ジンマン/N響 第1638回定期

2009.01.17 Saturday

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     ・ウェーベルン/パッサカリアOp.1
     ・マーラー/交響曲第10番からアダージョ
     ・R.シュトラウス/交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」Op.30
      デーヴィッド・ジンマン指揮NHK交響楽団
      (2009.1.16 NHKホール )

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    アンスネス ピアノ・リサイタルを聴いて

    2008.10.28 Tuesday

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      ・ヤナーチェク/霧の中で
      ・シューベルト/ピアノ・ソナタ第19番ハ短調D.958
      ・ドビュッシー:前奏曲集より
        ビーノの門、 西風の見たもの 、ヒースの茂る荒地、とだえたセレナード、オンディーヌ
      ・ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第14番嬰ハ短調Op.27-2「月光」
       レイフ・オヴェ・アンスネス(P)
       (2008.10.27 東京オペラシティコンサートホール)


       私の大好きなノルウェーのピアニスト、レイフ・オヴェ・アンスネスのリサイタルに行ってきました。

       彼の奏でるピアノからは独特の「空気」が感じられました。それは時として「静寂」の漂う孤独な空気だったり、時として動きの感じられる「風」だったり、曲想によってスピードや温度を変えながら姿を変えていくのですが、それを手にとってつかんでみようとしても、実体がつかめず私の手からすり抜けていく。すると彼の手から次にまた新しい風が吹いてきて、私の心の中で巻き起こる「景色」が変わっていく。そんな不思議な味わいのある演奏でした。

       アンスネスの音楽から感じられる「空気」は、とても澄んだ透明なものでした。それをノルウェーという彼の出自と結びつけるのは短絡的に過ぎるかもしれませんが、でも、シンプルで飾り気がなく、でもどこかにあたたかみのある人間性を感じさせるような雰囲気から最近流行の北欧デザインの家具を想起したのは事実です。勿論、これまで彼のディスクを聴いてきて感じていたことではあったのですが、やはりナマを聴いてもっと切実に彼の「空気」を感じ取ることができたと思います。

       そんな彼の演奏ですが、お目当てだったシューベルトよりも、ドビュッシーの前奏曲集からの5曲でその美質がとてもよく生かされていたと思います。彼の演奏にある「空気」が、ドビュッシーの音楽にある「アトモスフェール」と共鳴して、ビリビリと振動するのが伝わってくるようで、こちらも心を強く動かされました。これなら抜粋じゃなくて、前奏曲を全部聴きたかったなあと思うくらい。特に「西風の見たもの」の詩情溢れる美しいタッチはまさに夢見心地でした。そして、同様にヤナーチェクの「霧の中で」も、まさに目の前に「霧」が立ち上ってくるような雰囲気に溢れた音楽に感動しました。この2曲だけでも十分に満足できるくらいに素晴らしかったです。

       そして、シューベルトの第19番。透明な音色で淀みなく流動する空気はまさにアンスネスにしかできない演奏ではありましたが、風向や風力のコントロールに失敗したのか、呼吸の浅い音楽に感じられて、ドビュッシーやヤナーチェクほどには魅力のある「空気」は生まれて来ませんでした。特に猛スピードで弾かれた終楽章では表現が上滑りしてしまっていた感もあり残念でした。第2楽章で静謐な孤独の歌が聴けたのは良かったですけれども。

       また、ベートーヴェンの「月光」も、とても見事に弾きこなされていはいたのですが、これからベートーヴェンの音楽の内奥へと分け入ろうとし始めたばかりの「試行錯誤」の手探りの音楽だったような気がします。もう一歩踏み込んで心にぐっと訴えかけてくる何かが欲しかった。でも、まだ40歳にもなっていない彼のことですから、これから経験を積み、彼独自の「風のようなベートーヴェン」に磨きをかけて、さらに説得力のある演奏をしてくれることを期待したいと思います。

       満場の拍手に答えてのアンコールは、ドビュッシー、ベートーヴェン、そしてスカルラッティ。ここでもドビュッシーが素晴らしかったです。彼のドビュッシーのディスクが聴きたいと切に思いました。

