私のシューベルティアーデ(70) 〜 楽興の時 アファナシエフ(P)

2008.12.31 Wednesday

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    アファナシエフ・楽興の時D.780
     ヴァレリー・アファナシエフ(P)
     (BS-hi「京都へのおくりもの」)


     先日放送されたアファナシエフのリサイタル番組(BS-hi)の録画を、今日ようやく見ることができました。番組は「京都へのおくりもの」と題されており、京都の寺の一室で、彼がシルヴェストロフのオーラル・ミュージック第1番、シューベルトの楽興の時、そしてブラームスの間奏曲Op.117-2の3曲を弾いていました。

     とても心に響くシューベルトを聴くことができました。

     まず、内面から発せられる声にじっと耳をすまして聴いているような静謐さはアファナシエフならではの独特のもの。番組の中で、アファナシエフ自身は、シューベルトの音楽には日本人の持つ「もののあはれ」という感情ととても近いものを感じると言っていましたが、確かに彼の演奏からは、死を意識したシューベルトの孤独な心と向き合ってこそ生じる何とも言いがたい感情、つまり「もののあはれ」がこめられているように感じられます。取り返しのつかないものを失ってしまった哀しみや喪失感が音楽の全体を覆っていて、過ぎ去ってしまった時間への哀惜の念が湧き上がってくるさまは、京都の紅葉の風景と哀しくも美しく調和していました。第4番や第6番の胸が締め付けられるような切実な表現はとても印象的でしたし、第3番はもはや「初心者でも弾ける易しい曲」とは聴こえない複雑な味わいをもった演奏でした。
     
     それと同時に、以前のアファナシエフとは少し違う面も感じました。10年くらい前の彼なら「この音楽に癒しなど求めてはいけない」とばかり、暴力的なほどに聴く者に「痛み」を鼻先に突きつけるような演奏をしたでしょう。しかし、今日聴いた演奏には、「シューベルトの音楽にある痛みを一緒に受け止めよう」という聴き手へのあたたかで柔らかな語りかけがあるように私は思えました。テンポやダイナミクスに「極端さ」が影を潜め、より自然な音の運びが目立つようになったからかもしれません。いずれにせよ、音楽家アファナシエフが少しずつ変貌を遂げつつあることは確かだと思います。

     最初に演奏されたシルヴェストロフも、最後のブラームスも、同じように「過去」を哀惜し、あたたかな孤独と向き合う音楽で心に残りました。とてもいい番組だったと思います。このまま商品化してもいいんじゃないかというくらい。

     昨年の暮れ、私は彼の弾く新しいソナタの録音(第13,14,16,20番)を聴いて、シューベルトへの音楽に深く傾倒するようになりました。彼の演奏を聴きながら、この一年のいろいろな情景を思い出して、感慨に耽ってしまいました。今年最後に聴くシューベルトとして、再びアファナシエフの演奏を聴けて、一つの大きな環が閉じられた気がして嬉しく思います。

    ベートーヴェン(グリフィス編)/ザ・ジェネラル(司令官) ナガノ/モントリオール響

    2008.12.30 Tuesday

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      ・ベートーヴェン(グリフィス編)/ザ・ジェネラル(司令官)
       シェル(朗読)ピエチョンカ(S)
       ケント・ナガノ指揮モントリオール響、合唱団

       →詳細はコチラ(HMV)

       私が子供だった頃には、「最後に正義は勝つ」という言葉は、ヒーローもののTV番組の中だけでなく、世間一般でもそれなりの真実性を持った言葉だったような気がします。例えば、政治家が演説で同じ言葉を述べたとしても、まったく違和感はなかっただろうと思います。

       しかし、90年代初頭にルワンダでおこった大規模なジェノサイド(大量虐殺)の際のロメオ・ダレール氏の体験談を聞くと、「最後に正義は勝つ」という言葉が俄かに信じがたいものに思えてしまいます。

       1993年、ルワンダ内戦の和平を支援するため平和維持部隊の司令官として赴任したカナダのロメオ・ダレール氏は、再び内戦が起こる危険を察知し、国連に部隊の兵力増強を訴え続けました。しかし、国連も国際社会からも反応はないまま内戦が始まり、ついに100日間で80万人が殺されるジェノサイドを食い止めることはできませんでした。「正義の味方」であるはずの国連がまったく機能しなかったということは、「正義の敗北」を意味しました。

       ダレール氏は、軍人として権限がないため誰も助けられない状況でしたが、未曾有の惨劇の目撃者となろうと、逃げずにルワンダに残りました。しかし、それが彼の精神を極限まで追い詰め、最後には司令官の任を解かれ失意のままカナダへと帰国します。その後、彼はPTSDに苦しみ自殺未遂を起こすほどでしたが、2003年に社会に復帰し、今は国連のジェノサイド予防諮問委員会の委員に任命され、世界中で国家の安全保障ではない、「人間の安全保障」の実現をめざし、若者や社会に働きかけ続けているとのことです。

       さて、そんなダレール氏の体験を題材として、ベートーヴェンの劇音楽「エグモント」を現代に蘇らせるべく翻案されたのが、指揮者ケント・ナガノの委嘱でポール・グリフィスが編んだ「ザ・ジェネラル(司令官)」です。(「運命」も収録された2枚組ディスクのタイトルは「フランス革命の理想」)

