【ディスク 感想】ショスタコーヴィチ/交響曲第1,15番 〜 マーク・ウィッグルスワース指揮オランダ放送フィル

2014.02.28 Friday

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    ・ショスタコーヴィチ/交響曲第1,15番
     マーク・ウィッグルスワース指揮オランダ放送フィル(BIS)

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    【ディスク 感想】ねえ興奮しちゃいやよ 〜昭和エロ歌謡全集〜 1928-32

    2014.02.25 Tuesday

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       ・ねえ興奮しちゃいやよ 〜昭和エロ歌謡全集〜 1928-32
       二村定一、淡谷のり子ほか(ぐらもくらぶ)

       →詳細はコチラ(HMV/Tower/Amazon)




      【演奏会 感想】クリストフ・プレガルディエン(T)/ミヒャエル・ゲース(P)  −別れと旅立ち シューベルトの歌曲−  (2014/02/20 トッパンホール)

      2014.02.21 Friday

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         ・クリストフ・プレガルディエン(T)/ミヒャエル・ゲース(P)
         −別れと旅立ち シューベルトの歌曲−
         (2014/02/20 トッパンホール)





        【ディスク 感想】ブリュノー/レクイエム 〜 モルロ指揮モネ劇場交響楽団・合唱団ほか

        2014.02.19 Wednesday

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          ・ブリュノー/レクイエム
           リュドヴィク・モルロ指揮
           ベルギー王立モネ劇場交響楽団・合唱団
           ミレイユ・ドランシュ(S) ノラ・ギュビシュ(Ms)
           エドガラス・モントヴィダス(T) ジェローム・ヴァルニエ(Bs)
           ベルギー王立モネ劇場少年少女合唱団、フランデレン放送合唱団

           →詳細はコチラ(HMV/Tower)
           

           

          【ディスク 感想】Songs for Mahler in the Absence of Words 〜 ニューヨーク・ピアノ四重奏団

          2014.02.18 Tuesday

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            ・Songs for Mahler in the Absence of Words
             ニューヨーク・ピアノ四重奏団 (Urlicht)

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            【ディスク 感想】ラスカルとスパロー 〜 アントニオ・ポンパ・バルディ(P)

            2014.02.17 Monday

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              ・ラスカルとスパロー
               アントニオ・ポンパ・バルディ(P)(Steinway & Sons)

               →詳細はコチラ(HMV/Tower)



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              2014.02.15 Saturday

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                ・みうらじゅん
                 (あの人ではありません)







                【演奏会 感想】シューベルト/歌曲集「冬の旅」 〜 クリストフ・プレガルディエン(T)ミヒャエル・ゲース(P) (2014.02.14 フィリア・ホール)

                2014.02.15 Saturday

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                  ・シューベルト/歌曲集「冬の旅」
                   クリストフ・プレガルディエン(T)ミヒャエル・ゲース(P)
                   (2014.02.14 フィリア・ホール)







                  【ディスク 感想】デルヴィト名義のルトスワフスキのポピュラーソング集 〜 ズベル(Vo) バウアー(Vc) ドフノウスキ(P & com)

                  2014.02.13 Thursday

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                     ・デルヴィト名義のルトスワフスキのポピュラーソング集
                     アガタ・ズベル(Vo)、アンドレイ・バウアー(Vc)
                     セザリ・ドフノウスキ(P & Computer) (Accord)

                     →詳細はコチラ(HMV/Tower/NML)

                    佐村河内守氏に思う その2 −長い長い長い長いポエム−

                    2014.02.12 Wednesday

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                        佐村河内守氏のゴーストライター騒動からここ何日か、何だか気分がどんよりと曇ったまま、ずるずると来てしまいました。

                       このモヤモヤの正体は何だろうかと考えているのですが、最終的には、佐村河内守氏名義の音楽が偽りの音楽だったと知ったことに起因する残念な気持ちということに尽きます。

                       この事件について、あれからもいろんな人が数多くコメントをしていて、特に音楽関係の方々の間からそれぞれの立場から論点がたくさん出て来ていて、それらを見ていると何だかとても複雑な事件が起こったようにも思えてしまいますが、音楽業界の外の一般人からすると、結局のところ、今回の騒動の本質は、佐村河内守氏のおこなった明白な「詐欺行為」であり、まず解決しなければならない問題は、今回の件に驚き、失望し、傷ついてしまった人たちがたくさんいるということに尽きると考えています。勿論、金銭的な損害を被った人たちもいる。それ以外の論点については、今回の騒動によって関係者が取らなければならない責任が何であって、それらの責任が誰に属するものなのか、その責任を具体的にどういう形で取るのかがはっきりしてからじっくり考えても良いのではないでしょうか。