       ところで、今回のリサイタルは、ヤナーチェク、シューベルト、ドビュッシー、ベートーヴェンと、はっきりいって意味不明のプログラミングでしたが、演奏を聴いていて、これらの作品の間には、いろいろな対立軸があるのだということに気がつきました。独墺系の音楽の「形式」「抽象」に対する、ヤナーチェクやドビュッシーの「内容」「具象」といった構図。そして、自我の裡へと深く潜ろうとするロマン派への扉を開けようとせんばかりの音楽と、ロマン派を抜け出して自然との接点の中に新たな「自我」を見ようとした音楽。そうしたコントラストが透けて見えてきて面白かったです。

       そして、もう一つ別の視点から見れば、ヤナーチェクとシューベルトは、まだマイナーな存在だったアンスネスを一躍スターダムに持ち上げたおなじみのレパートリー、そして、ドビュッシーとベートーヴェンは最近になって彼が取り上げ始めた新しいレパートリー。過去と未来の自分の狭間に立って、新しい一歩を踏み出そうとする音楽家の生々しい姿を目の当たりにすることもできた演奏会でした。

       私たちと同時代を生きる名ピアニスト、アンスネスの今後により大きな期待を寄せたいと思います。

       因みに、今日の演奏会の模様はテレビカメラが入っていたので、そのうち放映されることと思います。(多分NHK)

      アンドラーシュ・シフ リサイタルを聴いて

      2008.03.11 Tuesday

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         9年ぶりに来日したアンドラーシュ・シフのピアノ・リサイタルを聴いてきました。(於:東京オペラシティ・コンサートホール)

         まず、彼の弾くJ.S.バッハのフランス組曲第5番を聴きながら、私は不覚にも落涙してしまいました。それは、「ああ、生きてて良かった」という喜びに満ち溢れた涙でした。今まさに産声を上げたような生命の息吹を感じさせる瑞々しい音たちが、私の心の中に溜まった「澱」をきれいに洗い流してくれた気がしたのです。こんなに素晴らしい音楽に出会えてよかった、嬉しいと心から思いました。
         次に演奏されたシューベルトの「ハンガリー風メロディ」では、一変して、それこそ「愛を歌えば哀しみになり、哀しみを歌えば愛になる」というシューベルトの言葉をそのまま音にしたような演奏にまた涙しました。いや、号泣したと言った方が良いかもしれません。とにかく今、私の心が激しくシューベルトの音楽を求めているということもあって、「これが聴きたかったんだ」という感動を覚えたせいもあるでしょう。ハンガリーのジプシー音楽に由来する跳ね上げるようなギャロップの伴奏の独特のリズム感に、シフがハンガリー出身者であることを思わずにいられませんでした。本当にいい演奏でした。
         そして、次はまたバッハに戻ってイタリア協奏曲。これも徹頭徹尾、生きる喜びに満ち溢れた演奏で、フランス組曲の時同様、まさに「至福の一時」を過ごしました。第2楽章の決してベタつかない深々とした抒情に心打たれました。
         最後に演奏されたのはシューマンのアラベスク。優しくてちょっとノスタルジックな音色を楽しみながら上気して興奮した心をい時間をかけて沈静させてくれました。とても印象的な演奏会の締めくくり方でした。

         ・・・と書いてきましたが、実を言うと、以上はすべてアンコールの曲目で、何とバッハのフランス組曲もイタリア協奏曲も抜粋ではなく全曲が弾かれたのです。全部で40分以上のアンコールで、終演を迎えたのはもう22時少し前でした。

         コンサート本体の曲目は以下のようなものでした。

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         ・シューマン/蝶々
         ・ベートーヴェン/ピアノ・ソナタ第17番「テンペスト」
         ・シューマン/幻想曲
          − 休憩(20分) −
         ・ベートーヴェン/ピアノ・ソナタ第21番「ワルトシュタイン」
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         これらの曲では、アンコールの時とは若干違う感想を持ちました。

