ハンス・ロット/管弦楽のための組曲ホ長調

2007.12.13 Thursday

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    ハンス・ロット/管弦楽のための組曲ホ長調
    アントニー・ヘルムス指揮ハーゲン・フィル


     ハンス・ロット(1858-1884)というオーストリアの作曲家の名前は、ここ数年の間に日本でも随分と知られるようになってきました。それは、彼が残した交響曲がCDや演奏会を通して人気を博しているからです。

     ロットの交響曲は、1989年、作曲後100年以上を経て再発見され初演された曲で、彼とウィーン音楽学院での同級生で下宿のルームメイトでもあった、グスタフ・マーラーの交響曲を先取りしたような楽想を多く含んでいます。いや、私はマーラーが第2,3,5番の交響曲でロットの楽想を「引用」したのだと考えています。

     しかし、マーラーが本当に「引用」したかどうかはさておいたとしても、大編成のオケを用いたスケールの大きな「未来志向」の音楽は大変魅力的なのは確かで、だからこそこの曲が人気曲の仲間入りしつつあるのだと私は思います。

     さて、ロットの交響曲はもう既に6種類のCDが出ているのですが、その他に彼が残した管弦楽曲や弦楽四重奏曲もちらほらとCD化されてきました。

     今日取り上げるのは「管弦楽のための組曲」で、最近"初演"された時のライヴ録音です。

     この組曲は、「前奏曲(遅すぎずNicht zu Langsam)」と「終楽章(ゆっくりLangsam)」の、2曲からなる約8分の短い曲で、1878年の作曲の実技試験のために書かれたものだそうです。

     前奏曲は、ワーグナーの「神々の黄昏」の「夜明け」の冒頭の雰囲気を思わせるような曲で、管の霧のかかったようなハーモニーの中からチェロがのびやかに歌う旋律が立ち上って来ます。しかし、この旋律どこかで聴いたことがあるなあと考えてみると、何と、マーラーの交響曲第1番「巨人」の中の旋律とほとんど同じなのです。第4楽章の388小節でホルンが吹く"レーラーシーファ#ーソーファ#ミラー"がそれで、最後の最後、奏者が立ち上がって高らかに「勝利」を歌い上げるところです。偶然の一致とは思えない訳で、ああ、マーラーはこの曲も知ってたんだなあ・・・と思わずにはいられません。

     さて、曲は、静かで厳かな雰囲気を持ったまま次の曲へと移行しますが、金管が堂々としたコラールを歌い上げてオルガンのような分厚い響きを作りあげていて、あの交響曲のフィナーレを彷彿とさせる雰囲気があり、なかなか魅力的な音楽です。勿論、全体にあくまで「習作」の域を出ない曲であるには違いありませんが、ロットという作曲家が、いかに魅力的な音楽的才能を持っていたのかということ、いかにマーラーに大きな影響を与えたかを実感させてくれる貴重な音楽だと思います。

     ところで、このCDについてです。
     CD発売元のドイツのAcousenseというレーベルからは、他に2枚のロットの作品のCDが出ていて、日本のCDショップでも入手可能ですが、何故かこのCDだけは輸入販売されておらず、私はネットショップを通じて購入しました。

     それから、ロットの曲とカップリングされているのは御丁寧にもマーラーの「巨人」です。ただし、演奏されているのはハンブルク初稿版で、当然「花の章」つき。こうやってロットとマーラーを並べて聴けるのはとてもいい企画だし、演奏もなかなか熱がこもっていて、いい味を出してくれていて好感が持てます。(「巨人」のハンブルク稿は、今まで聴いた演奏(若杉、ルード)よりも好きです。)

     このCDリリースを機に、この組曲もナマで聴きたいもんです!!