                       例えば、人は音楽の代わりに物語に感動するのかという話から「音楽と物語」論議がよくおこなわれていて、私もついそこに首を突っ込んだりしていますが、どうせ結論なんか出る訳ない。後でそのことについて少し触れますが、今は「物語だっていいじゃない」くらいのところで止めておかないと、無限ループになってしまって時間の空費になってしまう。事態が落ち着いてから存分に議論すればいいことだと思います。
                       
                       また、佐村河内氏に利用された新垣氏を擁護するため「現代音楽の勉強をした作曲家なら、佐村河内名義の曲程度なら誰にだって書ける、ほんとはもっと凄いんだ」なんて事件の本質とは全然関係ない議論もちょいちょい見かけますが、これもさして実りある結論に至る話とは全然思えません。どんなに新垣氏が優れた音楽家で、とてもいい人であったとしても、特に子供たちや社会的弱者、そして被災地の人たちを欺く行為に加担してしまった事実は消せないので、新垣氏もある程度の責任を負わなければならないのは世間一般の常識と思われます。

                       ということで、物語論議や、新垣氏擁護で時間を費やしていると、音楽関係者あるいはクラシック音楽ファンは内輪で一体何をやってるんだと、音楽を知らない人たちにはまったく理解してもらえないのではないかと思います。

                       それよりも「佐村河内事件の本質は詐欺である」というところに立ち帰り、なぜ詐欺を防げなかったのか、何が問題だったのかを見極め、これからどうすれば二度と同じようなことが起こらないようにできるかを真剣に考え、そしてできるだけ早く行動に移せるように考えることが必要だと思います。

                       では、なぜ佐村河内氏の詐欺行為をここまで増長させてしまったのか。「プロ」ならば即時に見破れるような綻びを気づけるチャンスは何度でもあったはずなのに、しかも、たくさんのプロが関わっていたのに、どうして見抜けなかったのか。CDを発売した日本コロムビア、そしてドキュメンタリーを放送(制作は外注だった模様)したNHK、その他、佐村河内氏を「現代のベートーヴェン」だとか「希望の交響曲」だとか言って持ち上げていた音楽関係者やメディアの方々は、今、まさにその「なぜ」を究明することで頭がいっぱいで、佐村河内氏への賠償請求などを含めて、相当にタフな対応を迫られているのだろうと想像します。そして、きっと各サイドから、反省の弁や、今後の取り組みの説明がなされるであろうと思います。

                       では、私たち一般ピープルには何か責任はないのでしょうか?レコード会社やプロモーター、あるいは放送業界が悪い、お涙頂戴の作りもの美談に騙されて、それを無批判に商品として市場に出した人たちだけが全面的に悪いのでしょうか?

                       まあこういう書き方をしているのですから想像がつくと思いますが、私は、聴き手側にも問題があっただろうと思います。

                       ただし、前述のように「音楽よりの物語を聴いて感動していたから」ということが問題だったとは思いません。確かに、一部の熟練した聴き手たちは、あらゆる物語も排除し、ただ純粋に音を聴く能力を身に着けているのでしょうけれども、ごく一般的にはそれはとても難しいこと。私も、まず何が「物語」なのか定義を明らかにすべきだとは思いますが、例えば、作り手側のエピソードや宣伝文句だけでなく、音楽以外のものをすべて物語と呼ぶのであれば、それを聴く私という聴き手側にも「物語」があって、それをまっさらにリセットして聴くということは難しい気がするからです。聴き手として、何か具体的な思い出が詰まった音楽、それを聴くということ自体が自分のアイデンティティを示すという音楽であれば、それらはとりもなおさず「物語をもった音楽」であるということになります。