         シフの演奏は、まず一つ一つの音を綿密に分析してそれらに相応しい音色をイメージして、その音色の変化やダイナミズムでもって音楽を構築するような特徴があると思います。たとえて言うなら、楽曲全体がジグゾーパズルで、その構成要素である音符がパズルのピース、そして各ピースそれぞれに精密な色づけと造形をおこなって、それらをぴったりとあるべき形に仕上げてパズルを完成させていく、そんなイメージでしょうか。
         特にベートーヴェンのソナタで、どんなに激しい部分でも一つ一つの音がしっかりとした質量とベクトルを持って明晰に鳴らされているのが印象的でした。しかも、それらの音が何と多彩で豊かな音色で奏でられていたか、それは驚異的としか言いようがありません。ペダルを踏みっぱなしにして敢えて音をぶつけるあたりの音の響かせ方などもとても印象深いものがありました。
         そんなシフの演奏によって、ベートーヴェンの音楽においては最初に提示された「主題」が発展する過程で、自らの中に生まれた「主題」へのアンチテーゼに耳を傾け、完全に足を止めて思索するような場面が、意外に大きなウェイトを占めているのだということがわかりました。暗中模索のまま進む「テンペスト」の第1楽章や、果てしなく自問自答が繰り広げられる「ワルトシュタイン」の第2楽章などでそれは顕著でした。これはそのままシューベルトの音楽の「逡巡」やシューマンの音楽の「狂気」の要素を孕んでいるだけでなく、十二音技法以降の現代音楽さえも予告する音楽だとさえ思いました。それは私にはとても大きな発見で、大いに感動したところです。
         ただ、細部にまで十全の心配りをした緻密な音楽の設計と演奏に感心しながらも、奔放で型破りなベートーヴェンの音楽のはかりしれない強烈なパワー、破壊力、前進力といったものが少し背後へと隠れてしまっているのが私にはほんの少し不満でした。それは物理的な音量の問題ではまったくない(とても豪壮なフォルテでした!!)ですし、とても些細な不満ではありますが。

         一方、シューマンの2曲は、私がシューマンのピアノ曲には不慣れで、自分なりの聴き方を持てていないので、正直言うと「曲自体を理解し切れていない」というのを痛感しました。が、その前提の上で演奏の感想を書くとするなら、やはりここでもシフの演奏のスタンスの基本は上記で述べたことと共通していて、「音色で構築された音楽」を聴いたということでしょうか。それぞれの音、モチーフ、フレーズ、楽章、すべてにおいてどんな音色で弾くのが良いのか、帰納と演繹を厳しく繰り返しながら丹念に構築した音楽。そして並外れた集中力を持って、饒舌なまでにシューマンの音楽からたくさんの切れ切れの言葉を導き出した演奏。私の今時点の感覚では、シューマンの音楽は「あらかじめピースの失われたジグゾーパズル」のようなものであって、その「喪失感」ゆえに美しさがあると感じているのですが、音楽に対して厳しく論理的あるいは倫理的であろうとするシフのアプローチが、シューマンの音楽の「失われたもの」の存在を明らかにしていて秀逸だったと思います。

         そして、これらの非常に理知的な演奏を聴いた後に、最初に書いたような音楽の喜びに満ちたアンコールの曲たちを聴いたわけです。正直言うと、本体の曲だけで演奏会が終わったら、「いい演奏だったけど疲れたなあ」と思いながら帰路に着いたと思いますが、あのバッハやシューベルトを聴いて、些細な不満がすべて消え去ってしまったのです。「終わり良ければ」ではないですが、本当に素晴らしい演奏会だったと思います。

         もう一つ、書いておきたいことは彼の弾いた楽器についてです。シフの音色感を重視した音楽観を体現するには、楽器の選択は大変重要な要素になっていたように思いました。彼は、ピアノの「グローバル化」の象徴であるスタインウェイではなくてベーゼンドルファーを弾いたのですが、そのまろやかで柔和な音色を駆使して、まったく独自の音世界を作り上げていたと思います。そのへんは、以前このブログで書いたシューベルト全集のディスクでの印象と重なるところです。

