マーラー/交響曲第6番 ジンマン/チューリッヒ・トーンハレ管

2008.11.30 Sunday

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    ・マーラー/交響曲第6番「悲劇的」
     デイヴィッド・ジンマン指揮チューリヒ・トーンハレ管弦楽団 (BMG)

     →詳細はコチラ(HMV/Tower/Amazon)

     2008年を生きる私たちには、どうしても忘れられない光景があります。そう、9.11の同時多発テロでのニューヨーク世界貿易センタービルの崩壊の光景。あの時、突然飛行機2機が相次いでつっこんできて、あっという間にモダンなガラス張りの超高層ビルが崩れ落ちていくのをリアルタイムで見て(映像でですが)、一体私たちは何という時代に生きているのだろうと、言い知れないほど大きな衝撃を受けたのを今でも生々しく記憶しています。

     ジンマンのマーラーのCDの感想を書くのに、どうしてそんな話を持ち出したかというと、彼らの演奏を聴いた時に感じたものが、あのテロの凄惨な場面を見た時の感覚と、どこか共鳴するところがあったからです。

     彼らのマーラーは、混じりけのない透明な響きが際立っていて、音楽の展開も過剰な身ぶりを排したごく純音楽的なもので、その透徹した美しさゆえにまるで精巧なガラス細工を見るような感覚があります。しかし、それゆえに、終楽章での絶望的なカタストロフに至って、今まで大事に扱ってきたガラスが粉々に砕け、無数の破片が飛び散っていくさまが鮮やかに視覚化されたような音楽になっていて驚きます。(実際、凄まじいハンマーの音です)第1楽章から入念に緻密にガラス張りの建物を構築して、その中に生きる人間の心理をスケルトンのように表現しながら、最後のハンマーの打撃でそれを一切合切壊してしまう、そんな音楽。

     それ自体は、一瞬「滅びの美学」などという言葉をあてはめてみたくなるくらい危険な美しさを持っているのですが、しかし、その奥には恐ろしい「現実」、つまり、人間が直面しなければならない「死」というものが横たわっている。ジンマンは、その「死」を目の前にした人間の恐怖や哀しみを、胸を締め付けられるような強烈な「痛み」として表現しているように私は思えました。そんな音楽から、私の脳裏に何かフラッシュバックされるものがあったように思えたのですが、それが何かがようやく今日になって、9・11の場面だったのだと分かったという次第です。勿論、マーラーの6番が、何か予言めいたものを孕んでいたなどとは言うつもりはありませんが、でも、作曲当時の彼の心の中にあった「危機」が、100年を経た今でも今日的であり続けるということなのではないかと思っています。

     このジンマンとトーンハレの6番、十分に高いレベルを誇る演奏だと思いますが、それ以上に私という聴き手の生きる「今」を強烈に意識させてくれたのが素晴らしいと思いました。きっと彼らは、マーラーの音楽の「読み替え」をしようとしたわけではないでしょうけれど、音楽をひたむきなまでに純化させた演奏だからこそ、私の中のイメージを広げてくれたのだろうと思っています。

     彼らのマーラーは既発売の1〜4番の演奏にはあまり心が動きませんでしたが、前作の5番の「哀しみ」で塗りつくされたような美しい演奏に感動して、ここに来てまた6番で心を打たれました。彼らの7番以降の交響曲(10番のクック版含む)の演奏が、一体どんなことになるかとても楽しみです。もっとも、世評はあんまり高くないみたいですけれど。

     私自身、このところマーラーには食傷気味だったのですが、先日のウィッグルスワースの同じ6番に続き、心の動くマーラーを聴けてとても嬉しかったです。

    私のシューベルティアーデ(64) 〜 ルディのピアノ・ソナタ集

    2008.11.29 Saturday

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      ・さすらい人幻想曲、ピアノ・ソナタ第14&4番ほか
       ミハイル・ルディ(P)  (EMI)

       →詳細はコチラ(HMV)

       かつて「あの人は今」なんていうTV番組がありましたが、クラシックの演奏家版「あの人は今」をやると(誰も見ないでしょうが)、どんな人の名前が挙がるでしょうか。

       私の場合、まず最初に思い浮かぶ名前が、ロシアのピアニスト、ミハイル・ルディです。1980年代後半から、確かな技巧と繊細な表現が人気を博し、今をときめくマリス・ヤンソンスとの共演で名を馳せた人ですが、数年前にショパンのアルバムを録音して以降は、ほとんど活動の模様が伝えられてきませんでした。私は彼の大ファンですので、とても淋しい思いをしていました。

       そんな彼の久々の新盤が出ました。「ピアノ・ロマンティーク」というタイトルのCDは、実は既発売の5枚のアルバムだったのですが、私がずっと入手したかったものが含まれていたので喜び勇んで購入しました。(とても安い!)そして、そのうち最も聴きたかったシューベルトの作品集を早速聴きました。