                       だから、そう考えると、やはり「物語」に焦点を当てて考えを進めるのは違う気がします。

                       そこで、私はちょっと別の視点から「ポエム」というキーワードに注目して考えようとしています。

                       人気コラムニストの小田嶋隆さんが、「最近、日本がポエム化している」という指摘をなさっていて、先日、NHKの「クローズアップ現代」でも取り上げられたとのこと。

                       ポエムとは、小田嶋氏の朝日新聞のインタビューでの定義を借りれば、「ポエムは英語で詩。けれども、この本の中では、詩ではない。例えば飲食店の壁を飾る、人生を鼓舞しようとしたらしい筆書きの単文。住宅や大学を売り込む際の、美麗な感じを目指したと思われる改行の多いうたい文句。感情に流れ、『何か』になりきれなかったことば」とのこと。

                       また、インターネットで調べた結果出て来た定義は「詩や歌詞、あるいはそれらに出てくるような、日常語としてはあまり用いられないような語句が多用される傾向を意味する語。具体的には、ブログやSNSなどにおける「自分語り」や、飲食業界、マンションのキャッチコピーなどを指すことが多い」とあります。

                       このところ、日本の至るところで「ポエム」が溢れ返っていると言います。本来、ポエムが棲息する場は、個人のブログや日記などですが、このところはもっと棲息範囲が広がり、政治の世界にまで及んでいる。例えば、少し前の野田元首相とか、最近の安倍首相(施政方針演説での「やれば、できる」なんかもそう)もポエムをたくさん撒き散らしているし、最近で最も印象的なのは東京五輪招致の言葉たちで、「今、ニッポンにはこの夢の力が必要だ」みたいなキャッチコピーが街中で見られましたが、これもれっきとしたポエム。

                       私は、聴き手側の「ポエム化」があの曲のヒットを生み、「ポエム化」しているがゆえに、結局は佐村河内の詐欺行為、その増長を止められなかったことのではないだろうかと直感的にですが考えています。

                       何より、佐村河内氏名義の音楽のCDや演奏会の宣伝以上にポエムにまみれていたのは、実はアマチュアの聴き手側のブログやSNSというネット上の言論空間でした。多くの人たちがあの交響曲に感動し、次から次へと「ポエム」を量産していきました。(ええ、私の2つの記事がポエムだというご指摘も正々堂々と受け容れますとも。まったく構いませんよ、はい)

                       あの交響曲などを聴き、その音楽と、佐村河内氏がフィクションとして喧伝していた嘘の境遇や、曲にまつわる物語に心を奪われていてもたってもいられなくなり、自分の感動を何かに表現せずにはいられない。だから、ツイッターやブログなどで感想を書く。

                       でも、残念なことに私たち素人は言葉を操る技術を持っていないから、どんどん感情に流され、表現しようとしたものはまさに「何か」になりきれぬままポエムとしてネット上の空間に登場し、あっという間に拡散される。すると、別のウブな素人の聴き手は、その熱に浮かされたような夢中になったポエムにまた感動し、自分もこのポエムを生み出した音楽に触れてみたいと思う。そしてCDを聴き、演奏会に足を運び、感動に打ち震えて涙を流す。感動の連鎖、連鎖、連鎖・・・。

                       8月のミューザでの演奏会は、まさにそんな空間でした。超一流の海外オケが来た時でも、こんなに静まり返った中で聴衆が息を潜めて80分の交響曲に耳を傾けているなんてことはほぼないんじゃないかというくらい、ものすごく集中力の高い客席でした。泣いている人がいたかどうかまでは分かりませんが、半分以上の人はスタンディングオベーションで音楽を称えていたし、演奏会後のロビーは異様といってよいほど上気した雰囲気に包まれていた。そして、みんなが心にポエムを宿し、何ものにもなれない未分化な言葉たちがネット上に流れていった。

                       どうしてみんなポエムを書きたがるのか。まず第一義的にはネットがあるからですが、それ以上に、誰もがネットで「発信者」として、自らの受けた感動を、いち早くまさにレポーターのように伝えたいという自己顕示欲と善意の入り混じったとても複雑な動機があるのではないかと思います。そして、もしかしたら、「ああ、こんな素晴らしい感動を自分のものだけにするのはもったいない」という善意からこの交響曲の素晴らしさを説くのかもしれない。