    クルサーク/マーラーの主題による変奏曲

    2007.12.12 Wednesday

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      ヤン・クルサーク/マーラーの主題による変奏曲
      リボール・ペシェク指揮プラハ交響楽団


       チェコの作曲家クルサークという人に、マーラーの5番のアダージェットを素材にした、オーケストラのための変奏曲という作品があることは雑誌の記事で知っていました。その音源を何とか入手できないかと長年ずっと捜していたのですが、先日、たまたま立ち寄ったショップで偶然入手することができました。

       この曲は、「セリエ技法を用いてアール・ヌーボーとモダンスタイルの発展的な結合」を目指し、1960年代初頭に書かれたとのこと、約20分、フルオーケストラで演奏されます。

       件のアダージェットは、短い導入から数分してほぼそのままの形で数分演奏されますが、一区切りつくと、アダージェットの旋律やモチーフがどんどん変形され始めていきます。その過程で、ウェーベルンがよく使った点描法のような音空間へと変容したり、ペンデレツキの音楽のような特殊奏法が頻出する場面がでてきますが、なだらかな起伏を描きながら、マーラーの旋律が愛でるように「変奏」されていて、クルサークという人がマーラーの音楽を愛していることが感じらたように思います。セリエ技法に則った作品にしては、題材が題材だけにロマンティックな風情もあり、とても聴きやすい作品になっていて、私はとても気に入りました。

       私がもし指揮者だったら、マラ5メインの演奏会の前プロでこれやります。マーラーの音楽は、現代作曲家の作品の中でかなり引用されているので、(ルジッカ、シュネーベル、リーム、トロヤーン、べりオ、シュトゥップナー等)そういう作品とセットでマーラー・チクルスをやるなんて企画、いいなあと妄想しています。

       ところで、このCDに収められたペシェック指揮の演奏は、1968年8月末のものだそうです。つまり、チェコへのソ連介入のあった頃、「プラハの春」運動の終わりの時期。クルサーク自身の書いたライナーによると、この時期は「幸せな時期の終わり」なのだそうで、そんな時期にマラ5のアダージェットをモチーフにした音楽を演奏していた訳です。その時代の雰囲気が、この演奏のどこに反映されているのかは私には分かりませんが、ミラン・クンデラの小説でも読みながら聴けば少しは感じられるでしょうか。

       貴重な音楽のドキュメントとしても価値のある録音ではないかと思います。今日エントリーしたCDに収録されている曲では、ヴァーツラフ・ノイマン指揮による「弦楽のためのインベンション」が美しい曲でした。クルサークは、近作のCDも他に出ていて「グリーグへのオマージュ」なんて曲もあり、いつかそのうちに聴いてみたいと思っています。

      珠玉の小品 その13 〜 プーランク/即興曲「エディット・ピアフへのオマージュ」

      2007.11.26 Monday

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        プーランク/即興曲第15番「エディット・ピアフへのオマージュ」
        田部京子(P)

        詳細はこちら

         エディット・ピアフの映画が公開されています。ヒットしてるんでしょうか。マリア・カラスとか、ジャニス・ジョップリンだとかのように、その一生を映画にしてみたいと思わせるディーヴァはいるものですね。

         さて、今日はフランスの作曲家プーランクが、交友のあったエディット・ピアフへの賛美として書いたピアノの小品で、いくつかある即興曲の第15番にあたります。

         出だしからしてまさに「パリの秋」の音楽。(旋律がコスマの「枯葉」に似てます。)
         そこはかとない甘い哀愁が立ち昇る旋律が物憂げに、でもどこかに憧れをもって歌われますが、香水やタバコの香り、パリのカフェを思い起こさせるようなアンニュイな雰囲気があって、まさに「粋」を感じさせる、とても素敵な曲だと思います。この曲のエンディング、音楽はなぜか重く沈むように消えていきます。エディット・ピアフの人生の悲劇を暗示しているのでしょうか。

         私はこの曲をもっぱら田部京子のピアノで楽しんでいます。タッチが少し重めなので、例えばロジェのように音楽の流れが軽くなり過ぎず(ロジェの演奏、これはこれでとても良い演奏だとは思っていますが)、少し肉感的なエロスを音楽から感じるからです。

