私のシューベルティアーデ(70) 〜 楽興の時 アファナシエフ(P)
2008.12.31 Wednesday
・楽興の時D.780
ヴァレリー・アファナシエフ(P)
(BS-hi「京都へのおくりもの」)
先日放送されたアファナシエフのリサイタル番組(BS-hi)の録画を、今日ようやく見ることができました。番組は「京都へのおくりもの」と題されており、京都の寺の一室で、彼がシルヴェストロフのオーラル・ミュージック第1番、シューベルトの楽興の時、そしてブラームスの間奏曲Op.117-2の3曲を弾いていました。
とても心に響くシューベルトを聴くことができました。
まず、内面から発せられる声にじっと耳をすまして聴いているような静謐さはアファナシエフならではの独特のもの。番組の中で、アファナシエフ自身は、シューベルトの音楽には日本人の持つ「もののあはれ」という感情ととても近いものを感じると言っていましたが、確かに彼の演奏からは、死を意識したシューベルトの孤独な心と向き合ってこそ生じる何とも言いがたい感情、つまり「もののあはれ」がこめられているように感じられます。取り返しのつかないものを失ってしまった哀しみや喪失感が音楽の全体を覆っていて、過ぎ去ってしまった時間への哀惜の念が湧き上がってくるさまは、京都の紅葉の風景と哀しくも美しく調和していました。第4番や第6番の胸が締め付けられるような切実な表現はとても印象的でしたし、第3番はもはや「初心者でも弾ける易しい曲」とは聴こえない複雑な味わいをもった演奏でした。
それと同時に、以前のアファナシエフとは少し違う面も感じました。10年くらい前の彼なら「この音楽に癒しなど求めてはいけない」とばかり、暴力的なほどに聴く者に「痛み」を鼻先に突きつけるような演奏をしたでしょう。しかし、今日聴いた演奏には、「シューベルトの音楽にある痛みを一緒に受け止めよう」という聴き手へのあたたかで柔らかな語りかけがあるように私は思えました。テンポやダイナミクスに「極端さ」が影を潜め、より自然な音の運びが目立つようになったからかもしれません。いずれにせよ、音楽家アファナシエフが少しずつ変貌を遂げつつあることは確かだと思います。
最初に演奏されたシルヴェストロフも、最後のブラームスも、同じように「過去」を哀惜し、あたたかな孤独と向き合う音楽で心に残りました。とてもいい番組だったと思います。このまま商品化してもいいんじゃないかというくらい。
昨年の暮れ、私は彼の弾く新しいソナタの録音(第13,14,16,20番)を聴いて、シューベルトへの音楽に深く傾倒するようになりました。彼の演奏を聴きながら、この一年のいろいろな情景を思い出して、感慨に耽ってしまいました。今年最後に聴くシューベルトとして、再びアファナシエフの演奏を聴けて、一つの大きな環が閉じられた気がして嬉しく思います。
ヴァレリー・アファナシエフ(P)
(BS-hi「京都へのおくりもの」)
先日放送されたアファナシエフのリサイタル番組(BS-hi)の録画を、今日ようやく見ることができました。番組は「京都へのおくりもの」と題されており、京都の寺の一室で、彼がシルヴェストロフのオーラル・ミュージック第1番、シューベルトの楽興の時、そしてブラームスの間奏曲Op.117-2の3曲を弾いていました。
とても心に響くシューベルトを聴くことができました。
まず、内面から発せられる声にじっと耳をすまして聴いているような静謐さはアファナシエフならではの独特のもの。番組の中で、アファナシエフ自身は、シューベルトの音楽には日本人の持つ「もののあはれ」という感情ととても近いものを感じると言っていましたが、確かに彼の演奏からは、死を意識したシューベルトの孤独な心と向き合ってこそ生じる何とも言いがたい感情、つまり「もののあはれ」がこめられているように感じられます。取り返しのつかないものを失ってしまった哀しみや喪失感が音楽の全体を覆っていて、過ぎ去ってしまった時間への哀惜の念が湧き上がってくるさまは、京都の紅葉の風景と哀しくも美しく調和していました。第4番や第6番の胸が締め付けられるような切実な表現はとても印象的でしたし、第3番はもはや「初心者でも弾ける易しい曲」とは聴こえない複雑な味わいをもった演奏でした。
それと同時に、以前のアファナシエフとは少し違う面も感じました。10年くらい前の彼なら「この音楽に癒しなど求めてはいけない」とばかり、暴力的なほどに聴く者に「痛み」を鼻先に突きつけるような演奏をしたでしょう。しかし、今日聴いた演奏には、「シューベルトの音楽にある痛みを一緒に受け止めよう」という聴き手へのあたたかで柔らかな語りかけがあるように私は思えました。テンポやダイナミクスに「極端さ」が影を潜め、より自然な音の運びが目立つようになったからかもしれません。いずれにせよ、音楽家アファナシエフが少しずつ変貌を遂げつつあることは確かだと思います。
最初に演奏されたシルヴェストロフも、最後のブラームスも、同じように「過去」を哀惜し、あたたかな孤独と向き合う音楽で心に残りました。とてもいい番組だったと思います。このまま商品化してもいいんじゃないかというくらい。
昨年の暮れ、私は彼の弾く新しいソナタの録音(第13,14,16,20番)を聴いて、シューベルトへの音楽に深く傾倒するようになりました。彼の演奏を聴きながら、この一年のいろいろな情景を思い出して、感慨に耽ってしまいました。今年最後に聴くシューベルトとして、再びアファナシエフの演奏を聴けて、一つの大きな環が閉じられた気がして嬉しく思います。