」には、普遍的な真理への探求と創造の営みから生まれるピュアな喜びがあり、その喜びが聴き手の心にまっすぐ伝わることの幸せがある、ということを、彼らのあたたかく柔らかいアンサンブルが痛切に教えてくれた気がするのです。

                     聴いていて心から幸せを感じる、とても素晴らしい演奏です。

                     どの曲がどうと細かいことを言う気も起こらないほど、すべての曲が考え抜かれ、十分に弾きこまれた高水準の演奏ですが、決して肩を怒らせたような力みや、深刻ぶったような晦渋さとは無縁で、より身近で、何度でも繰り返して聴きたくなるような魅力をたたえた音楽を楽しみました。例えば、あの小難しい「大フーガ」でさえ、耳になじみやすい平易な言葉として聴けたのは初めてですし、こんなに幸福感に溢れたベートーヴェンというのは他にそうはないと思います。

                     このエンデリオン盤は、ブタペストやスメタナ、アルバン・ベルク、あるいはタカーチュなどの数々の名盤に伍して、独自の存在感と価値を主張する資格のある素晴らしい演奏だと思います。ジョナサン・デル・マー校訂による新ベーレンライター版の譜面を使っているということもあり、今後、このエンデリオンの演奏は一つの規範となり得るものだと思っています。そして、私自身も、ベートーヴェンの心の大きさや温かさに触れて、生きる力をもらいたいと思ったときに、彼らの演奏に真っ先に手を伸ばすと思います。

                     それにしても、このカルテット、結成25年。やはりこれだけのものを作るにはそれ相応の時間がかかるということでしょうか。息の長い、そして、苦労の多い作業の末でなければ、真の「実り」は得られないということ。ああ、私もそんな風に何か一つでも「実り」を生めるような人生を生きたいです。

                    私のシューベルティアーデ(54) 〜 クナウアーの「忘れられたピアノ・ソナタD.916B」

                    2008.10.19 Sunday

                    0

                      ・即興曲集D.935
                      ・忘れられたピアノ・ソナタD.916B(世界初録音)
                      ・アダージョとロンド・コンチェルタンテD.487(弦楽合奏伴奏版)
                       セバスティアン・クナウアー(P) アンサンブル・レゾナンス
                       (Berlin Classics)

                       →詳細はコチラ(HMV/Tower/Amazon)

                       結局のところ、シューベルトのピアノ・ソナタって何曲と数えるのが適切なのでしょうか?

                       一応は、21曲と数えるのが標準的ですが、フランスではD.567(第7番の異稿)とD.769Aを加えて23曲とカウントするなど、なかなかに複雑な事情があって私は今でも混乱しています。曲に対して一意に付けられたドイッチェ番号で曲を認識するのが最も確実な方法ですが、覚えるのも結構大変なもので、後期の有名な曲ならいざ知らず「D.557って何番だっけ?」と輸入盤のCDジャケットを見ながら考えてしまうようなこともよくあります。

                       そんなややこしい状況のもとで、「シューベルトにはもう一つピアノ・ソナタがある」という見解で録音された新曲(!)のCDを聴きました。演奏は、以前、このブログで第19番のソナタのCDについて取り上げたことのある、ドイツの若手ピアニスト、セバスティアン・クナウアーです。

                       この新曲が「仕立て上げられた経緯」ですが、まず、シューベルトのピアノ作品として、D.916Bハ長調とD.916Cハ短調の2曲の断片が存在することは以前から知られていました。しかし、1978年(シューベルトの没後150年の年)になって、演奏家としても高名なイェルク・デムスが、この2曲が、ソナタの両端楽章として書かれたのではないかと仮説を立て、学者のロランド・シェルダーと組み「忘れられたソナタ」と名づけて復元をしたということだそうです。彼らは、第2楽章としてD.900の番号で知られるハ短調のアレグレット(有名なD.915とは別の曲)を挿み、ソナタとしての体裁を整えています。

                       デムスが、D.915B,Cの2曲をソナタの一部と主張するには当然理由があります。どちらも明らかにソナタ形式を意識して書かれていることだそうです。また、ライナーノートには、その他にもいろいろな話を、「正当な根拠」として書かれてもいます。

                       が、まあ難しいことは音楽学者さんに任せ、私は、シューベルトの未知の曲が聴けるということでとても楽しみに聴きました。

                       なるほど、第1楽章は「ソナタ」と呼んでよさそうな「構成」を感じさせる曲です。「レリーク」や16番の冒頭を思わせるようなオクターブのユニゾンの主題が提示された後に、歌謡的な第2主題が出てきて、短調へとふっと変容して哀しみを歌いだすあたり、「ああ、シューベルトのピアノ・ソナタ!」と叫びたくなるような、懐かしくて嬉しい感触。曲が完成していないこともあって完結感が薄いなどの欠点を忘れさせてくれます。

                       そして、デリケートな哀しみを胸のうちに秘めたアレグレットの後は、シューベルトお得意のタランテラのようなリズムと同音反復が特徴的な、「いかにも」という音楽。確かに、ソナタのフィナーレとして違和感のない音楽です。ただ、惜しいことにこれもやはりちゃんと完成されていない曲ですので、「いつの間にか気がついたら終わってた」というエンディングは残念です。

                       が、しかし、「未知のシューベルトのピアノ・ソナタを聴く」という好奇心を十分に満たしてくれましたし、「そこにフランツがいる」と思える曲に出会えて嬉しかったです。

                       クナウアーの演奏ですが、以前の19番のやや几帳面で丁寧ながらスクエアな演奏からすると、音楽に幅が出てきて自由さがあり、シューベルトの音楽の心の襞を私に十分感じさせてくれる素敵な演奏になっていて、彼の「成長」を知って嬉しく思えました。

                       さて、このディスク、メインは即興曲D.935ですが、こちらは未聴。

                       その代わり、収録されているもう1曲、「アダージョとロンド・コンチェルタンテD.487」は聴きました。この曲は、元々、ピアノ四重奏のスタイルで書かれた室内楽曲ですが、クナウアー自身が伴奏部分を弦楽合奏にアレンジして演奏しています。私の親しい友人が、「シューベルトにピアノ協奏曲がないのが残念」と言っていましたが、きっとクナウアーも同じ気持ちだったのでしょう。クナウアーは、その鬱憤を晴らすかのように、瑞々しい弦楽アンサンブルと親しげな会話を交し合いながら音楽する喜びを共有するような演奏をしています。明るく透明感のある音楽の美しさを心ゆくまで楽しみました。

                       シューベルトの音楽が好きでたまらない、という人には、とても有意義なアルバムだと思います。