       ここでは、「さすらい人幻想曲」のほか、イ短調のソナタ2曲、第4番と第14番が演奏されているのですが、いずれの曲も、不純物を取り除いて精製され結晶化した孤独を目の当たりにするような思いで聴きました。彼のやや硬質なタッチからは、岩清水のような透明な響きが生まれてくるのですが、その感触はひんやりとしていて、特に短調の音楽ではノーブルと形容したくなるような気高いまでの哀しみが聴こえてくるのです。「さすらい人」の例の歌曲の引用の部分の静謐な歌が特に印象に残りました。そして、時折、孤独に耐えかねて悲鳴を上げるような魂の叫びも十分に表現されていますし、ソナタ第4番の第2楽章のように微笑みをたたえた歌を聴かせてくれる場面もあります。また、フィルアップとして収められたスケルツォや「アルバムの綴り」も洒落たセンスにあふれたとてもいい演奏だと思いました。

       このように、ルディがシューベルトの音楽の中の私が聴きたいと思う部分をとても大切に弾いてくれているので、とても充実した気持ちでこのアルバムを聴きました。彼のシューベルトをもっと聴きたいと思うのですが、他の曲はレパートリーにしていないのでしょうか。

       ともかく、ルディとの「再会」はとても嬉しいです。この「ピアノ・ロマンティーク」、他のディスクも楽しみに聴きたいと思っています。

      ショパン/前奏曲集ほか ラファウ・ブレハッチ(P)

      2008.11.27 Thursday

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        ・ショパン/前奏曲集(26曲)、2つの夜想曲、マズルカ第30番
         ラファウ・ブレハッチ(P) (DG)

         →詳細はコチラ(HMV/Tower/Amazon)

         ブレハッチのショパンの前奏曲集を聴きました。2005年のショパン・コンクールを「完全制覇」した彼が、昨年イエローレーベルへのデビューを飾ったアルバムです。

         CDのオビには、ブレハッチの演奏を評して、「さりげなく凄い」というキャッチコピーが書かれていますが、彼の演奏を聴いていて「さりげなく」という言葉は余分だなと私は思いました。もし彼の演奏が「さりげない」というのなら、その演奏の特徴に気づくには何らかの努力が必要でしょうが、ブレハッチの演奏がいかにユニークで卓越したものであるかは、最初のフレーズだけでも十分すぎるくらいに聴き取れるはずです。(キャッチコピー自体はなかなかいい文句だと思いますが)

         ブレハッチの演奏からから聴こえてくる言葉は、生きることの喜びも哀しみも奥深くまで感じてしまっている人のそれであるように私には思えます。

         例えば、あの悲愴感漂う第4番。最初のため息のようなアウフタクトの一音から、ブレハッチの作り出す音楽の呼吸に引き込まれてしまいますが、左手の伴奏の単純な和音が、繊細な弱音の中で淡く微妙な色づけがなされて刻々とゆらいでいくさまは、まるで心の風景を照らすほの暗い光源がゆらめいているよう。とても美しい。そして、そこに静かに流れる涙をそのまま音にしたような右手の旋律が乗っかると、癒しがたい心の傷をじっと見据えながら愛撫するような、いわく言い難い感覚に出会って心を強く揺さぶられてしまいます。そして最後にハッとするような長いルフトパウゼが来て、どこにも出口のない暗黒へ吸い込まれる。終始、弱音の儚げな音楽なのに、これだけの「静かなドラマ」が込められた演奏は、他に記憶がありません。

         他の曲では、技巧をしっかり持った人だけあって、豪壮にフォルテを鳴らして激しい感情を表出する場面もありますが、でも、全部聴き終わって印象に残るのは、第4番で顕著だった痛みを孕んだ不気味なまでの静けさ。あの「胃薬」が脳裏に浮かんでくる第7番がこんなに丁寧にじっくりと歌われた例は少ないでしょうし、第13番など途中で音楽が短調になるあたりでの胸に差し込んでくるような切ない痛みの表現には涙が出てきそうになります。第20番の冒頭の和音など、静かな「死刑宣告」にも似た恐ろしさも孕んでいます。ショパンの音楽に、実はこれほどの「痛み」がこめられていたのかと驚いているところです。今まで私はショパンの何を聴いてきたんだろうと恥ずかしくなるくらい。

         前奏曲だけでなく、フィルアップの夜想曲も哀しくて美しい音楽。ゆったりしたテンポで、力の抜けた透明な抒情がひたひたと心に迫ってきます。また、日本盤のみのボーナス・トラックのマズルカも、気品のあるリズムが美しくて印象に残ります。そして、あたたかさは失わないけれどもとても透明なタッチには終始新鮮な驚きを覚えていました。