         今の季節、グールドのブラームスの間奏曲などと併せて、必ず聴きたくなる演奏です。この曲が収録された「ロマンス」というアルバム全体も私の愛聴盤のひとつです。

         死ぬまでに一度は弾いてみたい曲でもありますが、さてどうなりますことやら。

        クレーメル&ツィマーマン デュオ・コンサート(横浜)

        2007.11.19 Monday

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          ブラームス/ヴァイオリン・ソナタ第2,3番
          フランク/ヴァイオリン・ソナタイ長調
          ギドン・クレーメル(Vn)/クリスティアン・ツィマーマン(p)
          (2007.11.18 横浜みなとみらいホール)



           「世紀のデュオ」(招聘元談)の演奏会を聴いてきました。

           フランクのソナタの演奏は、きっといつまでも忘れられない素晴らしい体験となりました。こんなフランクを聴くのはまったく初めてでした。

           彼らは、互いを主張して丁々発止のやりとりをするのでも、二人が一体となった交響的な融合空間を作り上げるのでもなく、微妙な距離を保ちつつ、「寄り添いあう孤独」とでもいうべき「対話」を紡ぎ出していました。

           まず、クレーメルの怜悧な音色のヴァイオリンから聴こえて来たのは、ロマンティックな歌い回しや激情的な身振りとはかけ離れ、「循環形式」などという言葉を感じさせない、いわば「断ち切られた歌」でした。

           例えば、第3楽章のクライマックスで2度繰り返されるあの情熱的なパッセージは、ずぶずぶと身を浸したくなるような官能の謳歌などではなく、分断されてしまった歌の欠片たちの行き場のない「叫び」の塊となり、まるでナイフのような鋭さをもって私の胸に刺さってきて、ひどく心を打たれました。

           そして、ツィマーマンのピアノは、クレーメルの「断ち切られた歌」の欠片をかき集めて貼り合わせ、従来の他の演奏にあるような「有機的な」音楽の構成を作ろうなどという空しい作業はせず、繊細でクリスタルのように輝く美しい音色と、優しい空気を感じさせるフレージングでもって、歌の欠片をまるでガラス細工を扱うかのような細心の注意を払いながら手にとり、それらを愛撫するような優しくデリケートな伴奏を聴かせてくれました。

           しかし、彼のまなざしは、その優しさの奥にどこかひりつくような哀しみを秘めていて、決して軟弱なものなどではなく、それも私の心にはとても響いてきました。

           結局のところ、彼らの音楽から聴こえてくるものに共通するのは、ベクトルは違いこそすれ、いわば「孤独の痛み」であったように思うのですが、それらが互いに寄り添って音楽を奏でているということが私の心を共鳴させたのだと思います。本当に哀しいくらい美しい時間を過ごしました。

           アンコールはカンチェリの曲と、モーツァルトのソナタから。前者はちょっとしたユーモアを感じさせる「静か」な曲で、単音のキャッチボールをしているような佇まいが面白かったです。そして、モーツァルトは、今度は旋律のキャッチボール。カンチェリとの見事なコントラスト。超一流の野球投手二人が互いに変化球などを駆使してやっているキャッチボールみたいで、まあものすごく高度な技巧が必要なことを、いとも軽々と涼しげな顔をして楽しんでいるような趣。何ともチャーミングで楽しいアンコールを満喫しました。

           なお、前半のブラームスに関しては、たぶんすばらしい演奏に違いなく、第2番全体のフレッシュな音色の美しさ、第3番第4楽章の迫力のある協奏が印象的でしたが、私自身、余り曲そのものに魅力を感じないこともあって持て余してしまいました。

           それにしても、この「世紀のデュオ」、また聴かせてもらいたいものです。今度はシマノフスキとかショスタコとかを聴きたいです。

          テンシュテットのベートーヴェン「第9」('92)を聴いて

          2007.11.15 Thursday

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            ベートーヴェン/交響曲第9番二短調Op.125「合唱」
            クラウス・テンシュテット指揮ロンドン・フィル管&合唱団
            ポップ、マレイ、ロルフ=ジョンソン、パペ
            (1992.10.8 ロンドン・ロイヤル・フェスティヴァルホールでのライヴ)