       ゲーテの戯曲を基にしたベートーヴェンの原作では、スペインの植民地だったオランダの独立運動をおこなって処刑されたエグモントの史実が扱われていましたが、グリフィスはテキストを全面的に新しいものに差し換えてダレール氏の回想に変え、「シュテファン王」や「レオノーレ・プロハスカ」などの珍しい作品からも音楽を借用し、まったく新しい独自の「劇音楽」を作り上げました。クレールヒェンの歌う歌も、歌詞を刷新して英語(フランス語バージョンあり)になっています。

       「司令官」は、オケとダレール役の語り手との「対話」で音楽劇が進んでいきます。輸入盤を購入したためテキストは読めず(AnalektaレーベルのHPで読めるそうなのですが見つかりません)、私の貧しいヒアリング能力では正確に内容を把握できていないのですが、グリフィスの書いたライナーを参考にすれば、自分が惨劇のさなかにまったく無力であることを悟って希望を失った司令官が、最後には「怒りによって希望を取り戻す」という過程が描かれています。

       そのラストシーンは、原作とまったく違うものになっています。原作では、エグモントを捕まえようと集まってくるスペイン軍の進軍を表す小太鼓の激しいロールの中、エグモント役の語り手がオランダの自由を高らかに宣言し、緊張が頂点に達したところで序曲のコーダが「勝利の交響曲」として鳴り響くという設定になっています。つまり、「最後に正義は勝つ」という音楽。

       しかし、「司令官」では、その「勝利の交響曲」が一瞬演奏された直後に、語り手は「No!」を叫び、音楽は断ち切られてしまいます。そう、「正義は敗れた」のです。

       その後、最後にベートーヴェンの晩年の合唱とソプラノ独唱を伴った「奉献歌」が歌われます。バッハの「マタイ受難曲」の終盤の「イエスよ、おやすみなさい」と歌われる子守歌を思わせるような、柔らかく安らかな美しい響きに満ちた歌に聴こえますが、「ルワンダ紛争には、虐殺と無関心しかありません」とグリフィスが言うように、結局は正義のために何もできなかった無力感を反映しているようにも思えますし、でも、どこか奥の方に「希望」を感じさせるトーンが感じられもします。とても不思議な感覚のまま曲は静かに閉じられます。

       そんなふうにテキストが差し替えられ、エンディングまでもまったく別物にされて、ある意味ズタズタにされたベートーヴェンの音楽ですが、それでもなお、何か私の心に訴えかけるものを決して失わないのは、ベートーヴェンが音楽にこめた「自由」への渇望にも似た熱烈な思いが、ダレール氏のそしてグリフィスの思いとどこかで共鳴しているからだと思います。つまり、ベートーヴェンの音楽は、今を生きる私達にとってもまだ十分に今日的であり得るということ。

       この大胆なナガノとグリフィスの試みが、音楽的に見て成功だったかどうかは素人の私には判断する術がありません。全く邪道な「読み替え」とする向きもあるだろうと思います。しかし、私にとっては、ベートーヴェンの音楽を通して「今」を感じることができた貴重な体験であって、彼らの果敢なチャレンジを支持したいと思います。ナガノとモントリオール響の最初のレコーディングとしては大変意義深いディスクなのではないでしょうか。演奏も、最近流行の古楽とモダンの折衷型なのはともかく、まっすぐにベートーヴェンの音楽と向き合って、その中にある「真実」を掴み取ろうとする意気込みを感じて大変好感を持ちました。(併録された「運命」は今ひとつ感動できませんでしたが)

       因みに、このディスクでダレール役を演じているのは、バーンスタインのベートーヴェンの交響曲全集の映像で曲目解説の語りをしていたマクシミリアン・シェル。声も姿も相当に歳を取りましたが、とても懐かしい人です。

       折りしも、またしてもガザでの空爆で沢山の人が犠牲になっています。今年の聴き納めは、「第9」ではなくて、この「司令官」を再び聴こうかなと思っています。

      J.S.バッハ/ヴァイオリン協奏曲集 ユリア・フィッシャー(Vn)

      2008.12.30 Tuesday

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        ・J.S.バッハ/ヴァイオリン協奏曲集
         ユリア・フィッシャー(Vn)アカデミー室内管弦楽団

         →詳細はコチラ(HMV/Tower)

        <<曲目>>
        ・2つのヴァイオリンのための協奏曲ニ短調 BWV1043
        ・ヴァイオリン協奏曲第1番イ短調 BWV1041
        ・ヴァイオリン協奏曲第2番ホ長調 BWV1042
        ・ヴァイオリンとオーボエのための協奏曲ハ短調 BWV1060

        ---
         ドイツの若手女流ヴァイオリニスト、ユリア・フィッシャー(1983年生まれ)のデッカ移籍後初のアルバムが出ました。彼女の弾くバッハはペンタトーンから出ている無伴奏が気に入っていましたし、今回の新盤もジャケット写真の彼女の美貌にも強く惹かれ、今年の「買い納め」のうちの一枚として買って早速聴きました。