         このディスクは、1985年生まれのブレハッチが22歳だった時の演奏ですが、20代にしてこんなに成熟した音楽が出てくるというのはまさに「凄い」です。いや、凄いというより、出発点がこれだったらこの人はこれからどうやって成長していくのだろうかとちょっと心配になるほど。そして、自分の22歳当時を思うと、自分がいかに凡人であるかに思い至り、平々凡々に生きることの幸せと、ちょっぴりだけの悔しさを感じました。

         ブレハッチの今後、大いなる関心を持って見ていきたいと思います。ショパン以外のレパートリー(最新盤は古典)にも挑戦しているようなので、楽しみです。

         いいディスクを聴けて嬉しいです。これを私に薦めてくれた友人に感謝したいです。

        フォーレ/ヴァイオリンとピアノのための作品全集 〜 イザベル・ファウスト(Vn)

        2008.11.25 Tuesday

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          ・フォーレ/ヴァイオリンとピアノのための作品全集
           イザベル・ファウスト(Vn)/フロラン・ポファール(P) (Harmonia Mundi)

           →詳細はコチラ(HMV/Tower/Amazon)

           私はフランス音楽というのは今までどうにも苦手で、あまり聴いてきませんでした。恥ずかしながら、私はフランスの映画を見終わった時には、「で、結論はどうなったの?」と聞きたくなることが多いのですが、同じようにドビュッシーやラヴェルの音楽を聴いていると、何となくつかみどころがなくて「結局これは何なの?」と尋ねたくなり、足が地に着いていないような感覚になって自分が不安になるのです。それもこれも私の感受性の鈍さから来る反応だということは分かっているのですが、アマオケの木管の仲間にはフランス音楽が好きな人が多く、選曲会議でフランスものが出てくると、「ああ、ソロが多いから目立てると思ってるだけでしょ?」なんて意地悪いことを思ったりもしていました。

           しかし、このところ、フランスの音楽もいいなあと思えるようになって来ました。きっかけは、私の好きなピアニスト、ジョルジュ・プルーデルマッハーの弾くラヴェルのピアノ作品集(Transart)を聴いたときに、フランスの「エスプリ」と心地良く向かい合えた経験です。それから少しずつではありますが、フランスの音楽を聴いていても、以前感じていたよるべない自分への不安は消えて、その音楽の響きに身体の力を抜いて浸ることができるようになってきました。ドビュッシー、ラヴェル、フォーレ、シャブリエなど、少しずつではありますが楽しんで聴けるようになってきました。

           そして、私が今一番興味を持っているフランスの作曲家は、フォーレです。彼の作品は、今までそれこそ「レクイエム」とかパヴァーヌとか、一部の曲を聴いていただけですが、ミチョランマの中に埋もれていたコラールのピアノ作品全集や、アメリングとスゼーの歌曲集を聴いて感銘を受けとても興味が出て来ているのです。例えば、ピアノなら「夜想曲」「舟歌」は珠玉の小品揃いだと思いますし、「3つのロマンス(無言歌)」もとても好きです。歌曲にもいいメロディがたくさんあるなあと思っています。

           そんなふうにフォーレへの興味が出てきたところで、前から聴いてみたいと思っていたイザベル・ファウストの弾くヴァイオリンの作品全集が廉価で再発売されたので聴いてみました。メインのヴァイオリン・ソナタだけでなく、最近特に心に沁みる曲だなあと思っている「子守歌」を、若手ヴァイオリニストの中でも特に評価の高いファウストの演奏で聴きたいと思いました。

           どの曲も、フレッシュでしなやかな歌が素晴らしい演奏だと思います。また、音楽の奥にある「微熱」にも似た控えめなパッションが十全に引き出されているのも見事だと思います。ソナタでの立派な音の構築も良いと思いましたが、それ以上に、「子守歌」「ロマンス」「アンダンテ」「初見用の小品」での、磨きぬかれた弱音を主体にした美しい弦の響きと、のびのびとして清潔な音楽の湧出にとても好感を持ちました。誰だったかが、「フォーレの音楽は永遠に歳をとらない」と言ったそうですけれど、本当に「永遠の若さ」を持ったような、今流行の言葉で言えば、「ヒアルロン酸たっぷり」の音楽を心ゆくまで楽しみました。

           フォーレの音楽、ユボーのピアノ曲全集も買いましたし、私の好きなサンドリーヌ・ピオーの歌う「レクイエム」も出るそうなので、これから聴いていきたいと思っています。

           また、このフォーレで大変好感を持ったイザベル・ファウストの演奏、メルニコフとのシューベルトやブラームスなど是非聴いてみたいと思います。

          私のシューベルティアーデ(63) 〜 シューベルトとウェーベルン

          2008.11.24 Monday

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             シューベルトの音楽と、新ウィーン楽派の音楽を組み合わせて演奏するという例は、最近多くなってきた気がします。以前とりあげたリトウィンというピアニストは、シューベルトのピアノ・ソナタとシェーンベルクの曲を組み合わせたディスクを出していますし、他にも同様の選曲のものも出ています。演奏会でも、ポリーニや内田光子などのコンサートでその組み合わせを見たことがあります。