             ロンドン・フィルの自主制作盤シリーズの最新4枚組セットを買いました。
             テンシュテットの生涯最後の「第9」となった演奏を聴きたいがために買ったのですが、(新鋭ユロフスキの指揮するショスタコの14番も魅力ですが)その「第9」のディスクを今聴き終えたところです。

             演奏当時、既に古楽奏法によるベートーヴェン演奏も多くなりつつあったにも関わらず、基本的には遅めのテンポをとり(第2楽章の繰り返し大幅カットでも全体で約72分弱)、大編成の分厚い響きを聴かせる「従来型」のベートーヴェンの演奏スタイルですが、ティンパニの激しい強打、音を割ったホルンの咆哮が随所に聴かれ圧倒されます。特に、第1楽章の再現部からコーダにかけての高揚など、単純に「凄絶」と言うより、血を吐きながら演奏しているような「凄惨」といっても良いほどの気魄を感じます。

             また、第3楽章での長いフレーズをロマンティックに歌う弦を始め、全体にまさに嵐のように荒れ狂った激しい感情移入が見られ、同時期のあのマーラーの6,7番のあまりに恐ろしいライヴ録音を思い起こさせるような、そして、フルトヴェングラーが現代に蘇ったかのような思いさえ抱かせる(第4楽章の"Vor Gott!!"での大芝居は息をのみます!!)、後期ロマン派のスタイルでの恐竜並みのスケールの大きな演奏です。当時、既に全身を侵していた病魔と闘いながら、演奏家生命のすべてをかけて、一回の演奏会で自身のすべてを燃焼させようとする気概がこのような演奏を生み出したのでしょうか。こんな演奏を続けていては体が持つ筈もなかろうという気もしてしまいます。

             さて、こんな余りにもロマンティックなテンシュテットの「第9」ですが、1箇所だけ、耳を疑うような驚きを感じた箇所がありました。第1楽章の第2主題(第81小節)の木管の音が、ベーレンライター版と同じく"レ"になっているのです。当時はベーレンライター版は未刊行でしたが、その下敷きとなったデル・マー氏の研究結果に基づき、前記の該当箇所の「差異」は、既にグッドマンやマッケラスが録音して音にしていたので、テンシュテットは、おそらく彼の生涯最後になるであろう「第9」の演奏を前にして、スコアを徹底的に読み最新の研究成果も取り入れたのかもしれません。まったく頭の下がる思いです。因みに、第4楽章のアラ・マルチア後のホルンのシンコペーションなど、ベーレンライター版の顔とも言うべき旧版との「差異」はなく、あくまで前記箇所のみが実験的に演奏に取り入れられたということだと思います。

             なお、この演奏、死の前年のルチア・ポップの歌(彼らの「4つの最後の歌」は私の愛聴盤の一つです)と、先日「トリスタン」のマルケ王で名唱を聴かせたパペの若き日の歌が聴けることも貴重です。大変充実した声楽を聴くことができます。

             テンシュテットの「第9」のディスクを聴くのは、85年、91年のライヴに続き3種目ですが、私はこの最後の「第9」が一番好きですし、数ある「第9」の中でも特に好きな演奏の一つです。最近、マッケラスの新盤で今ひとつ乗り切れず、プレトニョフで「ゆあーんゆよーん」した私は、久々に「第9」を堪能して心から感動しました。聴けてほんとに良かったです。マーラーは好きだけどベートーヴェンはねぇ、というような友人に聴かせてあげたいです。

            ソニー&タワレコ スペシャルセレクションに寄せて

            2007.11.12 Monday

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              バーンスタイン/IPO
              「スコープス山のハティクヴァ」ライブ
               マーラー/交響曲第2番「復活」〜最終楽章他