         フィッシャーのバッハの無伴奏は、とても真面目に真正面から音楽に向かい合った演奏として大変好感が持てたのですが、今回の協奏曲も同様の印象を持ちました。今流行のピリオド奏法を実践しているわけでもなく、人を驚かせるような趣向を凝らすという風でもなく、至極まっとうな音楽をやろうとしているのが伝わってきます。技術的にも大変高いレベルにある演奏であるのは当然ですが、フレージングは折り目正しく、明快なアーティキュレーションで音楽の輪郭をはっきりと出すことに腐心しているようで、決して歌いすぎないように、そしてこれ見よがしの思わせぶりなポーズを排するように、常に注意深く自己抑制をしているような「真摯さ」に心惹かれます。既に演奏され尽くした感のあるポピュラーな音楽に対して、あくまで正攻法でのアプローチを貫こうとするその意気には拍手です。

         正直なところ、彼女が自己を厳しく律して演奏しようとするがゆえに、バッハの持つ音楽自体の「訴える力」をかえって弱めているような気がするのも事実です。ところどころ、もう少し自由に振舞ってイマジネーションを羽ばたかせてもいいのになあと思ってしまう部分もあります。あるいはこれだけの美しい音なのだから、もう少しのびのびと歌ってもいいのではないのかという気もしたりもします。

         ですが、私は、彼女の音楽の「真摯さ」「ひたむきさ」からは、音楽家として、人間として、女性として、今の彼女にしか出せない美しさを感じずにはいられません。とても気持ちの良いアルバムを聴けて良かったです。
         
         イザベル・ファウストやアリーナ・イブラギモヴァと並んで、今後の成熟を見守っていきたい女流ヴァイオリニストの一人です。

        メシアン/トゥーランガリラ交響曲 カンブルラン/南西ドイツ放送響

        2008.12.29 Monday

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          ・メシアン/トゥーランガリラ交響曲
           シルヴァン・カンブルラン指揮南西ドイツ放送響
           ミュラロ(P) クラヴリー(オンド・マルトノ) (Heanssler)

           →詳細はコチラ(HMV/Tower/Amazon)

           最近、イギリスの音楽雑誌「グラモフォン」で、アムステルダム・コンセルトヘボウ管が「世界一のオーケストラ」にランキングされて話題になりました。そのランキングの是非はともかく、コンセルトヘボウというオケの特質として、当然その固有の美しさを持った音色や響きがあり、さらにどんな指揮者の要求にも応えるだけの優れた機能性があることは大方の異論はないでしょう。

           コンセルトヘボウというオケの良さにはもう一つあります。それは、メンゲルベルク、ベイヌム、ハイティンク(ヨッフムが補佐)、シャイー、そしてヤンソンスといった歴代の名シェフたちと長年にわたるパートナーシップを築きながら美しい伝統を作り上げてきたことです。ベートーヴェンやマーラー、ブルックナーなどで、他のオケからは聴けないような素晴らしい演奏を数知れず残しているのは周知の事実です。極論してしまえば、かつてマーラーが言ったように、「悪いオーケストラなどない。悪い指揮者がいるだけだ。」ということを証明しているオーケストラなのかもしれません。

           さて、歴代の指揮者とオケとが良好な関係を築きながら成長してきたオケというと、私はドイツはバーデン・バーデンとフライブルクを拠点とする南西ドイツ放送交響楽団がその最右翼なのではないかと思います。このオケは、ロスバウト、ブール、コルド、ギーレンといった名指揮者たちをシェフに迎え、特に現代音楽の分野で輝かしい業績をたくさん残してきました。ことにミヒャエル・ギーレンとは、数々の現代曲のみならず、ベートーヴェンやブラームス、マーラー、ブルックナーといった古典的なレパートリーでも優れた演奏を繰り広げ、幅広い人気を得たのは記憶に新しいところです。

           そのギーレンが1999年に首席のポストを辞した後は、フランス人指揮者シルヴァン・カンブルランが10年近くにわたってこのオケを率いてきました。カンブルランというと、今年のパリ国立オペラとの来日公演での「アリアーヌと青ひげ」でも一躍有名になりましたし、何と言っても読売日響の次期シェフ就任が決まったことで私達日本人にはとても馴染み深い存在となってきました。これまで、彼らのディスクは、ヘンスラーからベルリオーズやドビュッシー、そしてメシアンの録音が発売されて好評を得てきましたが、先日、メシアンの管弦楽曲集という最新のディスクが発売されました。私もこの南西ドイツ放響は大好きなオケですし、今年が生誕100年だったメシアンの音楽は何かと耳にする機会も多くて丁度関心も高まっていたので、8枚組でちょっと値段は張りましたが思い切って入手してみました。