             そして、シューベルトとウェーベルンを組み合わせたディスクもいくつかあり、私は最近エームスの投売りセール(490円)で入手した"Dialog"というアルバムを聴きました。

            ・Dialog Schubert - Webern
             アヒム・フィードラー指揮ルツェルン祝祭弦楽合奏団 (Oehms)


             ここではシューベルトとウェーベルンの音楽が交互に演奏されてまさに「対話」になっているのですが、シューベルトは、弦楽四重奏断章(第12番)、5つのドイツ舞曲D.90、6つのドイツ舞曲D.820(ウェーベルン編曲)、そして「死と乙女」の第2楽章(マーラー版)、そしてウェーベルンの方は、"Langsamer Satz"の弦楽合奏版、弦楽合奏のための5つの小品、そして「弦楽合奏のための楽章ニ短調」がそれぞれ演奏されています。演奏は、このレーベルで弦楽合奏の作品を多く録音しているアヒム・フィードラー指揮のルツェルン祝祭弦楽合奏団(アバド創設のオケとは別団体、R.バウムガルトナーが創設したオケ)

             このテのコンピレーション・アルバムの場合は、その制作意図が、「シューベルトの音楽の先進性に光を当てる」のか、「ウェーベルンの音楽のロマンティシズムを明らかにする」のかどちらにあるのかで印象が変わってくると思いますが、この盤の場合は、恐らくどちらかといえば後者であろうと思います。このブログのタイトルの起源である、美しい"Langsamer Satz"と、ニ短調の楽章というとろけるような豊潤なロマンティシズムを持った音楽とシューベルトの音楽を重ねて聴くと、無調音楽への傾倒を見せた5つの小品でさえも、とても甘美な響きを持った音楽に聴こえてくるからです。音楽史という遠近法の中でウェーベルンの音楽を見てみると、その消失点にシューベルトの音楽が見えるという感覚を持つことになります。その意味で、企画の良さの光る好アルバムでした。演奏も、モダンでシャープな音色を聴かせつつも、2人の作曲家の音楽にある「歌」がとてもみずみずしい感性を持って歌われているのが好ましく、とても気に入りました。

             これで気を良くしたので、久し振りに以下のアルバムを聴いてみました。

            ・シューベルト/ロザムンデ抜粋+ウェーベルン/6つの管弦楽曲
             (+マーラー/交響曲第3番)
             ミヒャエル・ギーレン指揮南西ドイツ放送響(Heansler)


             ギーレンのマラ3が聴きたくて初発時に買ったものですが、カップリングとして、シューベルトの劇音楽「ロザムンデ」の音楽(バレエ音楽、間奏曲など5曲)と、ウェーベルンの6つの管弦楽曲をこれも交互に演奏したものが収められています。

             こちらは、ギーレンが「ゲンダイオンガクの大家」であることを思い出させるような、とても厳しく冷徹な眼差しを持ったウェーベルンの音楽の印象がとても強く、そちらの方が「普通の音楽」に聴こえてしまうくらい。でも、その結果、シューベルトの音楽が「意外に新しい音楽だったんだ」と思わせるところが面白いです。例えば、ウェーベルンの第4曲末尾の打楽器の強烈なクレッシェンドの後、シューベルトの牧歌的な音楽が聴こえて来たとき、そこには何の違和感も感じないほどに自然なつながりを見ました。それは、ギーレンが、シューベルトの音楽を、現代音楽と同じように、かなり距離を置いてとても冷静にザッハリッヒに演奏しているからかもしれませんが、でも、やはりシューベルトが音楽の彼岸に見ていたものは、ウェーベルンのそれとどこかで交わっているということの証でもあるのではないかと思います。私は、あの「冬の旅」の極北の心象風景が音楽の根底で共鳴しているのではないかと感じています。さすがはギーレン、目のつけどころが違うなあと感心した次第です。なお、最後に演奏された間奏曲第3番は、ウェーベルンの音楽の後に聴くと、何ともナマナマしい痛みを抱えた凄惨な音楽に聴こえてとても胸に刺さります。テンポも早めで、私の大好きなチェリビダッケの演奏とは何もかも対照的ですが、これもとても私の心を激しく揺り動かす演奏です。

             ところで、シューベルトの音楽とベルクの音楽というのは、あまり並べて演奏されたり論じられたりすることはないような気がします。例えば、「ルル」の退廃の響きや、3つの管弦楽曲やヴァイオリン協奏曲の独特のロマンの中に、どこかシューベルトの影を見つけることができないか、少し考えてみたいと思います。

            (付記)
            このエントリーでとりあげた2つのディスクは既に廃盤となっているようです。"Dialog"はタワーレコードのエームスのセールでまだ在庫があるかもしれません。ギーレンはマーラーの交響曲は全集として出ていますが、オリジナルのカップリングはタワーでは取り扱い終了となっています。