              ブタペストSQ
              ベートーヴェン/弦楽四重奏曲全集



               最近買った2組のCD。
               ソニークラシカルのタワーレコードのスペシャルセレクションシリーズから、世界初CD化となるバーンスタイン/IPOの「スコープス山のハティクヴァ」ライブと、長らく廃盤になっていたブタペストSQのベートーヴェンの弦楽四重奏曲全集(2回目の方)です。

               前者はバーンスタインファンの間で熱望されていたレアものディスクの復刻で、このセレクションシリーズの「目玉商品」として大歓迎され話題にもなっています。バーンスタインの大ファンを自認する私としては、必須アイテムゆえ即購入です。

               後者は、所謂「不滅の名盤」扱いされていたものが長らく廃盤になっていたもので、これでようやく入手可能になりました。しかも、前に発売されていた時からは約1万円の大幅値下げ。余りの高値に買うのを躊躇っているうちに入手しそびれていたので、こちらも買わない訳にはいきません。

               本シリーズでは、その他に長らく廃盤になっていたものが合計10点発売されましたが、我々ユーザーの立場からすると、あっぱれタワレコ、よくやった!!と言いたい一方で、原盤を持っているソニークラシカルに対しては「不甲斐なさ」を感じます。特にブタペストSQのベートーヴェン全集に対して、です。

               というのは、こういうコラボレーション企画が持ち上がらないと、ブタペストのベートーヴェンのような基本アイテムさえも再発できんのか、と思うからです。タワレコ側から復刻の要望が出されて発売が実現したように見えるのです。

               少なくとも日本では、多くの評論家から「定番」として崇められていたこのブタペスト盤、雑誌や書籍の評を見て最近になって実際に聴いてみたいと思った方や、私のように、以前はあまりに高くて手を出せずにいた方はきっと多いだろうに、廉価での再発売もないばかりか、廃盤で店頭から消えてしまっているような状況は、いわば「夏目漱石の小説が入手できない状態」みたいなものじゃないかと思うのです。

               勿論、ブタペストの演奏が最高かどうか、とか、そういう次元の話は横に置いておいて、我々ユーザーが供給者から与えられる「選択肢」の問題のお話です。

               まあ、それだけメジャーなレコード会社の経済状況が悪くて、ブタペストのベートーヴェンよりはヨーヨーマのクロスオーヴァーアルバムが優先、という「市場原理」が働くのは、利潤追求のためには当然ということなのかもしれませんけれども。

               タワレコはユニバーサルやビクターともコラボして復刻に積極的に取り組んでいるので、これは他のレーベルでもおそらく状況は似たり寄ったりなのでしょう。

               しかし、グダグダとは言いつつも、こういう企画のおかげで、欲しいCDが入手できるようになったことは素直に歓迎しなければなりません。いずれもまだ全然聴けていないので楽しみに聴きたいと思います。そして、これからもこういう企画をずっと続けて「お宝」を発掘してほしいし、復刻したディスクもあんまり簡単に廃盤にしないで欲しいものです。そうでなければ、ネットで非圧縮音源をいつでも入手できるようにして欲しいです。

               がんばれ、クラシック・レーベル!!

              プレトニョフのベートーヴェン全集に想う

              2007.11.01 Thursday

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                ベートーヴェン/交響曲全集
                ミハイル・プレトニョフ指揮ロシア・ナショナル管


                ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

                 今月の音楽雑誌でほぼ総スカンを喰らったプレトニョフのベートーヴェン全集を聴いて、私の頭の中では、前記の中原中也の詩の言葉が渦巻いていました。

                 音楽の内容と同期しているとは思えない意味不明のテンポや強弱の変化、突然出現する長大な「間(ま)」、そして、楽譜にあるはずもないフェルマータなど、「珍演・奇演」と呼ばれる演奏にしか聴けないような強烈な場面に出会うたび、それを面白がったり腹を立てたりするでもなく、ただただ、「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」な気分を味わっておりました。

                 中でも一番びっくりしたのは「田園」ですが、1,8番を除けば、どの曲も聴いていて「驚きの連続」の演奏でした。ライナーを読むと、その「驚き」こそがプレトニョフの狙いだったようです。