         ・・・と、書きたいことを書きなぐるばかりで全然言葉を整理できていませんが、いい演奏会を聴けたという大きな満足感に包まれていることは確かです。きっと一生忘れられない演奏会になると思います。私にこんな機会が与えられたのはとても幸運だったと感謝せずにはいられません。シフの大ファンになってしまいました。これからも彼の演奏を聴いていきたいと思います。

        クレーメル&ツィマーマン デュオ・コンサート(横浜)

        2007.11.19 Monday

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          ブラームス/ヴァイオリン・ソナタ第2,3番
          フランク/ヴァイオリン・ソナタイ長調
          ギドン・クレーメル(Vn)/クリスティアン・ツィマーマン(p)
          (2007.11.18 横浜みなとみらいホール)



           「世紀のデュオ」(招聘元談)の演奏会を聴いてきました。

           フランクのソナタの演奏は、きっといつまでも忘れられない素晴らしい体験となりました。こんなフランクを聴くのはまったく初めてでした。

           彼らは、互いを主張して丁々発止のやりとりをするのでも、二人が一体となった交響的な融合空間を作り上げるのでもなく、微妙な距離を保ちつつ、「寄り添いあう孤独」とでもいうべき「対話」を紡ぎ出していました。

           まず、クレーメルの怜悧な音色のヴァイオリンから聴こえて来たのは、ロマンティックな歌い回しや激情的な身振りとはかけ離れ、「循環形式」などという言葉を感じさせない、いわば「断ち切られた歌」でした。

           例えば、第3楽章のクライマックスで2度繰り返されるあの情熱的なパッセージは、ずぶずぶと身を浸したくなるような官能の謳歌などではなく、分断されてしまった歌の欠片たちの行き場のない「叫び」の塊となり、まるでナイフのような鋭さをもって私の胸に刺さってきて、ひどく心を打たれました。

           そして、ツィマーマンのピアノは、クレーメルの「断ち切られた歌」の欠片をかき集めて貼り合わせ、従来の他の演奏にあるような「有機的な」音楽の構成を作ろうなどという空しい作業はせず、繊細でクリスタルのように輝く美しい音色と、優しい空気を感じさせるフレージングでもって、歌の欠片をまるでガラス細工を扱うかのような細心の注意を払いながら手にとり、それらを愛撫するような優しくデリケートな伴奏を聴かせてくれました。

           しかし、彼のまなざしは、その優しさの奥にどこかひりつくような哀しみを秘めていて、決して軟弱なものなどではなく、それも私の心にはとても響いてきました。

           結局のところ、彼らの音楽から聴こえてくるものに共通するのは、ベクトルは違いこそすれ、いわば「孤独の痛み」であったように思うのですが、それらが互いに寄り添って音楽を奏でているということが私の心を共鳴させたのだと思います。本当に哀しいくらい美しい時間を過ごしました。

           アンコールはカンチェリの曲と、モーツァルトのソナタから。前者はちょっとしたユーモアを感じさせる「静か」な曲で、単音のキャッチボールをしているような佇まいが面白かったです。そして、モーツァルトは、今度は旋律のキャッチボール。カンチェリとの見事なコントラスト。超一流の野球投手二人が互いに変化球などを駆使してやっているキャッチボールみたいで、まあものすごく高度な技巧が必要なことを、いとも軽々と涼しげな顔をして楽しんでいるような趣。何ともチャーミングで楽しいアンコールを満喫しました。

           なお、前半のブラームスに関しては、たぶんすばらしい演奏に違いなく、第2番全体のフレッシュな音色の美しさ、第3番第4楽章の迫力のある協奏が印象的でしたが、私自身、余り曲そのものに魅力を感じないこともあって持て余してしまいました。

           それにしても、この「世紀のデュオ」、また聴かせてもらいたいものです。今度はシマノフスキとかショスタコとかを聴きたいです。

          バレンボイム/ベルリン国立歌劇場 「トリスタンとイゾルデ」

          2007.10.18 Thursday

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             男女間の愛には、時として「痛み」が伴うことがあります。それが「道ならぬ愛」であるなら尚のこと、強烈な「痛み」が生じるはず。では、その「痛み」もやはり「癒し得るもの」なのだろうか?しかも「死」ではなくて「生」の中にあっても・・・。