           まだそのうちの2枚を聴いたところなのですが、今日聴いた「トゥーランガリラ交響曲」は鮮烈な演奏でした。いや、鮮烈というと、ちょっと違うのかもしれません。以前は演奏するのも聴くのも大変な超難曲として知られ、取り上げられることだけでも「大事件」として扱われたこの曲ですが、カンブルランと南西ドイツ放響の演奏を聴いていると、あらゆる技術的な困難は克服されていて、時に楽しげに演奏しているようにも思えるようなリラックスした雰囲気さえ感じて驚きました。単に表面を整えるだけでなく、この音楽から自由に感じたままを自然な言語として表現してみせる姿勢からは、まるで慣れ親しんだ古典派の交響曲を演奏しているかのような親密さを感じます。「愛の音楽」のとろりと溶けそうな官能も、淫靡さのまったくない清潔な抒情が好ましいですし、打楽器が打ち鳴らされ金管が咆哮して音の洪水のようになる音楽においてさえも、響きはきちんと整理されて美しいバランスが保たれていて感心するしかありません。今やこの曲の専門家とも言えるロジェ・ミュラロのピアノもみずみずしいタッチが美しいです。クラヴリーのオンド・マルトノは録音のせいか、ちょっと引っ込み気味ですが、オケの音色との融合ぶりが美しいです。

           そもそも、トゥーランガリラというのは、「愛の歌」や「喜びの聖歌」、「時間」、「運動」、「リズム」、「生命」、「死」を意味する言葉だそうですが、このとても美しくて楽しいカンブルランからの演奏からは、最後の「死」という言葉の重みは余り感じられなくて、果たしてそれでいいのだろうか?という気もしなくもないのですが、とても音楽的に充実した演奏ですし、ラテン系の血を引くメシアンの、あるいはカンブルランの「死生観」というものが、このような力と輝きに満ちたものであるのなら、それはそれでいいのかなと思っています。ともかく柔らかくて気持ちの良い素敵な演奏でした。

           私は、この曲、あまりたくさんは聴いてはいない(シャイーとナガノくらい)ので、他の演奏との比較はあまりできませんが、このカンブルランの演奏の聴きやすさ、楽しさはかなりのものだと思います。また、1枚目の「忘れられし捧げ物」「キリストの昇天」「ミのための詩」も、同傾向のとても美しい演奏でした。私はまだメシアン初心者なので、これからメシアンとの邂逅を楽しみにしたいと思います。

          珠玉の小品 その21 〜 ゴダール/ジョスランの子守歌

          2008.12.28 Sunday

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            ・ゴダール/ジョスランの子守歌
             オンドレイ・レナルト指揮スロヴァキア放送響 (Avex)

             →詳細はコチラ(HMV)

             恥ずかしながら、有名な「ジョスランの子守歌」を最近になって初めて聴きました。かなり昔から代表的な子守歌の一つとして広く知られる曲ですから、私も名前くらいは知っていたのですが、なぜか聴く機会に恵まれませんでした。ディスクでも、例えばリタ・シュトライヒやプラシド・ドミンゴ、あるいはカザルスやゲリー・カーなど名演奏家の録音はあるようですが、普通は「子守歌全集」とか「おやすみクラシック」とか、「郷愁の唱歌集」みたいな企画モノでしか聴けないからなのだと思います。ふだんはこういうCD買いませんから。

             私自身の反省として、そのテのアルバムに入っている曲というと、通俗的で余り価値のない音楽として軽視してしまいがちです。しかし、曲名を知らない状態でこの子守歌がラジオで流れるのを聴き、ああ、味わいのあるとても良い曲だなあと思ったら、それが「ジョスランの子守歌」だと知ってとても驚きました。そして、今までずっとこの曲を知らずに来たことがもったいなく思われました。

             冒頭から日本の例えば「五木の子守歌」を思わせるような短調の哀しげな旋律が一しきり歌われた後、安らぎに満ちた優しい歌が心にすんなり入ってきて心地良いです。西洋音楽にあまり触れたことのなかった時代の日本でもこの曲が特に愛好されたのは、どこか日本人の感性を共鳴させるような旋律の美しさのためなのでしょう。何となく懐かしいような、親しみのある音楽です。

             古くから唱歌として歌われた「ジョスランの子守歌」の歌詞は以下のようなものだそうです。

            ジョスランの子守歌 近藤朔風詩

             むごきさだめ 身に天降(あも)りて
             汝(なれ)と眠る のろわれの夜(よ)
             胸のうれい ゆめに忘れん
             祈らばや ゆらぐ星のもと
             夢のまきまきに あこがれよ み空へ
             眠れいとし子よ 眠れ今は小夜中(さよなか)
             あゝ夢ぞいのち マリアよ守りませ

             愛のつばさに おおわれつ
             わが来(こ)し方(かた) かえりみれば
             流れたゆとう 波にも似たり
             あわれいく日(ひ) 祈りに泣きぬ
             夢のまきまきに あこがれよ み空へ
             眠れいとし子よ 眠れ今は小夜中
             あゝ夢ぞいのち マリアよ守りませ

             こういう文語調の格調高い詩を読むと、明治の頃、日本が西洋音楽を懸命に取り入れようとした頃の雰囲気を垣間見るような思いがします。そして、やはり子守歌にはマリア様がとってもよく似合うというところでしょうか。

             この「ジョスランの子守歌」は19世紀後半にフランスで活躍したゴダール作のオペラの中の曲ということですが、「ジョスラン」というオペラは今演奏される機会はあるのでしょうか。一体どんなオペラだったのか、ちょっと気になります。