                       しかし、自分の身に引き寄せてもとてもよく分かることなのですが、ポエムというのは小田嶋氏の言葉を借りれば、「うまくいえなくて、“自分”が漏れ出してしまっているもの」であり、「書き手の「私の」とか「私が」などが文章からあふれ出してしまっているもの」でありますから、感動に打ち震えた素人の感想文は、おおむねポエムになってしまいがちというのは紛れもない真実です。そうでなくとも激しく情に訴える音楽ですから、分がその情にどれほど突き動かされたかを語るうちに、それがうまく表現できないままに結局は「私」が溢れた強烈なポエムができあがっていく。祈り、希望、涙、原爆、ハンディキャップ、運命、そういった言葉にまみれた何ものかで膨れ上がったポエム、そして、自分がいかにこの音楽に深く、誰よりも強くコミットしているのかを何とか知らしめたいと、どんどん強い言葉を使った猛烈なポエムができあがる。そんな言語空間のど真ん中にあの交響曲がデンと鎮座している訳です。そう、あの交響曲は、私たちのポエム量産機でもあったのではないでしょうか。

                       それ自体が決して悪いとは思えないのですが、このポエム旋風が思わぬ副作用をもたらした。恐らく、作り手側の方も、実はこのポエム旋風の渦中にあって、すべての人たちが何となく「触れたくない本質」から目をそらせようという空気を醸しだしたのではないでしょうか。あの自称作曲家は見た目から何からどうも怪しい、この曲の出自は大丈夫かみたいなことを違和感として持っていたプロや上級ファンがいたようなのに、それをなかなか言い出せない雰囲気が出来上がってしまっていた。また、交響曲に心酔していた人たちのある種の連帯感が、「この曲に感動しないなんて人は人間としてどうよ」「この曲を馬鹿にする自称クラシック通の頭の固さは笑える」みたいな雰囲気をもった言説を生み、結局自分に同調できないものを排除する方向へと向かったのも大きい。

                       音楽関係者やテレビ制作者は、この全国ポエム化現象を目の当たりにして、佐村河内守氏名義の音楽が、まさに「ポエム化」の象徴として完全に受け容れられていることを痛感した。純粋にこの人の音楽をもっと聴き手に伝えたいと思った人もいるだろうし、ここで儲けずにいつ儲けるんだと浮き立った人たちもいたでしょう。そこからさらに佐村河内ブランドを大きくしていくことがいろいろな意味において「良いこと」だと考えた。そう、基本的には善意の行動だった(と思いたいという側面もありますが)。

                       聴き手側も、ただ難解で耳触りな音にまみれた現代音楽からはずれ、決して聴きやすくはないにせよ、そして物語を孕んだきわどい音楽であるにせよ、心に響く美しい音楽が生まれたことを喜び、素晴らしい音楽と出会った感動を表現したい、そして、自分の感動を少しでも多くの人と共有したいとポエムを大量生産した。これもまた善意の行動。

                       そして、それらの善意の連鎖が、結局、作り手側が佐村河内氏の(今から思えば)脇の甘い「偽装」に気づくチャンスを奪ってしまった。最近、AERAや朝日新聞の記事には、「実は違和感はあった」「取材したがおかしいと思って記事掲載をとりやめた」などという言葉が見られますが、たとえ佐村河内氏の素性に疑念をもった人がいたとしてもそれを公にすることを許さない空気が出来上がってしまっていたのかもしれません。もしそうなら「見て見ぬふりをした」人たちもいたということになってしまいます。

                       では、ポエムが悪者なのかというとそうではないと思います。言い訳じみた言説かもしれませんが、ポエムがポエムとして機能し、それを楽しみ生産している人たちの同人誌的な閉じた空間の中で流通しているだけなら問題はないと思います。私のようなポエマーが、自分が書いているものがポエムであるということを自覚しないままにポエムワールドを形作っていると、そこにつけいって悪用しようとする輩、今回の例だと佐村河内守氏ですが、そういう悪いやつが出てくる「つけいる隙」を作ってしまう、ということが良くないのだろうと思います。