                 彼の主張は、ベートーヴェン自身のピアノ・ソナタの演奏はいつもとても即興的で、極端な緩急や強弱の変化やルバートを多用した人を驚かせるようなものだったらしい(べートーヴェンの弟子ツェルニーの発言を引用しています)、だから、交響曲もそのように演奏すべきだ、ということのようです。ベートーヴェンの音楽の、一般的に受け入れられきた「普遍的な解釈」や、時には、一般的な音楽理論から見た音楽の「論理」や「生理」に逆らってまでも、聴く者にベートーヴェンの音楽の「驚き」を与えたいということなのでしょう。

                 その意味では、なるほどどの曲も、表題を「驚愕」としたくなるような、非常にユニークな演奏を「やりたい放題」やっている点、まことに天晴れです。オケも、プレトニョフのあまりにユニークな指示に嬉々として従い、細かい傷はあるものの、指揮者の解釈の具現化に最大限の協力をしているように思えます。

                 でも、一リスナーの立場からすると、やっぱりこの演奏はヘンです。
                 
                 前記のような外見のヘンテコさもありますが、新版の楽譜に忠実な部分と手を加えた部分が混在していたり、なぜか対向配置をとっていたり、何かにつけどうも一貫したポリシーを見出しにくい不可解さがあります。

                 ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん・・・

                 中原中也の詩に倣えば、観客である私は鰯になって喉を鳴らしながら、サーカスの奇妙な空中ブランコを唖然と見ているしかありません。

                 なんで彼らからこういう演奏が出てきたのかは、私のような凡人には分かりません。ただ、一ついえることは、この演奏(解釈)は高度に戦略的であるということ。

                 今年の1月に聴いたポゴレリッチのベートーヴェンのソナタの24,32番のライヴは、プレトニョフに負けるとも劣らない、非常な珍演・奇演でした。しかし、その演奏には、彼自身の切羽詰った、こうでなければならないという、抜き差しならないような内的欲求がありました。あまりに異様な演奏に、それがまた痛々しくもあったのですが、プレトニョフの演奏には、そんな切羽詰ったような切実感は感じません。

                 「最近の市場マーケティングの調査結果によれば、リスナーにこういう"ショック"を与えることで、これこれの利益が見積もれる」というような市場原理を考慮して設計した演奏のようにも感じます。それはそれでかまわないのですが、そうした目的を掲げて描かれたベートーヴェンが、現代の社会の何かを如実に反映しているとしたら、その社会自体が、彼らの演奏のように、何か歪な不思議な様相を呈したものなのだ、というのが、プレトニョフが表現したかった「警鐘」なのでしょうか・・・・。

                 でも、その一方で、単純にピアノを弾く時の感覚を持ち込んで、ピアニスティックにオケを扱ってみたというだけなのかもしれませんし・・・。

                 いろいろと考えさせてくれる演奏ではありました。
                 どれも好きな演奏では決してありませんが、ところどころふるいつきたくなるくらいに魅力的な場面があったりもして面白かったので、中古屋には売らないと思います。

                 このCDを聴く目的には、ベートーヴェンの演奏の今後を占いたいということもありましたが、それは演奏の余りのユニークさゆえ果たせませんでしたが、まだまだベートーヴェンの音楽って、現代の我々にとってアクティブであり続けているのだなあと思います。
                 
                 やっぱりベートーヴェンは凄い、です。

                珠玉の小品 その12 〜 カスキ/前奏曲(管弦楽版)

                2007.10.31 Wednesday

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                  カスキ/前奏曲Op.7(管弦楽編曲版)
                  レイフ・セーゲルスタム指揮ヘルシンキ・フィル