             さて、私が聴いたレナルト指揮のNaxos原盤の演奏では、冒頭はフルート2本の淋しげな重奏で始まり、主旋律はヴァイオリン独奏でしみじみと歌うようにアレンジされていますが、伸びやかで潤いのある歌を聴かせてくれて素晴らしい演奏で、とても気に入って何度も聴いています。

             世知辛いニュースばかりで重くなった心を、この心優しい歌で鎮めて眠りにつきたいと思います。

            裁判と音楽 〜 團伊玖磨/歌劇「ひかりごけ」

            2008.12.27 Saturday

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              ・團伊玖磨/歌劇「ひかりごけ」
               木村俊光(Br)吉田伸昭(T)
               現田茂夫指揮神奈川フィル、二期会合唱団他

               →詳細はコチラ(HMV)

               いよいよ来年(2009年)から裁判員制度が実施されます。いよいよと言っても別に嬉しいわけでもないですけれども、とにかく始まります。

               クラシック音楽の中でも、裁判の場面が描かれた曲はいくつかあります。例えば、バッハの受難曲にはイエスの裁判の場面がありますし、ベートーヴェンの「フィデリオ」のフィナーレにも悪人ドン・ピツァロが裁かれる場面があります。他にも「アイーダ」や「アンドレア・シェニエ」など法廷が舞台として登場するオペラがあり、いずれもとても劇的な効果の上がるハイライトシーンの一つとなっています。

               そんな中でも、團伊玖磨が残したオペラ「ひかりごけ」(1972)の第2幕は、扱われた題材の深刻さと、「人が人を裁く」ということの意味を聴く者に厳しく問いかける問題作として、際立った存在ではないかと思います。

               このオペラは武田泰淳の同名の小説を原作としたもので、1944年に実際におこった「死体損壊事件」を題材として扱っています。つまり、難破した漁船の船長が、漂着した場所で次々に死んでいった船員の肉を食べて命をつないで生還し、帰還した後に船長の「食人」が発覚して逮捕されたという事件です。そして、裁判の結果、刑法で罪が規定されていなかったのでこの船長の「食人」は罪として認められず、さらに心神耗弱が認められて懲役1年の刑に処されたとのことです。(くわしくはコチラ)

               オペラの第2幕(約25分)は、船長を裁く法廷の場面になっています。カニバリズムという一種タブーとも言える重いテーマを扱った裁判で、しかも、日本語の歌詞が全部聴き取れるものですから、CDを聴いていると胸に突き刺さるような言葉がポンポン耳に飛び込んできて驚きます。例えば、「自分の経験したことのないことをいろいろと想像するのはよくありませんよ。」「あなた(検事)にしてもらいたいことがある。私を食べてもらいたい。」という船長の歌には異様な重みがあり、本で読んだ時とは比べものにならないほどの衝撃を受けてしまいます。

               また、裁判の場面の音楽としてはよくあるように、傍聴人の叫びが合唱で歌われているのですが、これもまた異様に耳に残ります。例えばこんな感じです。

              検事:我々は国家社会を代表してお前を裁いているのだ!
              合唱:コッカ、シャカイ!コッカ、シャカイ!

              検事:お前のやったことは日本人の尊厳を傷つけることなんだぞ!
              合唱:ソンゲン!ソンゲン!

              検事:お前はそんなことをしでかして天皇陛下に申し訳ないと思わんか!
              合唱:テーンノウヘイカ!テーンノウヘイカ!

               特にこの最後の合唱は耳にこびりついて離れません。この曲を知ってからというもの、いとやんごとなき方のお姿をテレビで拝見すると、この合唱が頭に浮かんで仕方がありません。(オペラの方は昭和の話ですけれども)

               そんなことはともかく、このオペラを知るまでは、團伊玖磨というと「ぞうさん」や「花の街」、あるいは「夕鶴」くらいしかイメージがありませんでしたが、このようなシリアスな内容で前衛的な手法を用いた音楽を残していたというのは大変な驚きでした。また、内容のぎっしり詰まった非常に心に訴えかける力をもった優れた音楽であるように私には思えます。今年、日本のオペラ界ではツィマーマンの「軍人たち」が上演され、来年にはリゲティの「グラン・マカーブル」までが上演されるようになったのですから、この日本のオペラ史に残る問題作「ひかりごけ」も是非とも上演してもらいたいものです。神奈川フィルが演奏会形式で上演した際のCDは、木村俊光氏の船長が素晴らしい歌唱ですし、現田茂夫指揮のオケも大熱演、これは記念碑的な録音だと思います。

               この曲を聴いていると、もし自分がこんな裁判に裁判員として同席していたら、どんな気持ちで被告という人間と、そして罪と向き合わねばならないのかと考えると頭がクラクラします。裁判員制度は、司法をより国民に身近なものにするということだとか、国民の社会通念を判決に反映させることだとか、裁判のスピード化を図るということが導入の目的だと言われていますが、ほんとにこの制度でそれらの目的が果たせるのでしょうか。そもそも社会通念って一体何なんでしょうか。始まってみないと分からないかもしれませんけれど、でもやはり、「人が人を裁く」というのはとても難しいことのように思えます。

              カラインドルー/絶滅に寄せる哀歌(DVD)