             今日のバレンボイム/ベルリン国立歌劇場の「トリスタン」の公演を見ながら、私はそんなことを考えていました。

             私は、このオペラの中のあちこちに「痛み」を感じます。

             「道ならぬ愛」の袋小路にはまってしまったトリスタンとイゾルデの「痛み」、娶ったイゾルデと忠臣トリスタンの情事の現場を見てしまったマルケ王の「痛み」。彼らの痛みは、トリスタンが死に、イゾルデが死に導かれることで漸く解放される。

             今まで聴いてきたディスクや、以前見たアバド/BPOの来日公演でのナマでも、その「痛み」を、まさに痛切に感じながらこのオペラに接してきました。

             しかし、今日の公演では、その「痛み」は十分に感じるものの、私が今まで感じていたものとは、何か質が違うように思いました。

             その「痛み」が、既に「癒し」を内包したもののように感じたのです。優しい表情をした「痛み」とでもいうのでしょうか。

             既に愛し合っていたトリスタンとイゾルデは、媚薬をきっかけに互いの「愛」を意識し、「闇」の世界へと迷い込み、愛の官能に溺れると同時に「痛み」に悶え苦しみはするものの、いずれは「死」によって二人の「道ならぬ愛」が成就することを知っていた。死を恐れない彼らにあっては、「痛み」はそもそも癒し得るものという意識なのだから、殊更「痛み」そのものを生々しく表現する必要もないのということなのでしょうか。クプファーの演出が、簡素な舞台装置で余り激しい動きをつけない演出だったので、「痛み」を生々しく感じる場面が少なかったこともそう感じた一因だと思います。

             こじつけかもしれませんが、クプファーのインタビュー記事にあったとおり、登場人物の誰もが「痛み」の原因となるもの、自分たちを抑圧するものに抗うことなく、自分たちの運命を受け容れてしまっていたことが表現されていたのかという気がしています。

             私は、もう少し「痛み」を深く味わった上で最後の「愛の死」を聴きたかったですが、こういう「トリスタン」は初めてだったので、貴重な体験でした。

             演奏そのものは、「超一流の平凡」といいたいところでした。

             バレンボイムがオケから引き出した響きは、繊細でありながら、しかも、いつも豊かさを失わなわない上質なもので、ワーグナーの書いた魔法のような音の「綾」をたっぷり聴かせてくれました。特に、第3幕の前奏曲のヴァイオリンの透き通った美しい音色は絶品。管楽器の響きも美しく、しかもパワーも十分で、本当に素晴らしいオケだと思いました。バレンボイムも、第3幕のトリスタンとイゾルデの再会の場面に圧倒的なクライマックスを置き、全体のドラマの輪郭をはっきりと見せてくれたのもまさに名匠の技だと思います。

             歌手では、主役の二人、マイヤーのイゾルデ、トリスタンのフランツも悪くなかったですが、パペのマルケ王は本当に素晴らしかったです。トレケルのクルヴェナールも良かった。

             しかし、まったく贅沢なことを言わせてもらうならば、10年前に彼らが「ヴォツェック」で聴かせてくれたような、「一期一会」とも言うべき入魂の演奏とは少し距離があったのが残念です。勿論、ルーティン・ワークとは一線を画する超一流の演奏だったのですが、「お望みならアンコールでもやりましょうか?」とでも言いたげな、余裕綽々のバレンボイムのカーテンコールでの姿を見ながら、ああ、この人たちは、これくらいの質の公演をいつもやってるんだなあと思いました。これだけの公演を見せてもらって罰が当たりそうですが、「モーゼとアロン」にしとけば良かったかな?なんて思ったりして。

             メイド・イン・ジャパンのオペラで、これレベルの上演を「平凡」と呼べるような、そんな日はいつ頃になったら来るでしょうか・・・・。