                       しかも悪いことに、ポエムというのは、小田嶋隆氏の言葉を借りると、「書き手が何かを隠蔽したいと考えている時に立ち現れる。書きにくいことを書かねばならない時や、書くべきことを書かずに済ませようとする時、散文は、詩の似姿をとることで、その場をしのぎにかかるのだ」という側面があるとのこと。なるほどそうかと思えるのは、つまり、聴き手側の心の中に、佐村河内氏がでっち上げた嘘の物語、つまり、全聾という身体的ハンディキャップ、あるいは、被爆二世、広島、福島とかいう、日本人の多くにとってはトラウマになっているような悲劇に絡めて作り上げられた嘘で感動したのかもしれないという、いささかの後ろめたさのようなものを隠蔽する気持ちがあったからこそ、ポエムを書いてしまったのかもしれないという気もします。絶対に自分は違うという人たちもたくさんいるでしょうが、私の中にそうした「隠蔽」の意図がなかったかどうかというとちょっと自信がない。なので、私自身は、佐村河内氏がでっち上げた嘘の物語のどこかに心を動かされたのだけれど、それが露呈するといやだから、いかにも音楽そのものに感動したかのようにポエムを作ったのだと言われても反論できません。

                       佐村河内氏は、そうして生まれてくる「隠蔽としてのポエム」を最大限に利用したのではないでしょうか。これだけのフィクションを付加したら、普通、何か自分の素性に疑問を持っても気づかないか、気づいても見て見ぬふりをするだろうとにらんだ。そして、その思惑がまんまと当たった。純粋に音楽を紹介したかった人たち、音楽に感動を求めている人たちを騙すなんていうのは赤子の手をひねるようなこと。この音楽で儲けている人たちには文句は言わせない。自分の言うことを聞いて絶対服従し、口の固いゴーストライターがいる。それで交響曲の初演からあれよあれよという間に、時代の寵児としてスターダムにのし上がった。きっと笑いがこみあげて止まらなかったことでしょう。自己プロデュース能力にすぐれた詐欺師。

                       というようなストーリーなんじゃないかと、妄想かもしれませんが、私は推測しています。それが幾許かでも真実を突いている点があるとするなら、やはり私たち聴き手の側にも、この詐欺に気づけなかった責任の一端はきっとある。共犯。義手のヴァイオリニストの少女、両親を亡くし「レクイエム」を贈られた少女たちを騙した。普段クラシック音楽を知らない人たちがせっかく自分たちにも近づくことができる音楽があると喜んだ人たちを傷つけた。

                       無論、自分たちも傷ついた。嘘を見抜けなかったことで、自分は一体音楽に何を聴いているのか、自分はそこそこ音楽を分かっているつもりだったけれど結局は物語だけに感動していたんじゃないかと頭を抱え、すっかり自信を失ってしまった。自分が受けた感動を打ち消す必要はないとは思っていても、「あいつらの文章読んでクソワロタ」「あんたもアフォやったね」というようなネットの書き込みを見たらさすがにこたえる。

                       そこに、世界的な名声を得ている人気指揮者が「騙される方が悪い」という痛烈なコメントをする。それはあくまで音楽の専門家に「どうして嘘を見抜けなかったのか」という疑問を呈するものでしたが、それを読んでいる聴き手も、それが自分たちに直接向けられた言葉ではないと知りつつ、「ああ、やっぱりあの交響曲は全然ダメな曲なんだ。私らも騙された側、私らも悪いんだ」と受け止めてシュンとしてしまう。

                       その萎んだ気持ちが、冒頭でいう残念な気持ちの正体なのだと思います。

                       では、そのポエム空間を悪用する動きをどうやって防ぐかを考えなければならない。でも、今の私にはよく分かりません。これから考えたい。ただ言えることは、ポエムを吐き出す時には「これはポエムだ」と自覚して吐き出すこと、ポエムを吐いた時に自分が何かを隠蔽していないか確認すること、そして、自分にポエムを書かせた音楽自体に何か疑念が生じた時には、十分に調査をした上で、恐れず、論理的にそれを表明し、直接間接に対象にそれをぶつけることというような抽象的なスローガンくらいでしょうか。そうやって自分たちの行動を冷静に見て、自覚的に次の行動をすることでしか、自分たちの身は守れないんじゃないでしょうか。

                       というような、長い長い長い長い(安倍首相の国会答弁の真似です)ポエムを書いてみました。推敲もせず、ただ思ったことを垂れ流しているので、これこそ「ザ・ポエム」。どっかから「クソワロタ」という声が聞こえますが、まあ、この期に及んでそんなこと怖がっていたら何にもできないので(というかそんなに注目されてないと思うので)このまんまポエムを掲載することにします。

                       おわり