              2008.12.25 Thursday

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                ・カラインドルー/絶滅に寄せる哀歌
                 エレニ・カラインドルー(P)、マリア・ファランドゥーリ(Vo)
                 アレクサンドロス・ミラ指揮アテネ・カメラータ管弦楽団 (ECM)

                 →詳細はコチラ(HMV/Tower)
                 

                 最近、DVDを買わなくなりました。新譜が出ても、ああこれはまたハイビジョンリマスターのブルーレイディスクが出るだろうと思ったり、じっくり見るのもしんどいしなあと思ったりで手が出ません。一連のバーンスタインのDVDや、クーベリックの「我が祖国」など見たいものはたくさんあるのですが・・・。

                 しかし、これだけはどうしても見たいというタイトルが出たので久々にDVDを買いました。それが、ギリシャの女流作曲家エレニ・カラインドルーの作品を集めて2005年5月にアテネで開かれたコンサートのライヴDVD「絶滅に寄せる哀歌」。音だけは既にCDで2年前にリリースされており、私の愛聴盤の一つになっています。ECMの名物社長マンフレッド・アイヒャー自らがアーティスティック・ディレクターとして監修をおこなっています。

                 エレニ・カラインドルーというと、ギリシャの巨匠映画監督テオ・アンゲロプロスの映画の多くで音楽を担当していることで有名な作曲家です。(フェリーニとロータみたいな関係でしょうか)このコンサートでも、当時封切られたばかりの「エレニの旅(原題は「泣く大地」)」を始め、「永遠と一日」「シテール島への船出」「蜂の旅人」「こうのとりたちずさんで」「霧の中の風景」「ユリシーズの瞳」の映画音楽が演奏されています。そのほか、チェーホフの「かもめ」や、「トロイの女」といった舞台作品につけた音楽も演奏されています。

                 アンゲロプロスの映画は、ギリシャでは、「子供が寝付けなくて困ったらアンゲロプロスの映画を見せろ」なんてことが言われるほど、台詞は少なく、異様ともいうべきロング・カットの多い静かな作品ばかり。音楽を担当するカラインドルーはその脚本制作の段階から作曲を始めるというくらいで、その映画の「静謐さ」を際立たせるのには彼女の音楽が不可欠の存在になっています。

                 大体の曲が、空五度の静かなロングトーンから始まり、アコーディオンやチェロ、あるいはコンスタンティノープル・リラ(胡弓みたいな楽器)で、さみしいさみしい嘆き節のような旋律が歌われるのがほとんどなので、「子供が寝付けなくて困ったらカラインドルーの音楽を聴かせろ」と言っても良いほど。そんな音楽を1時間40分にもわたって延々コンサートでやるわけですから、よほどカラインドルーの音楽、あるいはアンゲロプロスの映画が好きな人でないと、これを聴き通すのはきついだろうと思います。

                 かく言う私は、アンゲロプロスの映画は2本、「永遠と一日」と「エレニの旅」しか見ていないのですが、そのどちらもが私にとってはとても大切な映画ですし、そこでのカラインドルーの哀しく美しい音楽には非常に心を惹かれてサントラを持っています。ですから、このライヴ映像、最初から最後までカラインドルーの音楽を満喫しながら楽しみました。本映像自体は、オーソドックスな演奏会中継のスタイルですが、舞台に設置されたスクリーンに、音楽に合わせて「永遠と一日」や「エレニの旅」のシーン(ほとんど静止画)が映されるのを見ると、映画のいろいろな場面を思い出して泣けてしまいました。

                 それにしても、「絶滅に寄せる哀歌」というのは何とも奇妙なタイトルです。カラインドルーがどんな思いをこめてこんなタイトルをつけたのかは本当のところはよく分かりませんが、しんと静まり返った沈黙の中で奏でられるうら寂しい音楽を聴いていると、ずっと廃墟の風景を見せ続けられているような気分になって、「廃墟」と「絶滅」という言葉が私の心の中で共鳴します。かつては繁栄を極めたけれど、何度も「絶滅」を経験したギリシャの国の人にしか見えない独特の心象風景なのかとも思いますが、日本人の私にもその哀感にはどこか不思議な共感を覚えます。

                 世の中、急激な不景気に見舞われて大変なことになっています。下手をすると、我々の文明が滅んでしまうんではないかと思うくらいに、危機が叫ばれ不安が煽られています。そんな状況で、このカラインドルーのDVDを見ていると、「まだまだ大丈夫、絶滅まではいかない、何とかなる」と思えたり、漱石の「三四郎」に出てくる広田先生が三四郎に言ったように「(この国は)亡びるね」という言葉を思い出したり、なかなかに複雑な思いがこみ上げてきました。

                 また、静かなアンゲロプロスの映画を見たくなりました。

                ルトスワフスキ/20のポーランドのクリスマス・キャロル集 ヴィト指揮

                2008.12.23 Tuesday

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                  ・ルトスワフスキ/20のポーランドのクリスマス・キャロル集
                   アントニ・ヴィト指揮ポーランド国立放送響ほか
                   オルガ・パシェチュニク(S) (Naxos)

                   →詳細はコチラ(HMV/Tower/Amazon)

                   私が毎日聴いているネットラジオOttava、クリスマス直前で最近ヘビー・ローテーションなのが、このルトスワフスキの「20のポーランドのクリスマス・キャロル集」です。