            ディヌ・リパッティBOX

            2008.11.24 Monday

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              ・ディヌ・リパッティBOX(EMI)
               →詳細はコチラ(Tower)



               特にクラシックの音楽ファンの間で、未聴のCDの山を指す「ミチョランマ」という言葉は恐らく今年の「流行語大賞」級の使われ方をしたのではないかと思います。かく言う私も、日夜ディスクを聴き続けてていますが、せっせと新しいCDを買ってしまうのでなかなかミチョランマが減りません。小学生の時に習った「ニュートン算」状態。

               そんな私たちファンの「悩みの種」であるミチョランマをよりうずたかくするものは、最近流行の格安BOXセットです。このところ発売されたDHMのバロック音楽集大成とか、カラヤンの各種BOXとか、30枚を超すような大物がリーゾナブルな値段で売られていて、CDショップで巨大なボックスをカートに入れて購入している人も結構見ますし、ブログでも果敢に「制覇」を目指して聴いておられる方のエントリーをよく目にします。

               そして、かくいう私もご他聞に漏れず、いくつかBOXを買ってしまっていて、ミチョランマ状態になっています。アンドラーシュ・シフのバッハの鍵盤作品集とか、アルゲリッチのソロ・レコーディング集、そして、今私が聴いている、ディヌ・リパッティのBOXもその中に含まれます。これは、1950年に33歳という若さで白血病で亡くなったリパッティのEMIへの正規録音と、死後発見されたいくつかのライヴ録音がまとめられた7枚組のCD。今年になって出たものが、最近タワーの限定特価セールで3,290円で売られていたので、つい買ってしまいました。

               まだ全部は聴き切れていませんが、不世出の天才ピアニストの素晴らしい音楽に心から酔いしれているところです。録音はいずれもとても古くて決して良くないし、寄せ集めのディスクですから演奏ごとに録音状態もかなり凸凹が激しいですが、いずれの演奏からも共通して感じられるのは、その宝石を散りばめたようなタッチの美しさと、いわく犯し難い気品をもった気高く凛とした音楽の姿。私は、素晴らしい音楽家が必ずしも「人格者」である必要もないし、いやむしろ、どこか人格に破綻を来たしていることが大芸術家になる必要条件とさえ思っているのですが、このリパッティのまさに「品格」ある演奏を聴いていると、この演奏をおこなっている人がまるで「聖人」であるかのようにさえ思ってしまいます。

               例えば、長く別人の録音がリパッティの演奏と間違えて発売されていたことが発覚した直後、「正真正銘」の彼の演奏として発売されたショパンのピアノ協奏曲第1番。私はこれをLPの初発売以来、四半世紀ぶりに聴きましたが、当時気に入って何度も愛聴していた第2楽章のクリスタルのような美しい音色に陶然としてしまいました。また、カラヤンと共演したシューマンやモーツァルトの21番の協奏曲もまったく素晴らしい演奏だし、ショパンのソナタ3番のラルゴの異様なまでの青白い美しさ、潤いと優しさに満ち溢れたリストの「ペトラルカのソネット第104番」、そして、あのバッハのパルティータとコラール集の素晴らしさと言ったら!ここでは、音楽が何と自然に息づき、何と多くの言葉を語りかけてくることでしょうか!かつて、小澤征爾が、「世界の終わりの時にはリパッティの「主よ人の望みの喜び」を聴きたい」と言っていたのを覚えていますが、ほんとにそれに賛同したくなるくらいです。もちろん、既に私の愛聴盤として所有している、ショパンのワルツ集や舟歌、ブザンソン告別コンサートの素晴らしさについては何も言うことはありません。「世界遺産」と思いたいくらいに大切な音楽。

               理屈抜きで、リパッティの音楽には心を動かされます。このリパッティのBOXは、ミチョランマとしていつまでも残しておきたいとさえ思うくらいです。

              私のシューベルティアーデ(62) 〜 シュライヤー&ラゴズニックの「美しき水車小屋の娘」

              2008.11.23 Sunday

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                ・歌曲集「美しき水車小屋の娘」D.795
                 ペーター・シュライヤー(T)/コンラート・ラゴズニック(G)

                 →詳細はコチラ(HMV)

                 ペーター・シュライヤーが、ラゴズニックのギター伴奏で歌った「美しき水車小屋の娘」のディスクは、最近CDショップの店頭で見かけなくなったので廃盤かと思っていましたが、HMVのサイトで検索するとドイツでは現役盤らしく、オーダーしたら簡単に入手することができました。私は、録音直後に彼らが来日した時のライヴのエアチェックを愛聴していて、このディスクも買いたいとずっと思っていたので、長年の念願が叶って喜んでいるところです。