                  試聴はコチラで

                   ヘイノ・カスキ(1885-1957)は、シベリウスと同じ日に亡くなったフィンランドの作曲家。

                   つい先日(9/20)没後50年の命日を迎えた訳ですが、ピアノ曲以外はほとんど知られていないせいか、当ブログにコメントを頂いたこともあるsuomestaさんの「スオミ・フィンランドの音楽&文化」で、舘野泉氏の弾くピアノ作品集のCDが取り上げられたくらいかもしれません。ただ、彼のピアノ曲には結構人気はあるようで、楽譜が容易に入手できるようですし、舘野氏のCDは現役で発売されていて、ミクシィにもコミュがあったりもします。

                   さて、この前奏曲も、もともとはピアノのために書かれた曲ですが、セーゲルスタムの/ヘルシンキ・フィルの"Scandinavian Rhapsody"というアルバムには、管弦楽に編曲されたバージョンが収められていて、私はこれを非常に愛聴しています。

                   この曲の魅力は、とにかく旋律が美しいの一言に尽きるでしょうか。
                   
                   冒頭から、うつむき加減の、でも、情熱を帯びた「憧れ」のような旋律があふれ出てきて、作曲者の心のうちを打ち明けられたような、そんな想いにかられます。聴いていると、心なしか体温が上昇するのを感じますが、やがて、高まった思いを静かに回想して思いに耽るような佇まいになり、最後は柔らかく曲が閉じられます。原曲のピアノ版のライナーノートには、この曲に対し「宗教的雰囲気のある曲」という評がありますが、確かに、その沈潜には「祈り」の雰囲気を感じます。

                   私のお気に入りの指揮者セーゲルスタムは、この曲でも、たっぷりオケを鳴らして熱っぽいロマンを歌い上げています。フィンランドの曲にしては「地球温暖化」を思わせる解釈ですが私は大好きです。(彼の師であるパヌラ指揮のナクソス盤はあっさりしていてこちらが本筋かも・・・)

                   このオケ版、日本で演奏されたことはあるのでしょうか?アンコールか何かでやったら、いい感じで演奏会を締められそうな気がします。もっとも、曲の題名は「前奏曲」ですけれど・・・。

                  私の愛聴盤 その3 〜 モーツァルト/交響曲第29番 ベーム/VPO

                  2007.10.26 Friday

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                    モーツァルト/交響曲第29番イ長調K.201
                    カール・ベーム指揮ウィーン・フィル


                     私の愛聴盤、また初発がLPの古いディスクです。
                     モーツァルト18歳の時の交響曲を、録音当時86歳のベームが指揮した演奏です。期せずしてベーム死去直後に追悼盤として発売されたものです。

                     この曲の冒頭、本来は爽やかで活気のある快活な曲として演奏されるべきですが、ベームは非常にゆっくりとした一歩一歩踏みしめるようなテンポで演奏しています。それは、70年代のDVDでの映像や日本でのライヴとも共通する解釈ですが、この録音では、彼の死の1年前のスタジオ録音ということもあるのでしょうか、全体にわたって、より落ち着きのある深沈たる音楽がゆったりと展開されます。そして、ウィーン・フィルの純度の高い美しい響きやしなやかな歌がとても魅力的です。

                     抜けるように青く高い秋空を見上げていたら、ゆっくりとぽっかりとした雲が流れている、そんな景色を思わせるようで、私は秋になるとよく聴くディスクです。

                     こんなベームの解釈もいまとなってはロマン的に過ぎて「誤り」とさえ思えますが(ベームの生前、彼が「ロマン的」と評されたことは皆無だったと記憶しますけれど・・・)、音楽的な魅力についてはまったく別の話で、とても素敵な演奏で大好きです。もうこんなモーツァルトを演奏する人もいないだろうなあ・・・。

                     因みに、上記のCD、カップリングの「フリーメイソンのための葬送音楽」、胸をかきむしられるような慟哭の演奏で、これも私の大好きな演奏です。ベームの命日にこの曲を聴いて老巨匠を偲ぶ、という機会も多いです。

                    バレンボイム/ベルリン国立歌劇場 「トリスタンとイゾルデ」

                    2007.10.18 Thursday

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                       男女間の愛には、時として「痛み」が伴うことがあります。それが「道ならぬ愛」であるなら尚のこと、強烈な「痛み」が生じるはず。では、その「痛み」もやはり「癒し得るもの」なのだろうか?しかも「死」ではなくて「生」の中にあっても・・・。