                   仕事をしながら、ソプラノ独唱とオケ、合唱による音楽が聴こえてきて「ああきれいな曲だなあ」と思って曲目を見ると、このルトスワフスキの曲のどれかだったという場面が頻出しているので、かくなる上は!ということでCDを買ってきました。

                   この美しくも愛すべき曲集は、タイトルの通り、19世紀に出版されたポーランドのクリスマス・キャロル集からルトスワフスキが集めてきた旋律が素材になっています。もともとは彼のキャリア初期1937年にソプラノ独唱とピアノのために書かれたものですが、彼の晩年(1990年)にオケ伴奏に編曲したのだそうです。

                   どの曲も、純朴で清らかな美しさに満ち溢れた音楽たち。20世紀を代表する硬派な現代音楽の大家が、こんな作品を残していたというのには大変驚きます。そして、静かに「救いの御子」の生誕を祝う本来のクリスマスを思わせる敬虔な音楽を聴いていると、「低炭素化社会って何のこと?」と思わずにはいられない電飾のまばゆいイルミネーションや、これでもかこれでもかと私達の消費欲をかき立てようとする喧騒に囲まれた私達のクリスマスって、やっぱり何か違うんだろうなあと無宗教の私が考えたりしています。また、この曲が書かれた1937年のポーランドというと、ナチスによる侵攻前夜ということになりますが、ルトスワフスキはどんな思いをこめて筆をとったのだろうと考えたりしてしまいます。

                   このディスクでも、私のお気に入りの指揮者アントニ・ヴィトがとてもあたたかく美しい演奏を繰り広げています。パシェチュニクの清楚なソプラノ独唱も、コーラスもとても美しいです。また、カップリングの「ラクリモーサ」も大変に美しい曲で、聴けて良かったと思います。

                   私は、昨年のクリスマスはチャップリンのスマイルを聴いて「希望」を聴き取ろうとしましたが、今年は、このルトスワフスキを聴きながら、今流行の谷川俊太郎の詩じゃないですが「今生きているということ」を実感して、ささやかな幸せを感じたいと思います。

                  フォーレ/レクイエム エキルベイ/アクサントゥスほか

                  2008.12.23 Tuesday

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                    ・フォーレ/レクイエム、ラシーヌ賛歌
                     サンドリーヌ・ピオー(S)/ステファン・デグー(Br)
                     ロランス・エキルベイ指揮
                     アクサンチュス、フランス国立管メンバー(naive)

                     →詳細はコチラ(HMV/Tower)

                     アクサントゥスという合唱団は、今までマーラーのアダージェットなどの編曲モノを集めたディスクや、リストの「十字架への道」、ブラームスの「ドイツ・レクイエム」のピアノ伴奏版などのディスクを聴いてきました。何よりピッチが純正で響きが透明で美しいので、私のとても好きな合唱団です。

                     そのアクサントゥスの新盤は、フォーレのレクイエム(オリジナル1893年版)。ソプラノ独唱に、私の大好きなサンドリーヌ・ピオーが起用され、「ピエ・イエズス」を歌っているというので楽しみにして聴いてみました。室内オケはフランス国立管のメンバー、バリトンはステファン・デグー、指揮はいつものロランス・エキルベイです。

                     人海戦術に頼らず36人という少人数で歌いながら、とても透明で、しかもあたたかさを決して失わない響きがとても美しく、ステンドグラス越しに聖堂に差し込んでくる陽光を見るかのような思いで聴きました。あの美しいサンクトゥスでの、まるで少年合唱団のようなピュアで繊細な歌が、のびやかで清楚なヴァイオリン・ソロと絡み合うさまは官能的ですらあります。まあ、あまりに予想通りというか、予定調和的というか、いかにも「癒し」系の雰囲気に満ちた音楽には違いないですが、でも、やはりこの団体の美しい歌声を前にすると、ごちゃごちゃとめんどくさいことを言うのも野暮な気がします。本来レクイエムという典礼音楽の持つ死者への追悼・鎮魂という目的から自由にはばたき、天国という楽園への憧れや親しみを感じさせるフォーレの音楽の特質を十二分に楽しませてくれる演奏だと私は思います。

                     そして、何より楽しみにしていた、ピオーの歌う「ピエ・イエズス」。ヴィブラートを抑えた清楚な歌い口は予想通りでしたが、最近よくありがちなのっぺりした美声の垂れ流しなどではなく、声に仄かな翳りが含まれていて、それが自らの心の内に向かって静かに語りかけるような抑えた表情を思わせてとても印象的でした。この曲は、死者の永遠の休息をイエスに祈る歌ですが、彼女の歌からは死者の魂を胸に抱く優しい手つきを思わせ、そこはかとない官能の匂いを感じさせて胸を打たれました。ここを聴くためにだけでも、このディスクを買う価値は十分にあったなあと満足しています。ピオーの歌、是非ともナマで聴きたいです。

                    ヘラー/交響曲第1,2番 ボイマー指揮バンベルク響他

                    2008.12.22 Monday

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                      ・カール・ヘラー/交響曲第1、2番
                       ヘルマン・ボイマー指揮バンベルク響、バイエルン州立フィル (Ambitus)