                 さて、演奏の方ですが、シュライヤーが、難しいパッセージを苦労して弾いているギターをかばうかのようにテンポを落とし、ギターの音量不足を巧妙な歌いまわし(アクセントやデュナーミクの変化など)でカバーして気遣いながら歌っているようで、両者の主従関係がとてもユニークなものになっているのがとても興味を引きます。歌曲ですから、当然歌が主役には違いないのですが、「オレにあわせろ」とばかりに伴奏者に「追従」を強制するような歌ではなくて、「一緒に音楽をやろうよ」とでも言っているような伴奏者への親しげな語りかけになっているのです。そして、それがまさに「シューベルティアーデ」の雰囲気を再現しているようで、とても好ましいのです。まだリリカルな声を保っていたシュライヤーの軽くて伸びやかな声が、ギターの繊細な響きとインティメートに絡み合うさまはやはりとても美しいし、特に終盤、「しおれた花」あたりからのシンプルな音楽は、むしろピアノ伴奏より胸に響くような場面もあるくらいです。

                 哀しいけれど、ほんとうにあたたかい音楽。シューベルトの音楽にある、「内面の奥深くへ沈潜していく自我」よりは、「他者へのあたたかい眼差し」を実感させてくれるような演奏だと思います。その点で、同じギター伴奏という形態をとりながら、もっと「青春の痛み」を直截的に表現していたマンメルの歌とは随分と風合いの違う音楽になっていますが、私がどちらの演奏の美点も楽しめたのは、この連作歌曲集がやはり音楽として大きな力を持っていることの証左ではないかと思います。

                 そういえば、彼らが来日した時の演奏は、確かテレビでも放映された記憶があるのですが、そこでは2人が椅子に腰掛けて顔を寄せ合うような距離で演奏していたように思います。その姿が、どことなく往年の名デュオ、サイモン&ガーファンクルの姿を思い起こさせたので、タイトルは「シュライヤー&ラゴズニック」にしてみました。

                 さらに余談。
                 ラゴズニックは、この「水車小屋」の後、チェロのイェリエと組んで、「アルペジョーネ・ソナタ」も録音しています。そこで聴ける彼のギターもとても好ましい演奏でした。シューベルトの音楽は、ギターと親和性があるのですね。かのセゴビアはピアノ・ソナタ第18番「幻想」の第3楽章をギターで演奏しているようですが、そのうち他の曲も誰かギターで演奏しないかなあと思ったりしています。

                私のシューベルティアーデ(61) 〜 ヘルムヘンのピアノ・ソナタ第20番

                2008.11.22 Saturday

                0
                  ・ピアノ・ソナタ第20番、楽興の時
                   ヘルムート・ヘルムヘン(P) (Pentatone)

                   →詳細はコチラ(HMV/Tower/Amazon)

                   ドイツの若手ピアニスト、ヘルムート・ヘルムヘンの弾くシューベルトの第20番のソナタと「楽興の時」のディスクを聴きました。2007年10月録音の新盤(SACD Hybrid)です。

                   若くてまだ一般的な評価の定まっていない人の演奏に初めて接するというのは、とても楽しみなことです。しかし、その演奏に関する僅かな「評判」が前情報として頭にインプットされてしまっている場合には、聴く時に先入観のようなものが入ってしまって自分の心の動きに正直になれないことがあります。「評論家の誰それはこう言って褒めてるけど、あんまり心が動かないのは自分の耳が悪いからだろうか?」とか、「どこかでひどい演奏だって書かれてたけど、自分は結構いいと思うんのはどうしてだろう?」とか、音楽以外の「雑念」に邪魔されてしまうのです。

                   このヘルムヘンの演奏がまさにそのケース。当ディスクは、レコ芸の今月号(2008年12月号)で吉田秀和氏、西村祐氏が絶賛しています。私は普段、特定の評論家が褒めている、あるいはけなしているからディスクを買って聴くということは余りしないのですが、シューベルトの大好きな曲の、しかも若手演奏家の新盤となると居ても立ってもいられなくて、この高価な(¥3,455)ディスクを購入しました。そして、ここの場はあくまで「私のシューベルティアーデ」ですから、吉田氏が褒めていようがいなかろうが、自分の感性で聴いて感想を書いておこうと意気込んで聴き始めました。決して「減点法」で揚げ足を取るような聴き方をするのではなくて、演奏家の音楽への思いをプラス志向で受け止めて聴きたいと。
                    
                   しかし、その意気込み虚しく、やっぱりいろんな「雑念」が頭から離れないまま、ヘルムヘンの演奏を聴くことになってしまいました。ここで「良かった」って書くと何だか評論家の言葉を鵜呑みしてるみたいでイヤだなあと思うのだけれど、さりとてボロクソに貶すほど印象の悪い演奏でもないし、じゃあ一体自分はこれを聴いて何を感じているんだろう?という自問が頭の中でグルグルして、結局、「私の感じたヘルムヘンのシューベルト」という像を結べないまま終わってしまいました。自意識過剰の自分がイヤになります。
                   