                       今日のバレンボイム/ベルリン国立歌劇場の「トリスタン」の公演を見ながら、私はそんなことを考えていました。

                       私は、このオペラの中のあちこちに「痛み」を感じます。

                       「道ならぬ愛」の袋小路にはまってしまったトリスタンとイゾルデの「痛み」、娶ったイゾルデと忠臣トリスタンの情事の現場を見てしまったマルケ王の「痛み」。彼らの痛みは、トリスタンが死に、イゾルデが死に導かれることで漸く解放される。

                       今まで聴いてきたディスクや、以前見たアバド/BPOの来日公演でのナマでも、その「痛み」を、まさに痛切に感じながらこのオペラに接してきました。

                       しかし、今日の公演では、その「痛み」は十分に感じるものの、私が今まで感じていたものとは、何か質が違うように思いました。

                       その「痛み」が、既に「癒し」を内包したもののように感じたのです。優しい表情をした「痛み」とでもいうのでしょうか。

                       既に愛し合っていたトリスタンとイゾルデは、媚薬をきっかけに互いの「愛」を意識し、「闇」の世界へと迷い込み、愛の官能に溺れると同時に「痛み」に悶え苦しみはするものの、いずれは「死」によって二人の「道ならぬ愛」が成就することを知っていた。死を恐れない彼らにあっては、「痛み」はそもそも癒し得るものという意識なのだから、殊更「痛み」そのものを生々しく表現する必要もないのということなのでしょうか。クプファーの演出が、簡素な舞台装置で余り激しい動きをつけない演出だったので、「痛み」を生々しく感じる場面が少なかったこともそう感じた一因だと思います。

                       こじつけかもしれませんが、クプファーのインタビュー記事にあったとおり、登場人物の誰もが「痛み」の原因となるもの、自分たちを抑圧するものに抗うことなく、自分たちの運命を受け容れてしまっていたことが表現されていたのかという気がしています。

                       私は、もう少し「痛み」を深く味わった上で最後の「愛の死」を聴きたかったですが、こういう「トリスタン」は初めてだったので、貴重な体験でした。

                       演奏そのものは、「超一流の平凡」といいたいところでした。

                       バレンボイムがオケから引き出した響きは、繊細でありながら、しかも、いつも豊かさを失わなわない上質なもので、ワーグナーの書いた魔法のような音の「綾」をたっぷり聴かせてくれました。特に、第3幕の前奏曲のヴァイオリンの透き通った美しい音色は絶品。管楽器の響きも美しく、しかもパワーも十分で、本当に素晴らしいオケだと思いました。バレンボイムも、第3幕のトリスタンとイゾルデの再会の場面に圧倒的なクライマックスを置き、全体のドラマの輪郭をはっきりと見せてくれたのもまさに名匠の技だと思います。

                       歌手では、主役の二人、マイヤーのイゾルデ、トリスタンのフランツも悪くなかったですが、パペのマルケ王は本当に素晴らしかったです。トレケルのクルヴェナールも良かった。

                       しかし、まったく贅沢なことを言わせてもらうならば、10年前に彼らが「ヴォツェック」で聴かせてくれたような、「一期一会」とも言うべき入魂の演奏とは少し距離があったのが残念です。勿論、ルーティン・ワークとは一線を画する超一流の演奏だったのですが、「お望みならアンコールでもやりましょうか?」とでも言いたげな、余裕綽々のバレンボイムのカーテンコールでの姿を見ながら、ああ、この人たちは、これくらいの質の公演をいつもやってるんだなあと思いました。これだけの公演を見せてもらって罰が当たりそうですが、「モーゼとアロン」にしとけば良かったかな?なんて思ったりして。

                       メイド・イン・ジャパンのオペラで、これレベルの上演を「平凡」と呼べるような、そんな日はいつ頃になったら来るでしょうか・・・・。