                       年末になって、CDショップではクリアランス・セールがおこなわれています。1枚200円とか500円で珍しい輸入盤が売られたりするものですから、ついつい財布の紐が緩んでしまいます。

                       今日取り上げるディスクは、カール・へラー(1907-1987)の交響曲2曲を収録したドイツのAmbitusレーベルのものです。通常4,000円程度のものが500円で売られていました。かつてフルトヴェングラーがそのチェロ協奏曲を取り上げたことで知られる作曲家の知られざる交響曲を聴いてみたくて、ついつい買ってしまいました。

                       ヘラーは、1907年バンベルクに生まれた作曲家ですが、教育者として名を馳せた人で、晩年はミュンヘン音楽大学の学長をしていた人です。(Wikipedia記事はコチラ)

                       さて、ヘラーの交響曲第1番は、第2次世界大戦中の1942年に書かれた曲で、3楽章からなる演奏時間50分を要する大曲です。フォルムは簡素で、当時ドイツで流行していた即物主義的な要素も感じさせる部分もありますが、ハ短調を主調とした明確な調性を持っていて後期ロマン派的な抒情に覆われているのが大きな特徴です。魅力的な旋律が綿々と歌われることはないのですが、どことなくシュレーカーの音楽を思わせるような豊かで色彩感のある響きの中で、繊細で美しいモチーフがゆったりと流れていきます。第1楽章で、ショスタコの8番にも共通するような宿命的な重々しいリズムを金管と打楽器が奏したり、スケルツォで多少苦味の効いた諧謔が聴かれるものの、至って平安なムードの牧歌的な趣を感じさせる音楽になっています。20世紀半ばに書かれた曲とは思えないほどに、耳当たりがよく聴きやすい。

                       ところで、ヘラーは、当時はフランクフルトにおり、度重なる連合軍の爆撃に怯えながらこの曲を完成させたということです。つまり、ヒトラー率いるドイツの形勢が徐々に悪くなり、しかもユダヤ人排斥も大変な勢いで進んでいた暗黒の時代。なのに、何なのでしょうか、この曲にあふれる穏やかで緩んだ空気は。戦争への怒りやら不安やら、あるいは哀しみやら痛みやらは感じませんし、ドイツの国家体制に向けた「戦意高揚」の御用音楽でさえもありません。ヒトラーやゲッペルスがこの曲を聴いても、恐らく気に入らなかっただろうと思います。ならば、ヘラーは一体どのような気持ちで、何を表現したくてこの曲を作ったのでしょうか。

                       ライナーノートにはヘラー自身の言葉が引用されています。
                      狂暴な戦争の時代、音楽は私にとって真の慰めだった。私は、絶え間ない混乱にうまく釣り合うようなものを探して見つけた。そうして、長大な交響曲第1番が出来上がったのである。

                       つまり、あまりに悲惨で恐ろしい現実の反動で、このような緩くて耽美的な音楽を書いて精神のバランスを保ったということなのでしょうか。自らのうちにこもって美の世界をただひたすら漂い続けるような音楽からは、まるで目の前にある状況からひたすら目を背けようとする強い意志を感じたりもします。

                       そんなヘラーの創作行為が正しいものだったかどうかはこの際余り重要ではないでしょう。戦争、そしてファシズムによって生命と尊厳が危機に直面している時に、人間はこのような「創作活動」をすることもあるという、重要な「証言」になるのではないかと思います。戦後、1950年にカイルベルト指揮で初演された時には、聴衆はどのような反応を示したのか気になるところです。

                       さて、交響曲第2番の方は、1972年、彼がミュンヘン音楽大学の学長時代に書かれた曲で、「モーツァルトへのオマージュ」と題された、これまたはっきりとした調性に基づいたとても聴きやすい曲です。大規模な第1番と比べると、演奏時間も36分ほどでさほど編成も大きくなさそうです。開始早々、モーツァルトの交響曲第40番冒頭の弦の刻みのリズムと、あの「ため息」の主題の断片が引用されているのが耳に止まりますが、全編、こちらも優美とも言えるような耳に心地良い音楽が展開されています。

                       何の不安もなく穏やかに聴ける音楽からは、現状のあたたかな肯定のような気分を感じるのですが、考えてみれば、この当時のドイツといえば、シュトックハウゼンやらノーノ、ツィマーマン(70年没)など、ゲンダイオンガクの作曲家たちが活躍していた訳で、このアナクロニズムは何なのだろう?と思います。それも「良し悪し」ではなくて、彼がその時代、目覚しいドイツの高度経済成長の中で、何を感じながら音楽を書こうとしたのかに私はとても興味があります。

                       演奏は、これらの曲にふさわしい穏やかな雰囲気と豊かな音色が良かったです。特に第1番を演奏しているバンベルク響、やはりいいオケだなあと思います。

                       ヘラーの音楽、彼が得意だったオルガンの曲なども同じレーベルから出ているようなので、機会があれば聴いてみて、この不思議な作曲家の「心」を感じてみたいと思います。また、このディスク、例えば、ドイツの音楽や歴史にものすごく強い興味を持っている友人に、「こんなのもあるよ」という程度のノリで聴かせてあげたいです。