                   それでも、何か感じたことをメモッておくとするなら、まず、中庸のテンポでわずかな揺れを見せながら穏やかに進んでいく彼の演奏、私はそんなに嫌いではありません。いやむしろ、「楽興の時」の第2,4,6曲あたり、とてもきれいな弱音が印象に残りました。ソナタでも、肉厚の柔らかい響き(録音が良いのかも)が印象的で、造形も端整、なかなかいい演奏じゃないかと思いました。

                   ただ、完全に彼の演奏に心酔しきれた訳ではなくて、リズムの取り方がとても四角四面な気がしたり(特に第2楽章の左手の伴奏を聴いていると、アイン、ツヴァイ、ドライと声が聴こえそう・・・)、時折引っ叩くような質感のない強音が聴かれたり、音楽が盛り上がる時にいつもアッチェランド気味に走りがちで単調に感じられる点が気になりました。そして、何よりも、私の聴きたい、「痛みを孕んだ心からの歌」があんまり聴こえてこなかったような気がします。レコ芸の西村祐氏の評では、その痛みは巧妙に隠されているのだという風に書かれていましたが、残念ながら、「楽興の時」の第6曲以外ではそうは思えませんでした。彼の奏でる音の一つ一つはきれいなのですが、それらが繋がって静寂を生み出すような奥行きが不足しているように感じられ、「きれいな弱音」の先にある何ものかを聴きたいという思いがつきまとってしまうのです。

                   ・・・なんてことを考えているうち、こんな不満を感じるのはやっぱり私の耳が悪いだけなんじゃないだろうか?との思いがよぎったり、ふと我に返って、「ああ、やっぱり減点法で音楽を聴いているじゃないか!」と愕然としたり、でも、ああここは結構いいなあと感心したりで、ポンコツの私の脳がフル回転して壊れそうになって悲鳴を上げておりました。

                   こんなへっぽこな聴き方しかできなくて、ヘルムヘン君、ごめんなさい。でも、エライ人が褒めてくれたから大丈夫、きっとあなたは成功するでしょう。

                   楽しいような、しんどいような逡巡でした。でも、これもシューベルトの音楽みたいだから、「ま、いいか」と思うことにして、この訳の分からないエントリーを閉じたいと思います。

                  私のシューベルティアーデ(60) 〜 シューベルトをたたえて

                  2008.11.19 Wednesday

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                     ちょうど180年前の今日、11月19日、フランツ・シューベルトは31歳の短い生涯を閉じました。命日にあたるということで、何かシューベルトの音楽を聴こうかとも思ったのですが、後世の作曲家が遺したシューベルトへのオマージュとも言える音楽を聴いてみることにしました。

                    ・プーランク/即興曲第12番「シューベルトへのオマージュ」
                     エリック・ルサージュ(P) (BMG)

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                     恐らくシューベルトの遺した舞曲をイメージして作った曲と思われます。オーストリア的の舞曲的な雰囲気が、パリの社交界のそれに見事に置き換えられていて素敵な曲です。ルサージュの演奏も生き生きしていてとても好ましいです。

                    ・ポンセ/ソナタ・ロマンティカ「フランツ・シューベルト讃」
                     アナ・ヴィドヴィッチ(g) (Naxos)

                     →詳細はコチラ(Tower/Amazon)
                     
                     これは最近の私のギターブームの中で知った曲です。4楽章からなるギター・ソナタで、シューベルトの音楽にある哀愁をうまくとりこみ、しみじみとしたサウダージの歌を聴かせる第2楽章などとても素晴らしいです。美人ギタリスト、ヴィドヴィッチの演奏もなかなかのものです。

                    ・イッポリトフ=イワノフ/「シューベルトの生涯」からのエピソード
                     ドナルド・ヨハノス指揮スロヴァキア放送響、M.ドヴォルスキー(T)
                     (Marco Polo)


                     1920年に書かれた10分ほどの曲で、シューベルトの早すぎる死を悼んだ葬送曲としてかかれたものだそうです。心を冷たい風が吹き抜けるような哀しい音楽から始まり、やがて弦楽五重奏曲第1楽章のチェロ2本によるあの美しい第2主題が引用され、夢見るような音楽が展開されますが、やがてまた哀しい音楽が戻ってきて、鎮魂歌のような痛ましい調べがテノール独唱によって歌われます。シューベルトへの思いが込められたなかなかの佳品だと思います。途中で、ます。これは持っているCDを久し振りに聴きましたが、胸をうついい曲です。

                    ・シュネーベル/シューベルト・ファンタジー
                     ゾルダーン・ペシュコー指揮南西ドイツ放響 (Wergo)


                     最後は現代作曲家ディーター・シュネーベルがオーケストラのために作曲した「シューベルト・ファンタジー」。Re-Visionという様々な作曲家へのオマージュでできた曲の中の一つです。混沌としたオケの不協和音の中から、ピアノ・ソナタ第18番「幻想」の第1楽章の断片がオケに編曲されて現れてきます。同じ"Re-Vision"にあるマーラー・モーメントという曲と同工異曲です。現代の不安な時代に生きる私たちの中で、シューベルトの音楽にあるファンタジーがまだアクティヴなものであり続けているのだと言っているような曲です。

                     駆け足でシューベルトを讃える音楽を聴いてみましたが、それぞれの作曲家のシューベルトへの思いがこめられていて面白かったです。私が作曲家だったら、私もシューベルトへのオマージュとなるような音楽を書いてみたいです。

                     シューベルトが、その短い生涯と引き換えに、私たちに生きる力を与えてくれるような素晴らしい音楽を残してくれたことに心から感謝して、このエントリーを閉じたいと思います。

                    私のシューベルティアーデ(59) 〜 リンゼイSQの後期弦楽四重奏曲集

                    2008.11.17 Monday

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                      ・弦楽四重奏曲第8、12〜15番、弦楽五重奏曲
                       リンゼイ弦楽四重奏団
                       ダグラス・カミングス(Vc) (ASV)

                       →詳細はコチラ(HMV/Tower)

                       私はイギリスへは一度も行ったことはないのですが、かの国では天気の悪い日が多くて、天気の話が挨拶代わりになるという話を何度か聞いたことがあります。例えば、テムズ沿いのビッグ・ベンも、からりと晴れ渡った空ではなくて、どんよりと曇った空がバックの写真や映像を見ることの方が多いような気がします。

                       リンゼイ弦楽四重奏団(リンゼイズ)が1980年代にASVに録音したシューベルトの後期弦楽四重奏曲と弦楽五重奏曲の4枚のCDを聴いていて、そんなことを思い出していました。

                       彼らの演奏は、どの曲もゆったりとしたテンポで、弓をたっぷり使ったような豊かな響きが特徴なのですが、透明感よりは和声の豊かさを優先しているせいか、音程のとり方に少し幅があって音色がいくぶん暗く重めの印象があります。そして、激しいアクセントであっても、音のエッジが決して鋭角的にならず常にソノリティが確保されているため、音楽全体にずしりとした独特の重みがあるのです。そのせいでしょうか、例えば、最近私が聴いたロダンSQの第15番などは、晴れ渡った空を思わせるような清澄な響きが新鮮でしたが、このリンゼイズの演奏のその重い雰囲気から、まさに「どんよりと曇った空」を思い起こしてしまうのです。

                       例えば、弦楽五重奏曲の第2楽章のアダージョの、あのまさに「天国的」とも言える透き通った内声部のハーモニーでさえも、どこかに「濁り」(注:汚いという意味ではありません)があって、心のどこかに何か厄介ごとをまだ抱え込んでしまったままといったような沈鬱な雰囲気を感じさせてしまうところが独特です。また、「ロザムンデ」の第2楽章も、あのたおやかな「間奏曲」のメロディが、深い物思いに沈んだような哀しげな瞳を映し出した音楽に聴こえてきます。

                       そのリンゼイズの描き出した、シューベルトの心の「曇り」の空模様は、私はとても素敵なものだと思います。

                       例えば、「死と乙女」がこれほど「質量」を感じさせる哀しみを孕みながら歌われるのを他に聴いたことはなく、とても印象に残りました。また、「ロザムンデ」の冒頭の「糸を紡ぐグレートヒェン」の伴奏の引用から始まる旋律の、不安で不安でたまらないとでも言いたげな重苦しい歌も、心に何か重くのしかかるものを感じて、ああこの曲はこういう曲だったのかと改めて感じ取ることができました。第15番も、いつもどこかに憂いを秘めた音楽が胸から腹にずんと落ちてくるようで、第2楽章のチェロの詠嘆など、まさに五臓六腑に染み渡ります。そして、私が愛してやまない弦楽五重奏曲でも、彼らの重みのある響きはここでも印象的で、どんなに明るい長調の「歌」の裏にも必ずそこには、ずしりと心に響く「鈍痛」が隠されているのだということを思い知りました。

                       そして、どの曲も、じっくりとした歩みで「重み」を感じさせつつ、シンフォニックと言ってよいほどの大きなスケールをもって演奏されているのも素晴らしい。シューベルトの最晩年の音楽の「威容」が見事なまでに明らかにされていると思います。例えば、「死と乙女」のフィナーレの充実しきった音楽の運びからは、とてつもなく大きなものが円環を閉じるのを目の当たりにするるような充足感を感じることができます。どの曲も、第1楽章の反復を励行しているのも、より曲のスケール感を増す結果となっていて嬉しいです。

                       全体に、名盤ひしめく後期弦楽四重奏曲のCDの中でも、何度も聴いても飽きのこない、とても優れた演奏だと思います。最近は、ネットでなければ入手しづらいディスクになってしまっているようで、もったいないなあと思います。